「じゃあ行って来るよ」
「はい、行ってらっしゃい。浩一さんがここで暮らし始めてから、泊まりで実家に戻るのって初めてですね。のんびりしてきて下さい」
「…………」
「どうかしましたか?」
大晦日に泊りがけで実家に戻る浩一を見送ろうと、恭子は玄関まで付いて行った。しかし挨拶をしてそのまま出て行くかと思いきや、何故か浩一が物言いたげな顔で立ち尽くしている為、恭子は不思議そうに尋ねる。するとそれに恐縮気味の声が返ってきた。
「いや、その……。今更だけど、恭子さんは年末年始、旅行とかしないのかと思って」
実家など影も形もない恭子の前で、大っぴらに実家に帰るのが心苦しかったのに加え、自分が居ない間に旅行の予定は無いのかと急に気になってしまった故の発言だったのだが、それを聞いた恭子は明後日の方を向きながら、幾分やさぐれた表情で答えた。
「年末年始位、心穏やかに過ごしたいんです。何回か先生から指示を受けてこの時期に出掛けた時、ろくでもない事しか言いつからなくて良い記憶が無くて、とても出歩く気分には……」
「そうか……」
「ですから引きこもる気満々ですので、気を遣わないで下さい」
そう苦笑しながら言われてしまった浩一は、それ以上話を長引かせたりはしなかった。
「分かった。じゃあ、行ってくるよ。明後日の夕方には戻るから」
そうして浩一は二泊分の荷物を持って、マンションを出て行った。そして多少考え込みながら運転したが、問題なく柏木邸に到着した。
「ただいま」
「おう、戻ったか、浩一」
「お帰りなさい、浩一」
「お帰り兄貴」
ボストンバッグ片手に応接間に入ると、母の他に真由子を抱えた祖父と、真一を抱えた弟が上機嫌で声をかけてきた為、何となく難しい顔をしていた浩一も釣られて笑顔になった。
「やあ、真一君と真由子ちゃんまで勢揃いだね。父さんと姉さん達は?」
「父さんの書斎で三人で話をしてるけど、兄貴が来たら『すぐ顔を出す様に言っておけ』って言われた」
「そうか。じゃあ、まず挨拶してくるか」
玲二から伝言を聞いた浩一は途中自分の部屋に寄ってバッグを置いてから、雄一郎の書斎に向かった。そしてドアをノックして声をかける。
「浩一です。お呼びだそうで、失礼します」
「入りなさい」
そして入室の許可を得た浩一はドアを開け、机の前に立っていた居た清人と真澄に目線で挨拶してから、座っている父親に向かって歩み寄ってから軽く頭を下げた。
「父さん、戻りました」
「ああ、今回はゆっくりしていけ。家に時々寄ってはいるが、泊まりにくるのは初めてだからな。意外に社内では顔を合わせないし」
「考えてみれば、一課長がそうそう自社のトップと顔を合わせる事は無いですからね」
「その通りだな」
そんな事を互いに苦笑いしながら話していると、清人が控え目に申し出てきた。
「それではお義父さん。話の区切りが良い様なので、俺達はこれで」
「ああ、そうだな。真澄ももう良いぞ?」
「分かりました。じゃあ浩一、また後でね?」
真澄が笑顔で小さく手を振り、清人と連れ立って部屋を出て行くと、浩一は顔付きを改めて雄一郎に問い質した。
「父さん、俺に何か話があるんですよね?」
その半ば確信している口調に、雄一郎は素直に考えていた事を告げた。
「ああ。この間色々考えてみたんだが、年が明けたら見合いでもしてみないか?」
それを聞いた浩一は無意識に眉を寄せ、慎重に父親の表情を窺いつつある結論を出す。
「『してみないか?』と言っている割には、既に見合い相手も決定済み、という雰囲気なんですが?」
「まあ……、そんなところだ」
事前に清人からほのめかされていた内容でもあり、浩一は軽く溜め息を吐くだけにとどめた。そして些か投げやりに問い掛ける。
「それはどこから押しつけられた話ですか?」
「いや、そうじゃなくて……、こちらから良さそうな条件の女性を探してだな……。清人も賛成してくれたし」
口ごもりつつ弁解してきた内容に、浩一の顔付きが無意識に険しくなった。
「……清人が承知済みだと?」
「ああ。話は聞いていなかったか? 年末で色々忙しかったかもしれんが」
「寝耳に水です」
憮然として(相手まで選定済みだとは聞いてないぞ)と内心腹立たしく思っていた浩一に、雄一郎がなるべく刺激しない様にと言葉を選びながら話を続けた。
「そうか……。しかし清人も『現時点では以前程症状は酷くないし、ここは一つ環境を変えてみるのはどうか』と言っていたしな。なに、昔から『案ずるより生むが易し』と言うし、案外結婚もうまく行くかも」
「お断りします」
「浩一?」
常には無い強い口調で、いきなり話の腰を折ってきた息子に雄一郎が訝しげな視線を向けると、浩一は落ち着き払って話を続けた。
「見合いは断って下さい。それから今後一切、同様の話を持ち込まない様にお願いします」
「そうは言っても。ほら、なかなか気立ての良さそうなお嬢さんだぞ?」
浩一の頑なな態度をどう捉えたのか、雄一郎が作り笑いで見合い写真と思われる物を差し出そうとしてきた為、(今回は良い機会かもしれないな)と考えた浩一はきっぱりと言い切った。
「結婚したい相手なら既にいますので、どんな相手の話を持って来られても、受けるつもりはありません」
「……は?」
