それからは真弓の過去の所業を頭の中に封印して、普段通りを心掛けつつ仕事を終えた恭子だったが、結構精神的に疲労して帰宅する羽目になった。しかし調理をした事で気分転換になったのか、緊張が解れて適度にリラックスした状態になる。そこで気分良く帰宅した浩一を出迎えたが、その途端、思わず頭を抱えたくなった。
「……ただいま」
「お帰りなさい」
朝に出かけた時と比べると、明らかに覇気のない浩一の様子に、恭子は密かに考え込む。
(ええと……、何だかもの凄く気落ちしている感じと言うか……、単に疲れているだけかしら?)
ソファーに鞄を放り出し、そのまま座り込んでぼんやりと何かを考え始めた浩一に、恭子は控え目に声をかけてみた。
「あの、浩一さん。お夕飯はどうしますか?」
その声で我に返ったらしい浩一が、恭子に顔を向ける。
「食べるよ? ああ、今着替えて来るから、ちょっと待ってて」
どうやら着替えもまだだと言う事に気付いたらしく、浩一はゆっくりと立ち上がって自室へと向かった。恭子も台所に入ってご飯とお味噌汁をよそいながら、先程の浩一の様子について再度考えを巡らせる。
(よほど会社で面倒な仕事を抱えているのかしら? ひょっとしたら……、先生が社内で何か揉め事を起こして、その尻拭いをさせられてるとか)
「……あり得るわ。と言うか、それが一番可能性が高いとしか思えない」
「何の可能性が高いって?」
思わず口に出した台詞について、台所に入って来た浩一が尋ねてきた為、恭子は慌てて誤魔化した。
「え? あ、いえ、大した事では……。それより準備をしておきましたので、どうぞ」
「ありがとう。いただくよ」
そして二人で夕飯を食べ始めたが、いつも以上に浩一が静かに食べている為、恭子は困惑してしまった。
「あの、浩一さん?」
「……何?」
「お口に合いますか?」
「君の作った料理は何でも美味い」
「……ありがとうございます」
怒っている様な不機嫌さは感じないながらも、どこか必要以上に他人行儀な感じがしている為、恭子は真面目に考え込んでしまった。
(揉めてからも変に気を遣われてギクシャクしてたけど、何だか今日は別な意味で変かも)
そう思ったものの、取っ掛かりが掴めない為悩んでいた恭子に、浩一が静かに問いかけた。
「恭子さん」
「はい、何ですか?」
「……あの屋敷に戻りたい?」
「え?」
(いきなり何を言い出すわけ?)
唐突に呼び掛けられた上、問われた内容が突拍子も無い事だった為、恭子は本気で目を丸くした。そんな恭子の反応を無視して、浩一が問いを重ねる。
「以前『屋敷に居た方が、今より遥かにマシだった』と言っただろう?」
「それは……、確かにそう言った覚えはありますけど……」
(あの時言った事を、まだ気にしてたの? 殆ど弾みで言ったんだけど)
売り言葉に買い言葉で口にした内容であり、恭子は殆ど忘れていたが、次の浩一の言葉で彼がどうしてこの事を持ち出してきたのかが理解できた。
「今日大久保署の刑事が、ある轢き逃げ事件について、俺と清人に話を聞きに会社に出向いて来た。君の所にも行ったよな?」
それで日中のやり取りを思い出した恭子が、半ば遠い目をしながら答える。
「来ましたね。半分以上、会長に遊ばれていましたが」
「遊ばれた?」
「色々ありまして。ちょっと嫌味な人だったので、会長がつついただけの話です」
「……そうか」
不思議そうな顔になった浩一に恭子が端的に説明すると、それ以上の追及はせずに押し黙った。その為、恭子は確認を入れてみる。
「警察沙汰になった事を、気にしてるんですか? 私は別にどうとも思っていませんが」
すると浩一が、溜め息を吐いてから、重苦しい声で答えた。
「少なくともあの屋敷に居た時は、道義的な事はともかく、犯罪行為をさせられる事は無かっただろう?」
「それはそうですが……」
(確かにそうなんだけど、どう言えば良いかしら?)
