拳。
お互いの腹にめり込んだ。
「ぐっげぇ……馬鹿力がっ」
胃液を吐きながら、夏彦は呻く。体をくの字に曲げて震える。
「身体能力は僕の方が上か、今の状態では」
怪物は拳を受けても体を曲げることなく、そのまま平然と立つ。
「ただし、技術は君が上かな」
ごぽり、と血の泡が口からこぼれる。
「ほら、次はどうだい?」
ぐい、と握手していた腕を引かれて、夏彦はバランスを崩す。
その夏彦の頭を目掛けて蹴りが逆袈裟に襲う。
「下手な蹴りだな」
夏彦は首を傾げるようにしてその蹴りをかわす。
「強くて速いだけだ」
「それで充分だろう?」
「いいや」
今度は夏彦が怪物の腕を思い切り引っ張る。
「ふふ」
だが、力が余っているのは怪物の方だ。びくともしない。
夏彦は動揺することもなく、ほんの少しだけ手首を捻ると同時に、握手していた指を怪物の手の甲に突き立てる。
「ほう」
かくん、と怪物の膝から力が抜けた。
驚いたようにあるいは面白がるように怪物の表情が崩れる。
そうして、あっけなく怪物は夏彦に引っ張られてバランスを崩される。
「圧倒的な力に頼りすぎたな。技術が足りない。まるで、子どもだ」
夏彦の蹴りが、怪物の喉に命中する。
「ごっ」
そのまま吹き飛びそうになる怪物だが、夏彦と繋いでいる左腕がそれを繋ぎとめる。
「もう一撃」
今度な夏彦の右拳。
硬質の音を立てて、拳が怪物の側頭部に当たる。
「なんの、まだまだ」
カウンター。いや、カウンターといえるようなものじゃあなかった。ただ、攻撃を喰らうことを前提に反撃の準備をしていただけ。
ともかく、怪物の右拳も夏彦の胸に突き刺さった。
「う」
肋骨が軋むし、何よりも。
呼吸ができず、一瞬鼓動さえ停止した。体が動かない。
「ほうら、これなら、力がものを言うだろう?」
その隙に、怪物の右手が夏彦の喉を掴み、そのまま締め上げる。
「ぐ……お、前」
「窒息させるつもりはないよ。このまま、君の喉を握りつぶす」
怪物の右腕の太さが、見る見るうちに二倍くらいにまで膨らんでいく。
「左手を、握手して、右手で、喉を、掴む」
かすれた声で、夏彦は必死に言い募る。
「悪いことは、言わない、やめておけ」
「いいや、やめないよ夏彦君。これで終わりだ」
「まさか」
手品か何かのように、夏彦の体がするりと怪物の足元に沈み込んだ。
同時に、首を掴んでいたはずの怪物の左手がいとも簡単に解けていた。
そうして、怪物は宙返りしようとしているかのように足先を上に、頭を下にして、
「やめておけ、って言っただろ。あの学園長の弟子だぞ、俺は。素人が両手を俺に触れておくなんて、自殺行為だ」
そのまま、轟音と共にアスファルトの地面に怪物の頭が突き刺さる。
「はぁははは、楽しいね」
一瞬の間を置くこともなく、怪物が立ち上がる。無茶な動きに、握手で固定されている左腕が曲がってはいけない方向に曲がる。
怪物は笑っている。目と耳から血を流しながら楽しそうに。
その動きに虚を突かれ、怪物が叩きつけてくる右腕の攻撃をまともに喰らう。
「うっ」
その勢いに、掴まれている左手を中心にして夏彦は回転する。
「ふふっ、ほおら」
そうして、後頭部に蹴り。
夏彦の意識が消失して、地面への激突でまた戻る。
「かあっ」
夏彦も間をおかず立ち上がる。
だが、まともに立てない。三半規管がぐちゃぐちゃで、どっちが空からすら分からない。
攻撃なんて夢のまた夢。
「よっ」
だが、それでも、左手で怪物の左手を掴んでいることには変わりない。なら、それでいい。
体重移動と、ちょっとの握力。
それで、怪物は宙を舞ってから地面に落ちる。
