世界が色付くまで

篠原皐月
篠原皐月

第20話 愛される存在

公開日時: 2021年6月18日(金) 08:12
文字数:6,455

 聡とのデートの最後に、つい二か月前まで自宅だった部屋を訪ねた清香は、予想通りの大歓迎を受けた。


「いらっしゃい、清香ちゃん」

「待ってたよ清香ちゃん。さあ、入って」

「お邪魔します。……ちょっと変な感じだけど、やっぱり落ち着くなぁ」

 玄関で満面の笑みで出迎えた浩一と恭子に、清香も自然と笑顔になる。すると現在の住人二人も、目を細めて優しく応じた。


「清香ちゃんは、ここで何年も暮らしているものね」

「清人と住み慣れた所に、入り込んでしまって悪いね」

「ううん、浩一さんと恭子さんが住んでくれて安心してるのよ? 二人とも物を大事に使う人なのは分かってるし、二人が借りてくれてるから、気軽に訪ねて来れるもの」

「そう言って貰えると嬉しいよ。もっと頻繁に訪ねて来てくれても構わないからね」

「それに勿論、綺麗に使っていくから安心して?」

「はい」

「…………」

 清香は嬉しそうに頷き、促されて奥へと進んだが、その間一緒にいた聡には二人は一言も声をかけず、完全無視の立場を貫いた。それに無言で顔を引き攣らせつつ、聡も靴を脱いでリビングへと向かう。そしてそれは、リビングに入っても変わらなかった。


「清香ちゃんが来るって聞いたから、好きなお菓子を色々揃えておいたんだ。どんどん食べて」

「うわぁ~、フランジェスタのマカロンにノワールのアーモンドリーフパイ、リンクスのフルーツゼリーまである!」

「お土産にサリアンのバターサンドを持たせてあげるから、小笠原夫妻と一緒に食べて」

「ありがとう、浩一さん!」

「どういたしまして」

 ソファーに向かい合って、浩一が笑顔で皿に山盛りになっているお菓子の数々を清香に勧めていると、手早く紅茶を入れた恭子がキッチンからやって来る。


「お待たせしました。今日は清香ちゃんの好きな、ハロルドのアールグレイを準備しておいたの」

「うわぁい! 恭子さんの淹れるお茶は、何でも美味しいから嬉しい!」

「ふふっ……、ありがとう。淹れた甲斐があるわね」

「…………」

 そう言って微笑んだ恭子がトレーに乗せて運んできたティーカップをテーブルに並べ、自分も浩一の隣に座って一口それを飲み、黙りこくっている聡の正面で「うん、自分でも惚れ惚れするわ」などと自画自賛したが、ここで清香が恐縮気味に声をかけた。


「あの……、恭子さん?」

「なぁに? 清香ちゃん」

「その……、聡さんの分のお茶は……」

 そう言われて聡の前に視線を向けた恭子は、わざとらしく目を見張って謝罪の言葉を口にした。


「あら、嫌だ、ごめんなさい! すっかり忘れていたわ。いつも清香ちゃんと先生と私の分で三人分を淹れていたから。本当にごめんなさいね、聡さん」

「……いえ、お構いなく」

「じゃあもう一人分、淹れてきますね」

 白々しく言いながら立ち上がりかけた恭子だったが、それより早く浩一が立ち上がった。


「ああ、俺が淹れてくるから。恭子さんは座ってお茶を飲んでいて」

「そうですか? じゃあお願いします」

 互いに笑顔で会話を交わし、恭子は再びカップを手に取って紅茶を飲み始めた。そしてお気に入りのマカロンを一つ食べ終えてから、清香がしみじみとした口調で恭子に語りかける。


「でもお兄ちゃんの披露宴の席で、恭子さんが小笠原産業に入社して、聡さんの同僚になっていると聞いただけでもびっくりしたのに、浩一さんとここでルームシェアしてるなんて、本当に驚いちゃった。お兄ちゃんったら、本当に何も言わないんだもの」

「仕事の調整とか、披露宴の準備とかで慌ただしくて、つい言い忘れてしまったんでしょうね。私達もてっきり、先生から聞いているものだと思っていたから」

 そう言って苦笑いした恭子に、清香はちょっとむくれた様に応じた。


「全く、困ったお兄ちゃん。だけど執筆活動をどうする気なのかな? これまで随分恭子さんに取材させていた内容を元に、色々書いていた筈だし、その恭子さんを商社勤めさせたって事は、以前より書く量が少なくなるのは確かだろうけど。恭子さんは詳しい事情は知ってるよね? 教えて?」