「そういう事ですので。他に話が無ければ失礼します」
思わず呆けた表情になった雄一郎に、浩一は真顔で頭を下げて踵を返したが、ドアに向かって歩き出した所で我に返った雄一郎が慌てて立ち上がり、血相を変えて息子に追い縋った。
「ちょっと待て! 今の話は本当か!?」
「こんな事、冗談で言いませんよ」
腕を掴まれて真剣な表情で問い質された浩一が、如何にも心外そうに答えると、雄一郎は息子から視線を外さずに慎重に問いを重ねた。
「浩一……。その相手とは交際してるとか、もう婚約してるとかなのか? 俺は全然聞いていないが」
そう問われて浩一は流石に居心地悪そうに、父から視線を逸らしながら正直に告げた。
「……申し訳無いですが、生憎俺がそう思っているだけで、ちゃんとした交際とかもしていません。近いうちにきちんとするつもりですが」
「そうか……」
そうして若干気まずい空気がその場に漂ってから、気持ちを切り替えたらしい雄一郎が浩一の腕から手を離しつつ、いつもの口調で告げた。
「そういう事なら仕方が無い。この話は無かった事にして、先方には断りを入れよう」
「すみませんが、そうして下さい」
雄一郎が意外にあっさりと引いてくれた事に浩一は安堵したが、すぐに嬉々とした顔で質問をされて閉口する羽目になった。
「ところで、その相手はどんな女性だ?」
ここは下手に隠し立てはしない方が良いだろうと判断した浩一は、取り敢えず表面上の事だけは伝えておく事にした。
「姉さんの披露宴の時に、父さんも一応顔を合わせています。新郎側の受付をしてくれた、清人のアシスタントの川島恭子さんです。今は小笠原物産で勤務していますが」
「小笠原? ……ああ、清人に頼まれて由紀子夫人が口を利いたのか?」
「多分そうだと思います」
(小笠原社長の指示で社内での裏工作に邁進してる事とか、言う必要は無いだろう。この段階で彼女の素性まで洗いざらい言えないし)
意外そうな顔をして「ふむ……」と考え込んだ雄一郎に浩一は内心冷や汗ものだったが、雄一郎は取り敢えずそれで納得した様だった。
「よし、分かった。取り敢えずこの話は終わりにするが、来年中には良い報告が聞けるのを楽しみにしているぞ」
そう言いながら上機嫌で肩を叩いてきた父親に、浩一は苦笑しながら応じた。
「あまり期待しないで、長い目で待っていて欲しいんですが」
「何を言う。とにかく結婚しようと言う気持ちになったんだから、かなりの前進だろうが。今年は気持ち良く年越しが出来そうだな。じゃあ下に行くぞ。皆、揃っているだろうしな」
「はい」
(正直、彼女相手にどう話を進めて良いか分からないがな)
そんな微妙な心境のまま雄一郎に促されて一緒に階下に下りた浩一は、久しぶりに家族全員が顔を揃えた応接間で、こそこそと近寄って来た訳知り顔の清人に、面白がっている口調で囁かれた。
「早速お義父さんに絞られたか?」
「お前に以前聞いた見合いの話だった。知っていたな?」
「一応は。それでどうした?」
軽く睨んでもどこ吹く風の清人に、浩一はげんなりしながら答えた。
「……父さんに聞け。実の息子より義理の息子の方が、頼り甲斐があるみたいだしな」
「いい年した男が拗ねるなよ。それで?」
にこやかに再度問いかけてきた清人に、浩一は完全に抵抗を諦めた。
「一応……、彼女の名前だけは出した」
「ほぅ?」
そのまま興味深そうな顔で黙り込んでいる清人に、浩一がイラッとして「何か言いたい事があるなら、さっさと言ったらどうだ!?」と毒づきそうになった時、明るい声と共にもう一人の人物が応接間に入って来た。
「こんにちは! 三日までお世話になります」
ペコリと頭を下げた清香に、その場に居た全員が笑顔を向ける。
「いらっしゃい、清香ちゃん。待ってたのよ?」
「自分の家だと思って、のんびりして行ってね?」
「うわ~、真一君と真由子ちゃん、また大きくなってる。相変わらず可愛いし」
「そうじゃろう、そうじゃろう。だが清香も相変わらず可愛いぞ?」
「もう、お祖父ちゃんの爺馬鹿っぷりも、相変わらずなんだから」
途端に室内が賑やかになり、清人も久しぶりに妹を構いに行った為、解放された浩一は心底安堵して密かに清香に感謝の念を送った。
(このタイミングで来てくれるとは、助かったよ清香ちゃん。父さんも清人も、暫くは俺の事は放っておいてくれるだろうし)
そして真澄に手招きされてソファーに落ち着いた浩一は、お茶を飲みながらしみじみと周囲の和やかな雰囲気について、考えを巡らせた。
(去年と比べると桁違いに賑やかだな。賑やか過ぎて、落ち着かない位だ)
そんな事を考えて苦笑しつつお茶を飲んでいた浩一だったが、つい二時間程前に別れたばかりの恭子の事を思い出した。
(彼女は……、どこにも行かないと言ってたが、本当に一人で構わないんだろうか?)
そんな事を考え出したら止まらなくなり、浩一は笑顔を作りつつ密かに考え込んだ。そして悶々としたまま夕飯を済ませ、食後のお茶を飲みつつ皆で談笑していた所で、(ここで抜け出したら、不審がられるかもしれないが)と思いつつ、このまま泊まっていく気分にはなれなかった浩一が、意を決して立ち上がった。
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