世界が色付くまで

篠原皐月
篠原皐月

第76話 絡み合う思惑

公開日時: 2021年8月11日(水) 17:19
文字数:5,297

「柏木課長、大江です。至急社長室に来て頂けますか?」

 仕事中内線で、旧知の社長秘書から呼び出しを受けた浩一は、未だに意図的に接触を避けている父親の顔を思い浮かべ、反射的に顔をしかめた。


「何のご用でしょうか?」

 公私混同なら問答無用でブチ切る気満々だった浩一だが、続く大江の台詞で綺麗に表情を消し去る。

「それが……、先程永沢地所の永沢会長とご令嬢が、アポ無しでいらっしゃいまして。お二人を通した後、社長が浩一さんを呼ぶように仰いまして……」

 電話越しにも分かる困惑している彼女の声に、浩一は瞬時に決断した。


「分かりました、すぐに伺います。そうお伝え下さい」

「宜しくお願いします」

 明らかにホッとしている声を聞いた浩一は、静かに受話器を戻しながら、素早く考えを巡らせた。


(あの押し掛け騒動から、三か月近くは経っているよな? 今頃何の用だ? 永沢地所との提携話は完全にご破算になった筈だし、別件で出向いたんだろうか? それにしても、俺が呼びつけられる理由が分からないが……)

 一人で考え込んでも分からない為、さっさと意識を切り替えた浩一は立ち上がり、周囲に社長室に出向く旨を告げて廊下へと出た。そしてエレベーターで上がり、目的の部屋のドアを叩く。

 すかさず前室に控えていた大江に案内され、浩一は気持ちを引き締めながら、奥の社長室のドアをノックした。


「失礼します。社長、お呼びだそうですが?」

 浩一が軽く一礼して室内に足を踏み入れると、話に聞いていた通りソファーに永沢親娘が座っていた。そして二人が自分に含み笑いを向けてきた為、内心気分を害しながらも平静を装いつつ父親にお伺いを立てる。すると雄一郎は忌々しげな表情を隠そうともしないまま、自分の隣を指し示した。


「取り敢えず座ってくれ」

「はい」

 そして浩一が静かに腰を下ろすと同時に、雄一郎は向かい側に座っている二人に白い目を向けながら催促した。


「それで? そちらのご要望通り息子を同席させましたが、いい加減もったいぶらずにご用件を仰って頂きたいものですな。生憎とどなたかとは違って、暇ではありませんのでね」

 明らかに嫌味と分かる父の物言いに、浩一は(アポ無しで押し掛けた上、こいつらは何をごり押ししたんだ)と本気で呆れた。しかしそんな視線を物ともせず、永沢がわざとらしくゆっくりと大判の自社名入りの封筒を取り出す。


「それでは、単刀直入に申し上げましょうか」

 更にそれから綴じてある書類を一部取り出し、応接セットのテーブルの上に乗せて雄一郎の方に押しやった。


「先日ご破算になった我が社と柏木産業の提携話ですが、改めて締結して頂きたい。諸条件はこちらに纏めてありますので、どうぞご確認下さい」

「……何と仰いました?」

 機嫌良く申し出た永沢とは対称的に、雄一郎は片眉を上げて不快そうに相手を見返した。しかしそんな反応すら面白がる様に、永沢親娘が笑い合う。


「おやおや亜由美、柏木社長はお疲れの様だ。至近距離でのお話も、聞き取れないらしい」

「お忙しくて体調を崩されているのではありません? この際、後進に社長職をお譲りになって、楽隠居されたら良いかと思いますわ。ねえ、お父様?」

「全くだな。幸い今すぐにでも社長を引き受けられる有能な人材は、社内に幾人も居られる様だし」

「…………」

 笑いながら好き勝手に言い合う二人を雄一郎は冷めた目つきで眺め、その間に浩一は父が手も付けていない書類に手を伸ばし、パラパラと記載されている内容を確認した結果、呆れ果てた声を出した。


「お話にもなりませんね。この条件だと利益配分は、圧倒的にそちらに有利でしょう。それに緒契約の保険料、その他手数料が全て柏木産業側の負担とは……。以前に提携を検討時の条件より、著しくこちらに不利な内容になっています。どうして柏木産業がこんな条件を飲まなくてはいけないのか、教えて頂けませんか?」

 そう言いながら浩一が眺めた書類をバサッとテーブルに投げ落とすとほぼ同時に、永沢がぼそりとある人物の名前を口にした。


「……高倉孝明」

 それを耳にした途端、雄一郎は僅かに顔色を変え傍らの息子に視線を向けたが、浩一は無表情のまま無言を貫いた。それを見てどう思ったのか、永沢が笑いを堪える様な表情で続ける。