「知ってるんだけどね~、清香ちゃんにも言うなって、先生から口止めされているの。ごめんなさいね?」

「そんなぁ~。凄く気になるんだけど~。お願い恭子さん、こっそり教えて?」

「困ったわねぇ」

 どうやら今日の訪問は、それを聞き出す為でもあったらしいと見当を付けた恭子だったが、清人から口止めをされている関係上、教えるわけにはいかなかった。それを正直に告げてやんわりと断ったが、やはり諦めきれない清香が、おねだりモードになる。しかしここでキッチンから戻った浩一が、苦笑しながら口を挟んできた。


「諦めて、清香ちゃん。俺も未だに知らないんだよ。呆れた事に、姉さんにも秘密らしくてね」

「浩一さんや真澄さんにまで? もう! どこまで秘密主義なのよ!」

 本気で驚いた表情を見せた清香は、それで一応聞き出すのを諦めたらしく、その反動で清人に腹を立てた。浩一はそんな清香を宥めつつ、聡の前にカップを置く。


「清人はこうと決めたら、譲らない奴だから。まあ、あいつの事だから心配は要らない筈だし。……遅くなってすまないね、どうぞ」

「いただきます」

「…………ぅっあ!」

(何だこれ!? どうして取っ手がこんなに熱く……、まさか熱湯で煮出したわけじゃないだろうな?)

 礼を言ってカップを持ち上げた途端、その持ち手の部分の熱さに反射的に手を引っ込めた聡だったが、その時の小さい呻き声を耳にした清香は、怪訝な顔で顔を横に向けた。


「聡さん? どうかしたの?」

「何かカップに、ゴミでも入っていたかな?」

 にこやかに斜め向かいから声をかけてくる浩一は、その視線で(俺の出した物に、何か文句でも有るって言うのか?)と脅しをかけてきており、迫力負けした聡は、思わず俯いた。


「……いえ、何でもありません」

「うん、普通の紅茶よね。聡さん、とっても美味しいですよ?」

「ああ、頂くよ」

 聡の方を見ていた清香は、浩一の視線に気づかないまま聡のカップを覗き込み、笑顔で飲む様に促した。それを傍観している恭子はひたすら笑いを堪える表情をしており、聡は火傷覚悟でカップを持ち上げ、縁に口を付けた。すると確かに中身は普通の紅茶だったが相当熱い代物であり、聡は即刻席を立ちたい気持ちを懸命に堪える。


(玄関に、一歩足を踏み入れた時から感じていたが……、二人とも笑顔で俺を敵視してるよな? 俺は狼の巣穴に、丸腰で乗り込んだも同然なのか?)

 聡がそんな事を鬱々と考え込んでいる横で、清香と年長者二人の会話は盛り上がっていた。


「デートの途中に寄るって聞いたけど、今日はどこに行って来たの?」

「映画を見てお食事して、服を買って貰いました」

「ああ、玄関に置いたあの紙袋か。確かにあのブランドは最近若い子に人気みたいだけど……、清香ちゃんにはどうかな?」

「そうですねぇ……、ちょっとイメージが違うかもしれませんね。まあ、すぐに脱がせるつもりなら、何を着ようが大差ないかもしれませんが」

「まあ、確かに女性に服を贈るのは、脱がせる下心があるって言うのが世間一般的な見方だけど」

 幾つかの話をしてから出てきた話題に、清香は真っ赤になり、聡は逆に真っ青になって狼狽しながら反論する。


「ぬ、脱がせるって! 恭子さん、浩一さん!」

「い、いえっ! 決してそういう意味ではっ! 結構清香さんに似合ってましたし、しっかり着て貰った方が俺としても嬉しいですし!」

 その二人の慌てぶりを見て、浩一と恭子はきょとんとした顔になった。


「あら、軽い冗談だったんだけど、何か悪い事を言ったかしら?」

「さあ……、何か後ろ暗い所があれば別だと思うが、これ位の冗談を流せないと、一人前とは言えないんじゃないか?」

「そうですよねぇ……、鵜の目鷹の目で他社を出し抜いて日々契約を成立させていく営業担当の方なら、これ位の言葉遊びは日常茶飯事ですよね?」

「柏木産業ならそうだと思うけど、他社まではどうかは分からないな。そこの所をどう思う? 現小笠原物産勤務の恭子さん」

「現柏木産業課長の浩一さんから見ると、やっぱり雰囲気がゆるゆるかもしれませんね」

「そうなんだ」

(やっぱりこの人達、兄さんと真澄さんに負けず劣らずの、清香さん大好き人間……。今まではこの人達とは、兄さんや真澄さんが一緒に居る状態でしか会った事が無かったから、兄さんと真澄さんが隠れ蓑になっていて、分からなかったんだ……)