本気で困ってしまった恭子だったが、自分の事でかなり落ち込んでいるらしい浩一を傍観する事もできず、自分の考えを纏めながら、慎重に話し出した。
「確かにあの頃は、言われた事だけしていれば良い、すこぶる楽な生活でしたが、特に戻りたいとは思っていませんよ?」
「どうして?」
静かにそう問われて、恭子は当時の生活を思い返しながら、更に自分の考えを伝える。
「どうしてと言われても……。あの頃は楽で何の責任も無い代わりに、私の世界はあのお屋敷内で完結してました。でもあそこを出てから、色々考える事がありまして」
恭子はそこで一旦言葉を区切ったが、浩一は無言のままだった為、少しの間沈黙が漂った。その間に、恭子が再び考えを纏めて話を続ける。
「お屋敷の中では私個人としての存在や、生きてるって実感が希薄だった気がします。でも部分的に常識外れで、歪んだ倫理観の持ち主の先生の下で働き始めてからは、それはそれは毎日が刺激的で、押し付けられた無理難題をクリアする度に『世の中、上には上が居る』って事と『私、まだ生きてるんだわ』って事を実感してましたので」
本心からのその言葉に、その原因の男に恭子の身柄を預けた立場の浩一は、箸を置いて深々と頭を下げた。
「本当に色々悪かった。俺が清人に頼んだせいで、ろくでもない事のあれこれを」
「いえ、あの、別にその事について文句を言っているわけじゃ無いんですけど!」
(しまった……。そう言えば、この前浩一さんから聞いた話を、すっかり忘れてたわ)
益々暗い表情になって項垂れた浩一を見て、恭子は狼狽しながら声を張り上げた。
「要は私、あの周囲と隔絶されて時間が止まっている様なあのお屋敷に戻っても、以前と同じ様に全く疑問や不条理を感じずに生活できないと思うんです! ですから面倒で煩わしくても、戻る気は有りませんから。この前のあれは、ちょっと口が滑っただけですし! それに今回のあれは、犯罪行為だとは重々承知していましたが、先生の指示でしたから取り敢えず意味のある事なんだろうなと、自分なりに納得してます。あの人は危険人物ですが、無闇に無関係な人間に危害を加える事はしませんから!」
「他の人間に言われたらやらない?」
「そうですね。大金を払うと言われても、完全に無視します」
きっぱりと断言した恭子に、浩一は苦笑した。
「結構清人の事を信用してるんだな……。じゃあ俺が同じ事を言ったら?」
「浩一さんが、ですか?」
「ああ。言う事は聞かないで無視する?」
どこか面白そうな顔になって返事を待った浩一だったが、恭子は真顔で答えた。
「いえ、浩一さんは間違ってもそんな事を言う筈無いので、殴り倒して昏倒させてから、病院に連れて行って脳の精密検査を受けさせます」
それを聞いた浩一が、思わず口元に手をやって笑いだす。
「へえ? そこまで面倒見てくれるんだ」
「だってあり得ませんから。脳腫瘍位疑っても良いんじゃ有りません?」
「そうか」
「それに、新聞で被害者の名前を見るまで気が付きませんでしたが、あの人、例の浩一さんをドッラグパーティーに引っ張り込んだ一味の一人じゃないですか。最初からそうと知ってれば、罪悪感も随分減ったのに……。先生って相変わらず、秘密主義でろくでなしだわ」
そう言ってから、清人に対する悪口雑言らしき物をブツブツと呟き出した恭子を、笑いを収めた浩一は少しの間黙って見詰めた。そして真剣な顔で恭子に声をかける。
「ちょっと頼みが有るんだけど、いいかな?」
「はい、何でしょう?」
反射的に浩一に顔を向けた恭子だったが、そこで予想外の事を言われた。
「今夜は俺と一緒に寝てくれないか?」
「え?」
いきなりそんな事を言われた恭子は、瞬きを何回か繰り返して黙り込んだ。
(ここでそう来るとは、思ってなかったわね。それは別に構わないんだけど、浩一さん、なんとなく疲れてるみたいだから、本当ならさっさと休んで貰った方が正解だと思うんだけど……。久々のお誘いだし……)
数秒間頭の中で考えを巡らせた恭子は、この間黙って自分の反応を窺っていた浩一に言葉を返した。
「それについては……、一つ条件と言うか、提案があるんですが」
「条件?」
そんな風に切り返されるとは思っていなかったらしく、怪訝な顔になった浩一に、恭子は真顔で提案する。
「明日、急ぎとかどうしても外せない仕事が無いなら、有休を取りませんか?」
「休めって事?」
「はあ、可能なら、ですが……。浩一さんが色々お疲れの様なので、私的にはその方が気が楽かな、と……」
一応控え目にそう言われた浩一は、驚いた様に軽く目を見張ったが、すぐに目元を緩ませて快諾した。
「分かった。君がそう言うなら休む事にする。食べ終わったら鶴田さんに、体調を崩したと電話しておくから」
「その方が良いですね。朝だと何かと慌ただしいと思いますし」
冷静にそう応じたものの、確実にそのしわ寄せを受ける事が確実な人物の姿を、恭子は脳裏に思い浮かべた。
(うっ……、すみません、鶴田さん。こちらの都合でご面倒をおかけする事になって)
罪悪感を覚えた旧知の人物に対して、恭子は心の中で手を合わせたが、見かけによらず繊細な心配りができる、レース編みを趣味としているその男は、例え本当の事を話したとしても、苦笑一つで許してくれそうな気がしていた。
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