「こういう名前の人物が、うちの会社に居ましてな。柏木さんはご存知でしょう?」

 しかし浩一は、端から見ると全く動揺していない様に、不思議そうに答えた。

「さあ……、そのお名前に聞き覚えはありませんが、どういった方でしょうか?」

「ほう? そうですか? ご存じないと?」

「ええ、全く。その方がどうかされたんですか?」

 あくまで真顔で問い返した浩一に、永沢が馬鹿にした様に続ける。


「虚勢を張るのはそれ位にしておいたらどうだ?」

「色々と面白い話を聞かせてくれたわよ? それが公になったら、柏木産業の名前に傷が付くわね」

「まあ、私としても同じ大企業の経営者として、会社を守る立場の重要性は分かっているつもりなのでね。温情をかけてやるかわりに、これ位の条件を飲むのは、容易いものだろう?」

「私も心が広いから、あなたがここで私達に土下座の一つでもしてくれれば、あの生意気な女の暴言も水に流して差し上げてよ?」

 自分達の優位を疑いもせず、得意満面で話し続ける声を、嘲笑気味の浩一の声が遮った。


「うるせえぞ、この低能親子」

「は?」

「え?」

 一瞬何を言われたか分からずに戸惑った父娘に向かって、浩一は満面の笑みを保ちつつ、慇懃無礼な態度で言い放った。


「一度で言った事が分からないのは、理解力が小学生以下という証拠では? どうして私が、あなた方の様な社会のゴミに土下座する必要があるのか、全く理解できません。生憎とあなた達の様な粗大ごみが入れる大きさのごみ箱がここには無いので、足を使って出て行って頂けますか? 仕事の邪魔なんですよ」

 あからさまに馬鹿にされて、永沢は顔を真っ赤にして怒り出した。


「なんだと!? 貴様、正気か? 誰に向かってものを言っているか、分かっているのか!?」

「世迷言を仰っているボケ老人に、物の道理を言い聞かせていると思っていますが? あなたの様な産業廃棄物が居座っているなんて、永沢地所も長くはありませんね。提携話は御破算になって良かったと思いますよ? 社長」

「ああ、そうだな。産業廃棄物が適正に処理された後で、永沢地所が残っていたら、改めて提携話を検討してみよう」

 肩を竦めてしみじみと言ってのけた浩一に、いつもの調子を取り戻した雄一郎が苦笑混じりに応じる。それを聞いてた目の前の父娘は、益々怒りのボルテージを上げた。


「言わせておけば、この若造が!」

「よくも言ったわね!? 世間に洗いざらい公表してあげるから! 柏木産業の汚点になるわよ! 社長令息のスキャンダルなんて週刊誌が寄ってたかって、面白おかしく書きたててくれるから!!」

「ですから先程から、何の事を言っているやら。……ああ、確かにあなたとの見合い話が持ち上がったことは、俺の人生の唯一の汚点かもしれませんがね」

 わざとらしくポンと手を打ち合わせて浩一が真顔で告げた為、亜由美は顔を歪めて勢い良く立ち上がった。


「言うに事欠いてよくも……。おぼえてらっしゃい!!」

「後で吠え面かかせてやるぞ!! その時に後悔しても手遅れだからな!!」

 そうして親子揃って捨て台詞を吐きつつ、乱暴にドアを押し開けて社長室を出て行った。何事かと隣室に控えていた大江が顔を覗かせたが、彼女を立ち上がった雄一郎が宥めている間に、浩一がソファーの背もたれに身体を預けたまま、苦笑いの表情でスマホを取り出す。


「やれやれ……、騒々しい馬鹿どもが……」

「浩一……」

 そんな息子に雄一郎が気遣わしげな視線を向けたが、浩一は意図的にそれを無視して、電話をかけ始めた。


「さてと。仕事中だろうが、時間を取って貰えるかな?」

 そんな独り言を呟いているうちに、相手が応答してくれた為、浩一は恐縮しながらお伺いを立ててみた。


「すみません、柏木です。お仕事中申し訳ありませんが、少しお時間を頂けますか?」

「五分待ってくれ。かけ直す」

「分かりました」

 相手が短く断りを入れてきた為、浩一も一旦通話を終わらせ、スマホを手に持ったまま立ち上がった。


「それでは社長、ご用件はお済みでしょうか?」

「あ、ああ……」

「それでは仕事に戻りますので、失礼します」

「……ご苦労だった」

 そして何事も無かったかの様に一礼して立ち去ろうとした息子の背中に、雄一郎は静かに声をかけた。


「浩一」

「何でしょうか?」

 名前で呼び掛けてきた為、プライベートな事かと足を止めて振り返った浩一に、雄一郎は真剣な表情で断言した。


「私は……、今までお前の事を、ほんの一瞬でも恥だと思った事は無い」

 それを聞いた浩一は、軽く目を見開いてから静かに頭を下げた。

「ありがとうございます。父さん」

 そして今度は躊躇う事無く足を進め、社長室を出て廊下を歩き出した。そしてその突き当たりまで移動し、スマホの着信を待っていると、ほどなく聞き慣れたメロディーが鳴り響く。


