世界が色付くまで

篠原皐月
篠原皐月

第39話 後始末

公開日時: 2021年7月6日(火) 22:54
文字数:4,602

「課長、大丈夫でしたか?」

「ええ、何針か縫った程度で心配要りません」

 職場に顔を出すなり、血相を変えて立ち上がった係長の鶴田に、浩一は笑顔で応じた。それに周囲の者は揃って安堵した表情を見せたが、鶴田が苦虫を噛み潰した様な表情で続ける。


「それは良かったです。それで早速ですが、戻り次第第ニ応接室に出向く様に、社長から連絡がありました」

「何か商談でも有りましたか?」

「いえ、先程今回の加害者の両親と、弁護士がお見えになったそうで……。うちの顧問弁護士の沢渡先生も、同席しお待ちだそうです」

(おいでなすったか。雁首揃えて馬鹿どもが)

 そんな内心はおくびにも出さず、浩一は諦めた様に再び廊下に向かって歩き出した。


「鶴田さん。今抜けても大丈夫ですか?」

「課長の今日一日の業務内容で支障がある予定は、既に代理を立てるか翌日以降に調整済みです」

「ありがとうございます。それでは行って来ますので、あとを宜しく」

 短く断りを入れた浩一はそのまま会議室に向かい、ドアをノックして入室すると、初老の夫婦らしき男女と弁護士の記章を付けた同年代の男を綺麗に無視し、柏木産業顧問弁護士である沢渡に愛想よく挨拶した。


「お待たせしました。沢渡先生、社から連絡が行きましたか? 些末な事でご足労おかけして、申し訳ありません」

「とんでもない。柏木家とは昔から家族ぐるみの付き合いだからね。職場で傷害事件など発生したなら、何をおいても駆けつけるのは当然だ。ところで、怪我の具合はどうかね?」

「痛み止めが切れたらきついかもしれませんが、十針縫うだけで済みました。全治ニ週間程度です」

「それは何よりだった」

 二人とも立ったまま世間話でも始めかねない雰囲気に、相手の三人はじりじりしながら黙って待っている風情がありありだったが、浩一も沢渡もそんな事には頓着しなかった。そしてここで秘書課の人間が、恐縮気味に現れて用件を告げる。


「申し訳ありません。柏木課長にご面会の方です」

「今来客中だが?」

「それが……、お相手を説明しましたら、『是非ご一緒にお話を伺いたい』と仰いまして。週刊ラインの記者の方です。どう致しましょうか?」

 困惑しながら告げられた内容に、浩一は僅かに口元を歪め、三人の客人達は血相を変えた。


「そうか。それならこちらに通してくれ」

「畏まりました」

「柏木さん!」

 秘書は一礼して下がったが、相手方の弁護士は非難がましい声を上げた。しかし浩一は沢渡を促してソファーに座りながら、平然と言い返す。


「何度も同じ事を喋るのは時間の無駄ですし、それはそちらも同じでは? 第一、勝手に押し掛けておいて、そちらの都合が通じるとでも?」

 一睨みして相手を黙らせた浩一は、再び現れた秘書からお茶を受け取り、優雅に飲み始めた。そして沢渡が受け取っていた名刺に浩一が目をやり、待つ事少しで先触れのあった人物が現れる。


「失礼します。週刊ラインの中津川と申します。この度は快く取材に応じて頂き、ありがとうございます」

「いえ、こちらは一向に構いません」

 そして名刺交換を済ませて早々に、中津川が浩一と夫婦を交互に見ながら確認を入れた。


「案内してくれた女性にお聞きしましたが、こちらが犯人のご両親の皆川ご夫妻ですね?」

「君! 口を慎みたまえ! 憶測で人を犯罪者扱いなど」

「憶測ではありません。偶々その場に居合わせた社員の方が撮影した、犯行の決定的瞬間の画像データを先程入手しましたから。それでこちらにお伺いした次第ですし」

「なっ!」

 皆川に同行してきた弁護士の鈴田は窘めようとしたが、中津川に言い返されて絶句した。それに満足げに笑ってから、中津川が浩一に向き直る。


「随分、高飛車な弁護士さんですなぁ……。頭を下げに来たかと思いきや、娘同様難癖を付けに来たと見える。ここに来る前に警察で情報収集して来ましたが、犯人は破談になったのが柏木さんのせいだと逆恨みしての犯行だとか?」

