宿泊先のホテルでソファーに収まって本を読んでいた明良は、ふと顔を上げてデジタル表示の現在時刻を確認し、軽く眉を顰めた。
「フロントに鍵は預けてあるんだが……、浩一さん、随分遅いな。結構厳しい職場なのか?」
そんな独り言を零してから、顎に手を当てて考え込む。
「困ったな。真澄姉にどう報告したものか……。お、やっと来たかな?」
奥のドアの方から物音と気配がしたと思ったら、勢い良く手前のドアが開いて漸く待ち人が姿を現した為、明良は座ったまま笑顔で手を振った。
「お疲れ様です、浩一さん。でもちょっと遅いですよ?」
しかし怒りの形相で足早に歩み寄った浩一は、明良の服の喉元を掴み上げつつ、盛大に叱りつける。
「明良! お前って奴はぁぁっ!! ここまで遅くなったのは、一体誰のせいだと思ってやがるんだ!?」
「あはは、すみません。半分は俺のせいです。でも結構厳しい職場なんですか? 就職早々、こんな時間まで拘束されるなんて」
前半は苦笑いで、後半は懸念顔で明良がそう口にすると、浩一は明良の服から手を離し、微妙に視線を逸らしながら、落ち着いた口調で告げた。
「指示した仕事を今日中に終わらせたら、明日休みを取って良いと部長に言われた」
それを聞いた明良は、ちょっと感動した。
「おおぅ、目一杯私用なのに、いきなり休みを取らせてくれるなんて、何て理解のある上司さん。同僚の人達は容赦の無い人達ばかりみたいだけど」
「あいつらが、明日俺が休みを取れる様に、部長に掛け合ってくれた」
それを聞いた明良は、とうとう我慢できずに噴き出した。
「ははっ! そうだったんですか。それはそれは。すこぶるノリが良くて、フレンドリーな職場なんですね。俺も真澄姉に良い報告ができそうで、良かったです」
「そうだな」
そして男二人で苦笑いの顔を見合わせてから、真顔になった浩一が尋ねてきた。
「ところで恭子は?」
その問いに、隣の部屋に続くドアを指差した明良は、小さく肩を竦めながら答えた。
「奥の寝室で熟睡しています。浩一さんの会社を出てから、早めの夕飯を食べさせて、すぐに休んで貰ったんですよ。初めての十二時間以上のフライトに加えて、時差ボケに極度の緊張でバタンキューでした」
しみじみとした口調で説明されて、その場の状況が目に浮かんだ浩一は、明良の向かい側のソファーに腰を下ろしながら申し訳無さそうに礼を述べた。
「今回は本当に世話をかけたな。すまなかった」
「いえ、本当は到着した翌日に浩一さんの所に行こうと考えていたんですが、本人が『余計な事を色々考える前に、とっとと行きます!』と強硬に主張して。結局押し切られて、午後に到着後すぐ移動して、夕方に会社に押しかける強行軍になってしまったものですから」
「面倒をかけたな。職場で明良まで、変な目で見られたと思うし」
申し訳無さそうに告げた浩一に、明良は苦笑いした。
「俺はもう行く機会は無いから、構わないですよ。それより浩一さんはどうなんです? 休み明けが大変じゃありませんか?」
それに浩一は、溜め息を吐いて応じる。
「……この際、自分の忍耐力の限界を試そうと思う」
「頑張って下さい。ああ、そういえば、真澄姉から伝言があったんです」
「何だ?」
怪訝な顔になった浩一が何気なく尋ねると、明良は慎重に思い返しながら口を開いた。
「ええと……、『柏木家の男は呪われているから、息子が生まれたら子供のうちから言い聞かせておきなさい』だそうです」
それを聞いた浩一は、何とも言い難い顔付きになった。
「明良……、できれば詳しい解説を頼む」
「それが……、真澄姉の考えでは『おそらく結婚話を反故にして女を捨てたご先祖様がいて、その女の恨みを買って肝心な所でヘマをする呪いが、柏木家の子孫にかけられているに違いない』だそうです」