 さり気なく繰り出される嫌味と皮肉に耐えつつ、聡ははっきりと確信した。そんな中浩一が、未だ動揺している清香に声をかける。


「じゃあ一つ、聡君が清香ちゃんに見立てたコーディネートを見せて貰いたいな。聡君は相当自信が有りそうだし」

「そうね、私も是非見たいわ。清香ちゃん、買って貰った服、ここでちょっと着てみてくれない?」

 そこで話が逸れてほっとした清香が、救われた様に笑顔で立ち上がった。


「そ、そうですか? じゃあ部屋を借りて、早速着てみても良いですか?」

「あ、ああ。良いよ」

「元は清香ちゃんの部屋なのよ。遠慮しないで」

 服を買って貰った聡と、現在の住人の恭子に断りを入れて了承を貰った清香は、機嫌よくリビングを出て行った。その途端、聡の全身に浩一の冷たい視線が突き刺さる。


「それで? 本当に不埒な事を考えている訳では無いだろうな?」

「勿論、そんな事は有りません!」

「あの馬鹿野郎は最近色ボケが過ぎて、益々何を考えているのか分からんが、その分俺が睨みを効かせていると思えよ? 勿論社内での動向は、恭子さんがしっかり把握しているからな。陰で女子社員にちょっかい出したりしていたら、清人に任せず俺が抹殺する」

「……承知しています」

 腕組みをして、ふんぞり返りながら睨みつけてくる浩一に、本気の度合いを否応無く感じてしまった聡は、盛大に顔を強張らせながら応じた。そこに恭子から、茶化す様な声がかけられる。


「まあ、昼日中からホテルに連れ込んだりしないのは、感心してあげるべきなんでしょうけど?」

「あのですね……」

「恭子さん? それなら夜なら連れ込んでも構わないと聞こえるが?」

 思わず聡がうんざりとした声を出し、浩一が軽く恭子を睨んだが、恭子は小さく肩を竦めて話を続けた。


「小笠原夫妻が目を光らせていますから、夜にはホテルにも自分の部屋にも連れ込めないですからね。『余所様のお嬢さんをお預かりして、万が一の事があったら申し訳ない』と門限は九時で、飲み会とかは申告制だそうですよ? 一度、小笠原社長自ら居酒屋まで迎えに来たって、清香ちゃんから聞きました」

 それを聞いた浩一は、我慢できずに小さく噴き出す。


「なるほど……、それは凄い。愛されているね、清香ちゃん」

「ええ、すっかりご夫婦との生活に、馴染んでいるみたいで安心しました」

(この人達は……、絶対分かってて人をからかってる。堪えろ俺、ここで怒ったりしたら二人の思う壺)

 にこやかに会話している二人を、聡が拳を握り締めながら黙って眺めていると、着替えを済ませた清香が再びリビングに現れた。


「お待たせしました」

 そのすっきりとしたデザインながらも春らしい色合いのワンピースとボレロ、幾つかのナチュラルストーンのアクセサリーを見た浩一と恭子は、それなりの感嘆の言葉を口にした。


「あら、思ったより悪くないわね。清香ちゃんにはもっと可愛い系の服が似合うと思ったけど」

「そうだね。でも清香ちゃんは何を着ても可愛いから」

「それに来春は卒業だし、こういうシャープな感じの服も似合う年頃ですね」

「そうだ、就職先が決まったらスーツを買ってあげるよ。それから柏木に入るつもりはない?」

「そうよね。柏木産業だったら浩一さんに真澄さんも居るし、どこぞのゆるゆるの商社より安心だわ」

「それ、お祖父ちゃんと伯父さんにも言われてるんですよ。本当にどうしようかな……」

(勝手に言ってろよ!)