「その様ですね。私は彼女の元婚約者の武内さんとは商談をする間柄ですが、その折りに彼女の名前を聞いて『同姓同名の女性に、過去に酷い迷惑を被った』と、事実をありのまま話しただけです。まさかそれが、罪になるとでも?」

「…………」

 浩一がわざとらしく鈴田に問いかける視線を送ったが、返事は返ってこなかった。そこに中津川が興味津々の顔で割り込む。


「酷い迷惑とは何ですか?」

 それに薄笑いで応じた浩一は、この場での言及を避けた。

「それは調べればすぐに分かりますから。ところでお二方共、こんな所にいらしてないで、迷惑を被るであろう彼女の勤務先に頭を下げに行った方が宜しいのでは?」

「それは……」

 親切ごかして皆川夫妻に声をかけた浩一だったが、相手は口を濁す。そして早くも基本情報は押さえて来たらしい中津川が、肩を竦めながら口を挟んだ。


「彼女は働いていませんよ。優雅な『家事手伝い』って奴でして」

「へぇ? それはそれは、ご両親は随分大事にお育てになったんですね。……犯罪者になるとは、大失敗の様ですが」

「何ですって!?」

 明らかに揶揄してきた浩一に、夫婦は揃って顔色を変えた。


「柏木さん……、あなたは娘の縁談に関して、何一つ後ろ暗い事が無いと仰る?」

「そうよ! あの乱交パーティーの本当の事が、公になったら困るのはそっちだって同じでしょう!?」

「お二人とも落ち着いて下さい! こちらには示談の申し入れに来たんですよ!?」

 恫喝交じりの台詞を吐いた夫妻に、さすがに鈴田が焦った声で窘める。それに浩一は冷淡に意思表示した。


「何を言っておられるのか、全く分かりません。以前の事まで持ち出して娘さんの恥の上塗りをしたいならどうぞご勝手に。こちらは痛くも痒くもありません。……そういう訳ですから、示談にも減刑嘆願書の作成にも応じるつもりは皆無です。即刻、この迷惑な人達を連れてお引き取り下さい」

「柏木さん!」

 するとここで、それまで黙って事態の推移を見守っていた沢渡が、些かその場にふさわしくない、間延びした声で皆川に話しかけた。


「皆川さん、お宅はどうやら少々娘さんを過保護にし過ぎた様ですな。一人っ子なら、お気持ちは分からないでもないですが」

「いえ……、宏美の下に、息子と娘が一人ずつおりますが」

 当惑しながらも律儀に答えた皆川に、沢渡が如何にも驚いたという風情で話を続ける。


「おや、それなら尚の事、今回の対応を誤れば、これからの弟妹方の仕事や結婚に重大な差し障りが出るのでは? 加えて子育てに失敗されたお方が社長を務めている会社の商品など、世間の皆様がどう思われるか……」

「あなた!」

 思わせぶりに言葉を濁した沢渡に、夫妻は瞬時に己の置かれた状況を再確認して真っ青になった。そして浩一に目を向けたが、浩一はその視線の先で立ち上がり、冷たく夫妻を見下ろしながら告げた。


「前回は二十歳そこそこで、退学にはなりましたが執行猶予が付いたと伺っておりますが……、今回はお父上の会社名まで出るのは確実ですね。一代でキンダー・パラストをあれだけ大きくしたのに、最後に手塩にかけたご令嬢に足を引っ張られるとは。ご同情申し上げます」