「悪い。益々意味不明なんだが?」
本気で頭を抱えてしまった浩一に、明良はここで真顔で告げた。
「取り敢えず浩一さん。国際線のチケットを渡すなら、相手がパスポート保持者かどうか位は、確認しておいた方が良いと思います」
「……え?」
真剣そのものの表情でそんな事を言われてしまった浩一は、驚愕の顔付きで固まった。そして数瞬の後、呆然とした口調で問い返す。
「彼女、持って無かったのか?」
「……今の発言、聞かなかった事にします」
「すまん」
思わず片手で顔を覆って、項垂れた浩一を気の毒そうに眺めやってから、明良はわざと明るい口調で声をかけつつ立ち上がった。
「それじゃあ、俺はめでたくお役御免と言う事で、これで失礼します」
突然そう言われて、浩一は慌てて顔を上げた。
「明良、お前こんな時間にどこに行く気だ? もうじき日付が変わるぞ?」
「このスイートルームとは違う階のシングルを、俺用に押さえてあるんですよ。これ以上、野暮な真似はしません」
そう言って笑った明良に、浩一も立ち上がって右手を伸ばした。
「そうか。本当に色々ありがとう」
「いえ、お疲れ様です。俺は早速明日か予定の撮影場所に飛びますが、二週間位でまたN.Y.に戻りますので、戻ったら連絡を入れます」
「分かった。気を付けて」
そして握手をして明良をドアまで見送ってから、浩一は部屋に入るなり放り出した鞄を回収しつつ、寝室へと向かった。
静かに室内に入ってみると、ダブルベッドの上は人一人分こんもりと盛り上がっており、先程明良が述べた様に疲れ切って熟睡しているのか、浩一が入って来た事にも全く気が付かない風情で、身動き一つしていなかった。
「……恭子?」
ベッドまで歩み寄って、小さく声をかけてみてもそれは変わらず、浩一は小さく笑う。
「熟睡してるか。無理もないな」
そう呟いてから、ベッドの端に腰掛けた彼は、上着のポケットからリングケースを取り出しつつひとりごちた。
「それじゃあ、先に済ませておくか」
そのケースから、彼女の誕生石であるガーネットを中心に据え、その左右に小粒のダイヤが対称的に数個ずつ配置された指輪を取り出すと、浩一は毛布の下から恭子の左手を引き出し、その薬指に指輪を嵌めた。
引っかかりもせず、また緩くて回ったりもせず、彼女の指にぴったり収まったそれを見て、浩一は満足そうに微笑み、元通り腕を毛布の中に入れて立ち上がった。
その後、暫くしてバスルームからバスローブ姿で戻ってきた浩一は、恭子が眠っているベッドに入ろうとして、少し考え込んだ。そして笑いを堪える表情で、未だ眠ったままの恭子に小声で語りかける。
「よくよく考えてみたら、君が寝ているベッドに、俺が後から入り込むのは初めてか?」
そしてクスッと小さく笑ってから、自身の身体を布団の中に滑り込ませた。
「確かに君と一緒にいたら、俺もこの先、たくさんの初めての事を経験できそうだ」
楽しそうに呟いた浩一は、一向に目を覚ます気配が無い熟睡中の恭子の身体を、慎重に両手で引き寄せる。
「これからする事が山積みで、忙しくなるな。諸手続に申請書類の作成……、もう少し広い部屋も探して貰わないと。だけど……」
そんな独り言を呟きながら、浩一は恭子をしっかりと腕の中に抱き込んで、翌日の予定を決めた。
「取り敢えず明日は君の補充と、マリッジリングを買いに行かないとな」
そして満足そうに微笑んだ浩一は、僅かに両腕に力を入れて、ゆっくり目を閉じた。
「……おやすみ、恭子」
そうして未だ問題や懸案事項は山積みな浩一ではあったが、その夜は久しぶりに、全く不安や不愉快さを感じずに、穏やかな眠りにつく事ができた。
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