超絶政治闘争学園ノブリス改

片里鴎
片里鴎

エリート5

公開日時: 2021年1月14日(木) 18:35
文字数:4,240

 拳。

 お互いの腹にめり込んだ。


「ぐっげぇ……馬鹿力がっ」


 胃液を吐きながら、夏彦は呻く。体をくの字に曲げて震える。


「身体能力は僕の方が上か、今の状態では」


 怪物は拳を受けても体を曲げることなく、そのまま平然と立つ。


「ただし、技術は君が上かな」


 ごぽり、と血の泡が口からこぼれる。


「ほら、次はどうだい?」


 ぐい、と握手していた腕を引かれて、夏彦はバランスを崩す。


 その夏彦の頭を目掛けて蹴りが逆袈裟に襲う。


「下手な蹴りだな」


 夏彦は首を傾げるようにしてその蹴りをかわす。


「強くて速いだけだ」


「それで充分だろう?」


「いいや」


 今度は夏彦が怪物の腕を思い切り引っ張る。


「ふふ」


 だが、力が余っているのは怪物の方だ。びくともしない。


 夏彦は動揺することもなく、ほんの少しだけ手首を捻ると同時に、握手していた指を怪物の手の甲に突き立てる。


「ほう」


 かくん、と怪物の膝から力が抜けた。

 驚いたようにあるいは面白がるように怪物の表情が崩れる。


 そうして、あっけなく怪物は夏彦に引っ張られてバランスを崩される。


「圧倒的な力に頼りすぎたな。技術が足りない。まるで、子どもだ」


 夏彦の蹴りが、怪物の喉に命中する。


「ごっ」


 そのまま吹き飛びそうになる怪物だが、夏彦と繋いでいる左腕がそれを繋ぎとめる。


「もう一撃」


 今度な夏彦の右拳。

 硬質の音を立てて、拳が怪物の側頭部に当たる。


「なんの、まだまだ」


 カウンター。いや、カウンターといえるようなものじゃあなかった。ただ、攻撃を喰らうことを前提に反撃の準備をしていただけ。


 ともかく、怪物の右拳も夏彦の胸に突き刺さった。


「う」


 肋骨が軋むし、何よりも。


 呼吸ができず、一瞬鼓動さえ停止した。体が動かない。


「ほうら、これなら、力がものを言うだろう?」


 その隙に、怪物の右手が夏彦の喉を掴み、そのまま締め上げる。


「ぐ……お、前」


「窒息させるつもりはないよ。このまま、君の喉を握りつぶす」


 怪物の右腕の太さが、見る見るうちに二倍くらいにまで膨らんでいく。


「左手を、握手して、右手で、喉を、掴む」


 かすれた声で、夏彦は必死に言い募る。


「悪いことは、言わない、やめておけ」


「いいや、やめないよ夏彦君。これで終わりだ」


「まさか」


 手品か何かのように、夏彦の体がするりと怪物の足元に沈み込んだ。

 同時に、首を掴んでいたはずの怪物の左手がいとも簡単に解けていた。


 そうして、怪物は宙返りしようとしているかのように足先を上に、頭を下にして、


「やめておけ、って言っただろ。あの学園長の弟子だぞ、俺は。素人が両手を俺に触れておくなんて、自殺行為だ」


 そのまま、轟音と共にアスファルトの地面に怪物の頭が突き刺さる。