 苦笑いしながら答える清香の横で、聡は漸く普通に飲める温度になった紅茶を啜っていると、浩一が話題を変えた。


「恭子さんから聞いたけど、小笠原家での生活にも随分慣れたようだね」

「はい。やっぱり最初は緊張したけど、食べる物が同じって安心しますよね」

 清香がそう答えると、他の三人は揃って怪訝な顔をした。


「食べる物が同じって……」

「小笠原ご夫妻と同じ物を食べるのは、当然じゃないの?」

「えっと、すみません。ちょっと説明不足でした。おばさまの作るお料理が、お兄ちゃんの作る物とほぼ同じ味付けなんです」

 慌てて清香が説明した内容にも、今一ピンとこなかった面々は当惑した表情を隠せなかったが、すぐに浩一が清香の言わんとする所を理解した。


「……ああ、そうか。由紀子夫人は家付き娘で当然炊事なんてした事が無かったから、結婚してから清吾叔父さんが教えたんだな。当然清人に料理を教えたのも、叔父さんだし」

「なるほど。同じ人に教わったのなら、味付けが酷似しているのも道理ですね」

 恭子が浩一の後を引き取って納得した様に頷くと、浩一が素朴な疑問を口にした。


「小笠原家では、夫人が毎日炊事をしているの?」

「いえ、通いの家政婦さんが居ますので、普段はその人に作って貰っていますが、日曜日や祝日はお休みなので、おばさまと私で作っているんです。そしたらこの前、食べてみてびっくりして『お兄ちゃんのお料理と同じ味で美味しい』って、思わず言っちゃって……」

 そこで何やら口ごもって俯いてしまった清香に、浩一と恭子は心配そうに問いかけた。


「あら、美味しかったのなら良かったんじゃない?」

「どうかした? 何か落ち込んでるみたいだけど」

 それに清香が、自信無さげに事情を説明する。

「その……、その時は何も考えずに言っちゃったんだけど、後から考えたらまずかったかなって、ちょっと心配になってきて……」

「どうして?」

「何がまずいのかな?」

「だって、由紀子さんのお料理が、前の旦那さんのお父さんが教えた物だと思ったら、おじさまは嫌な気分になったりしないかなと……」

 ボソボソとそんな事を言いながら、困った様に上目遣いでお伺いを立ててきた清香に、三人とも力強く否定の言葉を返した。


「そんな事、今更だし! 全然気にする必要はないから!」

「そうよね。小笠原社長なら、夫人の作った料理なら、例え消し炭でも食べるわよ。保証するわ」

「小笠原さんは、清香ちゃんがさっき言った様な感想を口にした時、何か言ってたかな?」

 冷静に浩一に問われて、清香は思い返しながら答える。


「えっと……、『それは良かった。美味しく食べて貰えて嬉しいよ。どんどんお代わりしなさい』と、笑って仰ってたけど……」

 それを聞いた浩一は小さく頷き、穏やかな笑みで清香に言い聞かせた。


「そうだろうな。小笠原社長はそれ位で気分を害する様な、器の小さい人じゃない。そういう心配をするのは、却って小笠原さんに失礼だよ? 大丈夫だから、遠慮なく感想を言って食べたら良い。その方がお二人とも喜んでくれるから」

「そ、そうかな?」

「そうだよ。少なくとも俺は清香ちゃんより十年以上長く生きてるし、それなりに色々なタイプの人間を見てきているから信用して欲しいな」

「うん、ありがとう浩一さん。そうするね」

 不安が払拭されたらしく安堵した笑みを向けてきた清香に、浩一は一転して真顔で付け加えた。


「勿論、無理し過ぎる事は無いから、我慢できない事があったらすぐに小笠原家を出るんだよ? 柏木の家に行きにくかったら、ここにおいで。清香ちゃんならいつでも大歓迎だから。そうだろう? 恭子さん」

「ええ、勿論です。だから遠慮しないでね? 清香ちゃん」

「うん、ありがとう恭子さん。浩一さんと恭子さんって、お兄ちゃんと真澄さんみたいね」

 そんな素朴な感想を口にした清香だったが、対する二人は揃って困惑した表情で返した。


「あそこまで過保護じゃないと思うが……」

「あそこまで過保護じゃないと思うけど……」

 そう言いながら小首を傾げた仕草までそっくりで、清香は勿論、色々言いたい事を我慢していた聡さえそれを見て、思わず笑ってしまった。


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