「待たせたな、浩一。どうした? お前がこんな時間に電話してくるなんて、よほどの緊急事態だろう?」

「今さっき、柏木産業に永沢地所の会長とその娘が来ました」

 前置き無しで単刀直入に切り出すと、相手は途端に面白がる口調になった。


「ほう? 用件は?」

「ボツになった提携話を、かなり向こうが有利な条件で締結しろと、父に脅しをかけてきました。すっかり忘れていましたが、高倉孝明は永沢地所の社員でした」

 藤宮はそれを聞いただけでおおよその事情を察し、小さく笑ってから話を続けた。


「なるほどな……、お前ら親子にあっさり袖にされたのを逆恨みして、この三か月近く弱みを探しまくったか。この短期間で“あれ”を突き止めるとは、相当人と金を使ったな。これだから小人は度し難い」

「十年以上前の、しかも一応解決済みの事件ですから、週刊誌で取り上げても俺の関与が疑われる可能性は少ない筈ですが」

「それでも色々脚色して、面白おかしく書き立てるだろうな。一部上場企業の社長令息の裏の顔とか何とか。柏木産業のイメージダウンは必至か」

 笑い事では無い内容を、相変わらず笑いながら言ってくる藤宮に、浩一は腹を立てたりせず冷静に問い掛けた。


「あの女については以前お話しておきましたが、先輩は何か手を打たれていたでしょうか?」

「多少はな。だが心配する必要はない。タイミングが良かった」

「何ですか?」

「実は三日後に、どでかい花火が上がる予定になっている。どのメディアも暫くはそちらに釘付けだ。過去の大した裏づけが取れない眉唾物の話に、わざわざページを割く所は皆無だろうさ」

「花火、ですか?」

 藤宮の言わんとする所が分からず、浩一は当惑した声を出した。すると説明を加えた藤宮も、若干不思議そうに問い返してくる。


「ああ。それに永沢地所が大いに絡んでいるからな。そう言えばお前、例の彼女経由で三田の御大に声をかけたりしたのか?」

「どうしてそんな事を聞くんです?」

「春日や榊の話では、二月以降そちらの方からかなりの種類と量の情報が流れてきたそうだ。内偵を進めていた事もあってあまりに都合が良すぎて、最初ガセネタかと思ったらしい」

 それを聞いた浩一は、思わず納得して頷いた。


「国税局と警察が動いていたんですか……。俺は何も関わってはいませんが、あの女に彼女が絡まれた時、清人か姉辺りが夫人に要請したかもしれません。加積氏は昨年暮れに亡くなりましたが、夫人は健在ですし」

「あの妖怪が死んでも、その影響力は依然として有効だからな。取り敢えず今週発売の週刊誌は大丈夫だとは思うが、永沢会長と宝永社の編集局長が親しかった筈だ。一応篠田辺りに探らせておく」

「お手数おかけします」

 本気で申し訳無く思いながら浩一が礼を述べると、藤宮は微かに笑う気配を伝えてから、鋭い口調で確認を入れてきた。


「これ位どうって事はない。ところでお前、明日か明後日の夜、誰かと何か約束をしていないか?」

「夜、ですか? 明日は特に何も予定は有りませんが、明後日の夜は取引先から接待を受ける予定になっています」

 いきなりの話題の転換に戸惑いながらも浩一が答えると、藤宮は満足そうに応じた。


「好都合だな。相手は気心の知れた奴か?」

「ええ、一応。それなりに親しくしている相手ですが」

「接待は十時位までには終わるだろう? その後何か理由を付けて、相手を誘って飲みに行け。最低でも十一時まではアリバイを確保しておくんだな」

 なにやら一気にきな臭い話になった為、浩一は思わず問い返す。


「アリバイって……。先輩、何をする気ですか?」

「馬鹿野郎に制裁。じゃあ忙しいから切るぞ」

 そして一方的に通話を終了させられた浩一だったが、互いに暇では無いのは分かっている為、無駄に問い質す事はせずにスマホをポケットにしまい込んだ。


「制裁か……。大人しくしていれば良かったのにな」

 通路の窓から外の景色を眺めながら、浩一は誰に言うとも無しにそう呟いたが、同情する響きはその一瞬だけで、すぐに何も無かった顔で自分の机へと戻って行った。


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