「がっ」
それを夏彦が引き起こしたのか、それとも怪物が立ち上がったのか、二人にも定かではない。
ともかく、次の瞬間にはお互いの拳がお互いの腹に命中していた。
それをものともせず、怪物の攻撃が今度は頭に。
歯を食いしばり、夏彦は耐えて手刀を怪物の胸に。
「があっ」
胸を突かれ、ちと叫びを吐く怪物。
一方、少し前ならば人体を貫くはずだった夏彦の手刀は、貫通できずに指の骨が折れる。
その折れた指を握りこんで拳を作ると、夏彦はそれを怪物にぶつける。
「がはっ」
大して固められてもないその拳をぶつけられただけで、怪物の体は大きく揺れた。
「ふふっ」
血を吐きながら怪物が殴り返してくるのを、夏彦は額で受ける。
これまでなら平気で額を割るであろうその拳は、逆に額に粉砕された。
「ふっ、ふふっ、痛い」
「ぐ、う」
一方の夏彦も、その衝撃で首の骨を軋ませて、激痛に呻く。
その隙に、怪物が首に腕を絡み付けてくる。
体重をかけられ、夏彦は地面に一緒に倒されながらも怪物の腹に拳を打ち込む。
互いに地面を這いながら相手の体に、もうどこでもいいから拳を打ち込む。
既に拳は潰れてぐちゃぐちゃ。
あるいは隙ができれば関節を極める。けれど、それもお互いにあまり意味はない。関節を壊しながら、無理矢理に動いて互いの急所に一撃を入れようとする。
腕だけではなく、足でも急所を狙う。あるいは、脚で関節を極めようとする。
その脚を、膝を拳で叩き壊す。あるいは逆に拳が蹴り壊される。
もはや呻き声さえ立てずに、二人はお互いの肉体を破壊し合う。
まるで二匹の大蛇が絡み合っているかのようだった。
もうお互いの肉体の再生はほとんど止まっている。夏彦も怪物も、お互いの左手を握っている左手の指以外、四肢は原型をとどめていない。
怪物が夏彦の喉に噛み付こうとする。夏彦が折れ曲がっている右腕で阻止する。怪物は右腕に噛み付く。夏彦は怪物の眼に目掛けて頭突きをする。怪物はそれでも噛み付いたまま放さない。もう一度頭突き。怪物が肉を食いちぎる。
「ぐらあ」
「があっ」
二人とも、声ではなく獣の鳴き声を出している。どちらがどちらの鳴き声が、誰にも分からない。
揉み合い、壊し合い。
そして、どちらともなく、動きを止めて、ゆっくりと、全力をそれに集中させて、二人は本当にゆっくりと、立ち上がった。
立てているのが奇跡のような有様だった。お互いに、両脚ともいかれている。かろうじてバランスを取れているような状態だ。
もちろん壊れているのは両脚だけではない。むしろ、壊れていない部分がないくらいだった。二人を繋ぐ左手は、指が折れ曲がったまま、知恵の輪のように絡まっている。
無言で、怪物がパンチをする。
もうその攻撃は、ただの喧嘩自慢の拳以下の稚拙なものだった。
体を鍛えたこともない、ただのインドアの少年の拳のようだった。
だが、それを受けて、夏彦は大きく体を揺らす。
もう、立っているのも奇跡の身に、その攻撃は充分すぎた。
それを耐え切り、何とか立ち続けながら、夏彦も反撃の拳を繰り出す。
その拳ももう見る影はない。こんな攻撃では、街で喧嘩を売られたところで勝つことは難しい。
その攻撃を受けて、怪物は血塗れの顔を歪め、大きく後ずさる。
それでも倒れず、怪物は攻撃を返す。
暗黙の了解のように、夏彦と怪物はお互いに一撃ずつ殴り合っていた。
殴るたびに、お互いの体から血が飛び散る。
もう、前を見ていられない。
夏彦は地面に顔を向ける。顔を上げる力すらなかった。
それでも、殴り殴られ続ける。
それはやめない。
「どう思う?」
