一方的に言いたい事を言った挙句、恭子が唖然としている間にあっさりマンションから立ち去って行った浩一は、当然の事ながらそれ以降戻っては来なかった。
そして完全に音信不通になって一週間。この間も恭子はこれまで通り生活し、普通に仕事をこなしていたが、朝食を食べながら、ふと心の中で八つ当たりをしてしまう。
(本当に何なのよ、浩一さんったら! あの日以来、全然連絡は寄越さないし、携帯は本当に解約しちゃったみたいで連絡の付けようが無いし。さり気なく真澄さんに聞いてみても、知らないって言うし! まあ、知ってても惚けられてるだけかもしれないけど! ああっ、苛々するったら!)
恭子はそんな苛ついている自分に気が付き、(平常心、平常心……)と呪文の様に自分自身に言い聞かせながら、なんとか朝食を食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
一人暮らしである為、当然言葉が返って来る筈も無かったが、何故かそこで静まり返った室内に、思わず眉根を寄せる。
(別に落ち着かないとか、物足りないとか、そんな事を思うのなんておかしいでしょう? ずっと一人暮らしだったんだし、以前に戻っただけよ)
自分自身を腹立たしく思いながら食器を片付け、戸締りをして出勤した恭子は、職場に到着するまでには、取り敢えずいつもの自分を取り戻したかに見えた。
その日の昼下がり、一心不乱にPCのキーボードを叩いていた恭子は、少し離れた机から、何気ない口調で呼びかけられた。
「ねえ、恭子さん?」
その声に、恭子は取り敢えず手の動きを止めて、顔を上げる。
「はい、会長、何でしょうか? この文書の清書は、あと三十分もあれば終わりますが」
「そうじゃなくて、最近何かあったの? この数日、何だかそわそわしてるみたいだけど」
(やっぱり侮れないわね、流石会長)
自分としては今まで通りの態度を貫いていた筈が、どうやら真弓に不審がられていたらしい事が分かり、その観察眼に内心で舌を巻いた。しかしプライベートな事をさらけ出すつもりは毛頭無かった為、白を切る事にする。
「別に何もありませんが。会長の気のせいではないでしょうか?」
「そう? 男に振られたとかだったら、下手に聞いたら気を悪くするかと思って、敢えて触れずにおいたんだけどね。仕事はきっちりこなしてくれていたから、文句を言う筋合いでもないし」
「振られたりしてはませんから」
「じゃあ恭子さんの方が、袖にしたとか?」
「……別に、そういう事でもありません」
(会長……、何て微妙な話題を振って下さるんですか……)
辛うじて顔が引き攣るのを阻止した恭子が、出来るだけ普通を装って言葉を返すと、真弓はそこで興味を失った様に話題を変えた。
「ああ、もう二時過ぎなのね。今日はお昼が早かったから、ちょっと休憩しようかしら。お茶を淹れてくれる?」
「畏まりました」
話題が逸れた事に内心安堵しながら、恭子は立ち上がって隣接した給湯室に向かった。そしてお茶と摘まむお菓子を準備しながら、何気なく壁に掛けてある時計の時刻を確認し、自嘲気味に笑った。
(もうそんな時間か……。今更遅いわよね)
思う事は色々あったものの、用意を済ませた恭子は、何食わぬ顔でトレーを持って室内に戻った。
「お待たせしました」
「ありがとう」
真弓の前にカップと皿を置いた恭子が、何故か机の横にぼんやりと立ちつくしたまま自分を見下ろしている事に気が付いた真弓は、不思議そうに彼女を見上げた。
「……何?」
「あ、いえ、すみません。ちょっと考え事をしていまして」
「そう?」
声をかけられて我に返った恭子は、狼狽気味に頭を下げて自分の机に戻ろうとしたが、二・三歩歩いた所で振り返り、神妙な顔付きで問いを発した。
「……その、会長。一つお伺いしても宜しいでしょうか?」
「構わないわよ? 何かしら」
「会長はいつも泰然としていらっしゃいますが、これまでの人生で、後悔している事とかは、一つも無いんでしょうか?」
それを聞いた真弓は、少し不思議そうに小首を傾げた。
「後悔している事?」
「はい」
「山ほどあるけど?」
「……そうなんですか?」
あまりにもさらりと言われた為に、思わず疑うような声を出してしまうと、案の定真弓が気分を害した様に言い返してきた。
「一体私の事を、どういう人間だと思っているのかしら」
「気を悪くされたのなら、申し訳ありません」
迷わず頭を下げた恭子だったが、真弓は本気で怒ってはおらず、クスクスと笑いながら話を続けた。
「怒ってはいないわよ。ただどうしてそんな事を尋ねてきたのか、興味深いわね。何か後悔している事か、しそうな事でもあるの?」
「いえ、別にそういう事は……」
「でもね、私に言わせれば、後悔する様な事が一つもない人生なんて、物凄くつまらない人生なんじゃないかと思うんだけど。だって一度だって物事に全力で真剣に取り組んだりしないで、いつもそこそこ、それなりにできる事だけやってきたって事でしょう?」
余裕の笑みでそんな事を言ってから、悠然とカップの中身を飲み始めた真弓に、恭子は口ごもった。
「それは……。会長の様に社会の第一線で華々しく活躍されてきた方だからこそ、言える台詞ではないかと……」
「それに恭子さんの場合、《後悔》と言うより、どっちかと言うと《未練》って感じがするわね」
「…………」
飄々と言われた内容に、恭子が思わず口を噤む。そんな彼女を楽しそうに見上げながら、真弓が確認を入れてきた。
「違ったかしら?」
「先程の質問は、世間話の一つのつもりで口にした内容ですので、自分がどうこうと言う訳ではありません。誤解なさらないで下さい」
自分でも硬い口調だったかと思いながら恭子が弁解したが、真弓はそれ以上追及しなかった。
「あら、そうなの? 勘が鈍ったわね、いよいよお迎えが近いかもしれないわ」
「ご冗談を。それでは席に戻って、先程の続きをしておりますので」
「ええ、ご苦労様」
そして一礼してトレーを給湯室に戻した恭子は、いつもの顔で自分の席に戻った。そしてやりかけの仕事を再開する。
(未練、か……。そんな事は無いわよ)
自分自身にそう言い聞かせながら、恭子はディスプレイの片隅に表示されている時刻表示から意図的に視線を逸らしながら、黙々と入力作業を進めた。
同じ頃、成田空港第二ターミナル出発ロビーに居た浩一は、チェックインカウンターでスーツケースを預けた後、そのまま暫く恭子を待っていたものの、時間が迫ってきた為セキュリティチェックを抜け、出国審査を済ませて搭乗ゲートまで進んだ。そしてその前の椅子に座って彼女を待っていたが、落ち着き払った声でのアナウンスが周囲に響き渡る。
「15:00発、アメリカン航空8524便の、最終搭乗案内を致します。こちらの便にご搭乗予定の方は、62番ゲートにお集まり下さい。繰り返します……」
同様のアナウンスが何回か繰り返され、乗客の列も殆どローディングブリッジに吸い込まれて行った所で、浩一は重い腰を上げた。
「どうやら、すっぽかされたか」
冷静にそんな事を呟いてから、機内持ち込みのバッグを持ち上げて、自嘲気味に笑う。
「無様だな。……まあ、覚悟してはいたが」
そしてゆっくり歩き出しながら、小さく溜め息を吐いた。
「後から、清人に国際電話で怒鳴られるな。……いや、呆れ果てて、説教する気も起きないか」
そんな事を呟いた後は、浩一は無言のまま背後を振り返る事無く、搭乗機へと向かった。
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