「はぁははは、楽しいね」


 一瞬の間を置くこともなく、怪物が立ち上がる。無茶な動きに、握手で固定されている左腕が曲がってはいけない方向に曲がる。


 怪物は笑っている。目と耳から血を流しながら楽しそうに。


 その動きに虚を突かれ、怪物が叩きつけてくる右腕の攻撃をまともに喰らう。


「うっ」


 その勢いに、掴まれている左手を中心にして夏彦は回転する。


「ふふっ、ほおら」


 そうして、後頭部に蹴り。


 夏彦の意識が消失して、地面への激突でまた戻る。


「かあっ」


 夏彦も間をおかず立ち上がる。

 だが、まともに立てない。三半規管がぐちゃぐちゃで、どっちが空からすら分からない。


 攻撃なんて夢のまた夢。


「よっ」


 だが、それでも、左手で怪物の左手を掴んでいることには変わりない。なら、それでいい。


 体重移動と、ちょっとの握力。


 それで、怪物は宙を舞ってから地面に落ちる。


「がっ」


 それを夏彦が引き起こしたのか、それとも怪物が立ち上がったのか、二人にも定かではない。


 ともかく、次の瞬間にはお互いの拳がお互いの腹に命中していた。


 それをものともせず、怪物の攻撃が今度は頭に。


 歯を食いしばり、夏彦は耐えて手刀を怪物の胸に。


「があっ」


 胸を突かれ、ちと叫びを吐く怪物。


 一方、少し前ならば人体を貫くはずだった夏彦の手刀は、貫通できずに指の骨が折れる。


 その折れた指を握りこんで拳を作ると、夏彦はそれを怪物にぶつける。


「がはっ」


 大して固められてもないその拳をぶつけられただけで、怪物の体は大きく揺れた。


「ふふっ」


 血を吐きながら怪物が殴り返してくるのを、夏彦は額で受ける。


 これまでなら平気で額を割るであろうその拳は、逆に額に粉砕された。


「ふっ、ふふっ、痛い」


「ぐ、う」


 一方の夏彦も、その衝撃で首の骨を軋ませて、激痛に呻く。


 その隙に、怪物が首に腕を絡み付けてくる。

 体重をかけられ、夏彦は地面に一緒に倒されながらも怪物の腹に拳を打ち込む。


 互いに地面を這いながら相手の体に、もうどこでもいいから拳を打ち込む。

 既に拳は潰れてぐちゃぐちゃ。

 あるいは隙ができれば関節を極める。けれど、それもお互いにあまり意味はない。関節を壊しながら、無理矢理に動いて互いの急所に一撃を入れようとする。

 腕だけではなく、足でも急所を狙う。あるいは、脚で関節を極めようとする。

 その脚を、膝を拳で叩き壊す。あるいは逆に拳が蹴り壊される。

 もはや呻き声さえ立てずに、二人はお互いの肉体を破壊し合う。


 まるで二匹の大蛇が絡み合っているかのようだった。

 もうお互いの肉体の再生はほとんど止まっている。夏彦も怪物も、お互いの左手を握っている左手の指以外、四肢は原型をとどめていない。

 怪物が夏彦の喉に噛み付こうとする。夏彦が折れ曲がっている右腕で阻止する。怪物は右腕に噛み付く。夏彦は怪物の眼に目掛けて頭突きをする。怪物はそれでも噛み付いたまま放さない。もう一度頭突き。怪物が肉を食いちぎる。