 そこで夫妻は弾かれた様にソファーから下り、浩一に向かって土下座した。


「柏木さん、申し訳ない! 慰謝料なら幾らでも払います! どうか今回は、事を荒立てないで頂きたい!」

「宏美には私どもから良く言い聞かせます。お願いします!」

 泣き声混じりのその嘆願にも、浩一は微塵も感銘を受けなかった。


「おや? 先程は恫喝紛いの事を言われたと思いましたが、聞き間違いでしたか?」

「いえ、確かに何かワケが分からない事を仰っておりましたね?」

「……っ!」

 ニヤリと笑いながら中津川が取り出したICレコーダーに、皆川夫妻と鈴田が顔を強張らせる。それを見た浩一は話は済んだとばかりに、踵を返してその部屋を出て行った。


「先程も言いましたが、示談に応じる気はありません。身辺を整理された方が宜しいでしょう。失礼します」

「柏木さん! 待って下さい!」

「いや~、随分面白い記事になりそうですね。昔の一件って何ですかね?」

「失敬だな! 君に話す様な事は何も無い! 下がりたまえ!」

 追い縋ろうとする面々に中津川が迫り、押し問答になっているのを背中で聞きながら、浩一はドアを閉めて廊下を歩き出した。すると少しして沢渡も出て来て、浩一と並んで歩きながら囁きかける。


「浩一君、大丈夫か?」

 過去の一件を勿論知っている沢渡は心配そうに顔色を窺ってきたが、浩一は落ち着き払った微笑みを返した。


「ええ。俺は一方的な被害者です。例の件を蒸し返そうとしても、向こうの醜態しか表には出ませんよ」

「そうだな。じゃあ私はもう一押しして、親子共々引導を渡して来るか。今回の事はさすがに腹に据えかねてね」

「宜しくお願いします」

 冷たい笑みを浮かべた沢渡に軽く頭を下げた浩一は、引き返していく沢渡とは反対方向に進み、エレベーターに乗り込んだ。

 既に社内中に噂が広がり、着られた袖を目にしてたじろぐ周囲を物ともせずに進んだ浩一は、すぐに目的地である企画推進部の部屋に辿り着いた。そこに足を踏み入れた瞬間ざわりと空気が動いたが、すぐに何事も無かったかの様に皆各自の仕事に勤しむ。それを(谷山部長の日頃の薫陶の賜物だな)と密かに感心しながら、二課課長席までやって来た。


「清人、今大丈夫か?」

 実際に顔を見せた方が納得できるだろうとわざわざ顔を見せに来たのだが、やはり瞬時に安堵したらしい清人は表情を緩めて軽く確認を入れてきた。


「平気だ。それより怪我は大丈夫だな?」

「ああ。あの馬鹿女相手に、二度と遅れは取らないさ」

 そこで笑ってから一歩距離を詰めた浩一は、軽く上半身を屈めて清人だけに聞こえる声で囁く。


「そんな事より、キンダー・パラストの株は近日中に一時的に下がるぞ。沢渡先生が引導を渡してくれる」

 それを聞いた清人は、軽く片方の眉を上げた。


「そう言えば……、あの女の父親がそこの社長だったな。できるだけ会社にダメージが出ない様にと説得するわけか。これであの女、家族からも爪弾きだな。下手すれば除籍位されるんじゃないか? 沢渡さんも人が悪い」

「当面ゴタゴタするかもしれんが、あそこは後継者に不安は無いし、すぐに経営は持ち直すだろう。下がり切った所で買って、値を戻した所で売り抜けて小銭を稼ぐぞ」

 終始真顔で冷徹に言い切った浩一に、清人は含み笑いで応じた。


「小銭、か。お前も相当人が悪いな」

 そして自分の机の引き出しを開けて未開封のミニチュアボトルを取り出し、面白がっている表情で浩一に差し出す。

「目障りな女を綺麗に始末できた祝いだ。持って行け」

「……お前は職場に何を置いてるんだ。しかも怪我人にアルコールを勧めるな」

 差し出されたシングルモルトのラベルを確認し、呆れた視線を向けた浩一だったが、苦言を呈しながらも素直に受け取ってポケットに入れた。


「これ位良いだろ。株の方は情報を流して、市場を煽っておこう。今日明日が勝負だな」

「ああ。邪魔したな」

 そうして浩一は軽く片手を振ってその場を後にし、自分の職場に向かって歩き出した。そして乗り込んだエレベーターで一人きりになった為、思わず悪態を漏らす。


「馬鹿が。墓穴掘りやがって。大人しくしていれば、いつかは許してやったかもしれないものを……」

 右手で軽く切られた袖に触れながらの台詞は、当然誰にも聞かれる事は無かった。


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