夏彦の割れそうな頭の中で、男の声がする。
「お前は、怪物より特別な存在か? 証明できるか?」
無理だな。
夏彦は片隅にある意識でそう返す。
「ほう、何故だ?」
拳。
夏彦はその衝撃で意識を失いかけて、自分の唇を噛んでその痛みで意識を繋ぎとめる。
怪物は、人じゃあない。最初から人じゃあない。存在として、ずば抜けている。
だって、見てみろよ、怪物の顔を。
「ほう、なるほど。笑っているな」
怪物はまだ微笑をとどめていた。その顔のまま、ぼろぼろの体を動かして、殴ってきている。
その怪物に向けて、夏彦は拳をぶつける。
体を揺らしながら、怪物はそれでも微笑む。
こんな、苦痛と絶望と疲労の塊みたいな状況で、笑っている。
多分、苦し紛れとか強がりじゃあなくて、本当に、ただ笑っているだけなんだろう。もう、それは人じゃあない。力が強いとか、再生能力があるとか、そんな話じゃあない。
きっと、心が人間じゃあない。強い。
夏彦はそう思う。
「だから勝てないと?」
また拳。
夏彦は、歯を食いしばって耐える。奥歯が割れる。
そうだ。
もう、ここまで来たら心の勝負だ。
だから、どんなに改造されたって、人間の心のありようの俺じゃあ勝てない。
夏彦は拳を返す。
「いいのか、死んでも」
というより、勝ったとしてだ。
夏彦は殴った反動に耐えながら思う。
勝ったとして、俺はどうする?
人間を越えたもの、そんなものが実際にどんなものかは別にして、それになってしまうのか? 俺はそれに耐え切れるか?
たった一人きりの存在。化け物。怪物。
多分、できない。
俺は、人に憧れながらじゃあないと、生きていけない。
「だから、譲るのか? 怪物に、その権利を」
権利ってほど大したものかよ。
こいつなら、きっと、そんなになっても微笑んでいられるんだろう。
適性の問題だ。
こいつの方が、向いている。
拳。
夏彦は耐える。
そうして、反撃。
「そうか、それはそれでいい。ひとつ、教えてくれ」
拳。
何だよ。
「それなのに、どうしてお前は、そうやって歯を噛み砕くほどに必死で怪物と張り合っている?」
拳。
憧れを裏切れないからだ。
ここで、諦めるような奴は俺の憧れじゃあない。
「つまり、意地か」
拳。
そうだ、ただの、くだらない意地だ。
「だが、お前は、既にその憧れとやらに追いついたんじゃあないか?」
拳。
何?
「お前はもう人間離れした力を手に入れた。こんな、常人なら絶対にもう諦めてしまうような状況でも、歯を食いしばって耐えて意地を張る。力も精神も、お前はもう憧れを体現しているだろう」
拳。
馬鹿な。
拳。
まだだ。
拳。
まだまだ、もっとだ。俺より優れている部分がある人間は溢れている。
拳。
だから、俺の憧れはまだまだ先にある。
決して、多分、永遠に追いつけない。
拳。
まあ、でも、それでいい。
追いつけないものを追い続けるのも、それもまた理想だ。
拳。
「なるほど、それがお前とーー」
拳、が、来ない。
不思議に思って、顔を上げた夏彦が見たのは、今にも倒れそうに大きく体を揺らす怪物の姿だった。
「ーーそれが、僕との違いか」
口から血の泡と一緒に言葉をこぼして、怪物はまだ笑っていた。
「追いつけないわけだ。やはり、君は、イレギュラーだ」
「そうだ、やはり、お前が必要だ」
怪物の声と重なるように頭の中の男の声。
そうして、電池が切れたように、ふっと怪物の体から力が抜けて、そのまま死体のように倒れこむ。
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