「ぐらあ」


「があっ」


 二人とも、声ではなく獣の鳴き声を出している。どちらがどちらの鳴き声が、誰にも分からない。


 揉み合い、壊し合い。


 そして、どちらともなく、動きを止めて、ゆっくりと、全力をそれに集中させて、二人は本当にゆっくりと、立ち上がった。


 立てているのが奇跡のような有様だった。お互いに、両脚ともいかれている。かろうじてバランスを取れているような状態だ。


 もちろん壊れているのは両脚だけではない。むしろ、壊れていない部分がないくらいだった。二人を繋ぐ左手は、指が折れ曲がったまま、知恵の輪のように絡まっている。


 無言で、怪物がパンチをする。

 もうその攻撃は、ただの喧嘩自慢の拳以下の稚拙なものだった。

 体を鍛えたこともない、ただのインドアの少年の拳のようだった。


 だが、それを受けて、夏彦は大きく体を揺らす。

 もう、立っているのも奇跡の身に、その攻撃は充分すぎた。

 それを耐え切り、何とか立ち続けながら、夏彦も反撃の拳を繰り出す。

 その拳ももう見る影はない。こんな攻撃では、街で喧嘩を売られたところで勝つことは難しい。


 その攻撃を受けて、怪物は血塗れの顔を歪め、大きく後ずさる。

 それでも倒れず、怪物は攻撃を返す。


 暗黙の了解のように、夏彦と怪物はお互いに一撃ずつ殴り合っていた。


 殴るたびに、お互いの体から血が飛び散る。


 もう、前を見ていられない。

 夏彦は地面に顔を向ける。顔を上げる力すらなかった。


 それでも、殴り殴られ続ける。

 それはやめない。


「どう思う?」


 夏彦の割れそうな頭の中で、男の声がする。


「お前は、怪物より特別な存在か? 証明できるか?」


 無理だな。

 夏彦は片隅にある意識でそう返す。


「ほう、何故だ?」


 拳。

 夏彦はその衝撃で意識を失いかけて、自分の唇を噛んでその痛みで意識を繋ぎとめる。


 怪物は、人じゃあない。最初から人じゃあない。存在として、ずば抜けている。

 だって、見てみろよ、怪物の顔を。


「ほう、なるほど。笑っているな」


 怪物はまだ微笑をとどめていた。その顔のまま、ぼろぼろの体を動かして、殴ってきている。


 その怪物に向けて、夏彦は拳をぶつける。


 体を揺らしながら、怪物はそれでも微笑む。


 こんな、苦痛と絶望と疲労の塊みたいな状況で、笑っている。

 多分、苦し紛れとか強がりじゃあなくて、本当に、ただ笑っているだけなんだろう。もう、それは人じゃあない。力が強いとか、再生能力があるとか、そんな話じゃあない。

 きっと、心が人間じゃあない。強い。

 夏彦はそう思う。


「だから勝てないと?」


 また拳。

 夏彦は、歯を食いしばって耐える。奥歯が割れる。


 そうだ。

 もう、ここまで来たら心の勝負だ。

 だから、どんなに改造されたって、人間の心のありようの俺じゃあ勝てない。


 夏彦は拳を返す。


「いいのか、死んでも」


 というより、勝ったとしてだ。

 夏彦は殴った反動に耐えながら思う。

 勝ったとして、俺はどうする?

 人間を越えたもの、そんなものが実際にどんなものかは別にして、それになってしまうのか? 俺はそれに耐え切れるか?

 たった一人きりの存在。化け物。怪物。

 多分、できない。

 俺は、人に憧れながらじゃあないと、生きていけない。


「だから、譲るのか? 怪物に、その権利を」


 権利ってほど大したものかよ。

 こいつなら、きっと、そんなになっても微笑んでいられるんだろう。

 適性の問題だ。

 こいつの方が、向いている。


 拳。

 夏彦は耐える。

 そうして、反撃。


「そうか、それはそれでいい。ひとつ、教えてくれ」


 拳。


 何だよ。


「それなのに、どうしてお前は、そうやって歯を噛み砕くほどに必死で怪物と張り合っている?」


 拳。


 憧れを裏切れないからだ。

 ここで、諦めるような奴は俺の憧れじゃあない。


「つまり、意地か」


 拳。


 そうだ、ただの、くだらない意地だ。


「だが、お前は、既にその憧れとやらに追いついたんじゃあないか?」


 拳。


 何?


「お前はもう人間離れした力を手に入れた。こんな、常人なら絶対にもう諦めてしまうような状況でも、歯を食いしばって耐えて意地を張る。力も精神も、お前はもう憧れを体現しているだろう」


 拳。


 馬鹿な。


 拳。


 まだだ。


 拳。


 まだまだ、もっとだ。俺より優れている部分がある人間は溢れている。


 拳。


 だから、俺の憧れはまだまだ先にある。

 決して、多分、永遠に追いつけない。


 拳。


 まあ、でも、それでいい。

 追いつけないものを追い続けるのも、それもまた理想だ。


 拳。


「なるほど、それがお前とーー」


 拳、が、来ない。


 不思議に思って、顔を上げた夏彦が見たのは、今にも倒れそうに大きく体を揺らす怪物の姿だった。


「ーーそれが、僕との違いか」


 口から血の泡と一緒に言葉をこぼして、怪物はまだ笑っていた。


「追いつけないわけだ。やはり、君は、イレギュラーだ」


「そうだ、やはり、お前が必要だ」


 怪物の声と重なるように頭の中の男の声。


 そうして、電池が切れたように、ふっと怪物の体から力が抜けて、そのまま死体のように倒れこむ。

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