少年は後悔していた。
郊外に建つ幽霊屋敷。神に力をもらったと言って新興宗教のようなものをしていた男が、僅かな信者と一緒に集団自殺をしたと言われている曰く付きの場所。
いつからか、その屋敷に雨が降っている時に行くと、幽霊に殺されるという噂話があった。
「議員様の息子は、そんなくだらない噂、信じないよな」
自分の父が代議士という職業であることでからかわれるのは、今に始まったことじゃあない。
中学に上がる前から、同じように何度もからかわれて、その度に真正面から粉砕してきた。
人よりも攻撃されることが多いから、完璧になるように自分を鍛えた。勉強も運動も頑張った。絶対に弱みを見せないようにしてきた。
「ああ、下らないな」
だから、少年はそう言われた時も、ただそう返して怯えた様子は微塵も見せなかった。
「すっげえ、俺達、怖がりだから無理だよ。なあ、今度の日曜は雨が降るみたいだから、行って証拠の写真でもとってきてくれよ」
取り囲む数人の少年達のリーダー格に、にやにやと笑いながらそう言われて、少年は内心ため息をついた。
下らない。とはいえ、そう言って断ったら、怖気付いたのだと言いふらされるだろう。
「分かった」
短くそう答えて、そして今日の朝、使い捨てカメラを片手に、少年は幽霊屋敷まで傘をさして一時間近く歩いてようやくたどり着いた。
まず外観を写真にとって、あとは中に入って何枚か適当に写真を撮れば終わりだ。
そう、思っていた。
「どう、なってるんだよ」
泣きそうになりながら、今日何度目かになる弱音を吐く。
そして涙を堪える。自分は強者だ、強者は泣いてはいけない。その意識だけが少年を支えていた。
噂の屋敷は、どうということのない廃墟だった。
なるほど、確かに不気味だが、それだけだ。
少年は写真を撮って、特に恐れることなく屋敷に足を踏み入れた。
そして世界は一変した。
玄関を入り、廊下を曲がったところで、寒気を覚え、念のためと引き返してみると、廊下の曲がった先は何故か玄関でなくて更に廊下が続いていた。
気のせいだと思った。間違えたんだと思った。
廊下を走って、次の曲がり角を曲がる。また廊下だ。
いつしか少年は走り出していた。出口を見つけようと走り回った。使い捨てカメラは途中で落としたが、気にする余裕はなかった。
そして、少年は涙を堪えている。
この屋敷に来たことを後悔しながら、廊下を歩き続ける。
今にも崩れそうなぼろぼろの壁は、何度蹴りつけても壊れないのは試したので知っていた。
その壁の向こうから、雨の音がずっとしている。
そして、不意に少年は恐ろしいことに気づく。
雨の音だ。
「なんだよ、これ」
雨は当然だが降ったり止んだりする。そうでなくとも強くなったり弱くなったりするはずだ。だが、さっきからずっと聞こえる雨の音は一定だ。
まるで雨音の音楽ファイルをずっとループ再生しているように。
あまりの理不尽さに、少年は叫びそうになり口を抑える。
俺は強者だ。強者は悲鳴を上げたりしない。
だが、もう限界だ。
口を抑えても、目から涙が零れ落ちようとする。
その時、
「うおっ、びっくりした」
廊下を曲がったところで、人がいる。
少年とぶつかりそうになったその男は、驚いてそんなことを言う。
少年はぽかんとする。
突然、自分以外の人間が現れたことに、反応できないのだ。
「何だよ、この屋敷の子どもか?」
明らかに廃墟であり、異様な空間であるにも関わらず、男はそんなことを訊いてくる。
男は二十代後半だろうか、擦り切れたスーツと、同じくらいに擦り切れた雰囲気を持っている。髪には白髪がかなり混じっていて、顔もやつれている。
だが、不思議と頼りないとは感じない。
まるで、硬く太い枯れ木を思わせる男だ。
「あの、お、おじさん」
突然のことに混乱する少年は、そしてこれまでの人生で、強くあろうとし続けた人生で一度も口にしたことのなかった言葉を発する。
「助けてください」
「ああ、もちろん」
男は即答する。それから、
「おじさんじゃなくて、お兄さんって言ってもらえるか?」
と注文をつける。
「ふうん」
少年からあらましを聞いた男の第一声はそれだった。
少年と男は、廊下にそのまま座って二人で話をしていた。
「ふうんって、もっと他にないの?」
「この屋敷にそんないわれがあるっていうのは勉強になった。それだけだな」
「あの、そもそもおじ……お兄さんは、どうしてこの屋敷に?」
当然といえば当然の少年の質問に、
「別に来たくて来たわけじゃない。歩いてたらここの廊下に辿り着いたんだ」
と、意味不明なことを言う。
「な、何それ?」
「そのままだよ。森を歩いてたら、このボロい廊下に出たんだ。いつものことだから気にもならないけど」
そこで、突然男はあっと声を上げる。
「そういや、俺と君、特に支障なくコミュニケーションとれてるな」
「え、ええ」
こんな訳のわからない男が今の唯一の救いであることに、少年は情けなくなる。
「ってことは、日本? というか、地球か?」
「はぇ? はあ、まあ」
まずい、完全にまずい。危ない人だ。
少年は逃げ出そうかと迷う。だが、この人とはぐれたらまた一人でここを彷徨わなければいけない。
「マジかよ。今、西暦何年?」
仕方なく、少年は教える。
「大分近いな。これ、いい傾向か?」
そんなことを言って、一人で男は首を傾げる。
「ま、座ってても埒が明かない。とりあえず歩こうか」
そして立ち上がり歩き出す。
少年も慌てて後を追う。
「時空の歪みって言葉あるだろ」
歩きながら、男は話しかけてくる。
「ええ、ありますね。SFとかで」
「実際に宇宙とかでは歪んでるらしいじゃんか」
「ああ、そんな話も聞きますね」
あまりにもスケールが違うから、想像もつかないが。
「空間が歪んでたら、時間も歪んでるもんだよ」
「ひょっとして、雨の音のことですか?」
少年の答えに、男は目を開いて、
「気づいてたのか、鋭いな、少年」
と感心する。
「空間が歪んでいるし、時間も歪んで同じ時間を繰り返しているんじゃないかな、ここ。だから俺が迷い込んだ」
「え?」
話の飛躍に、少年は戸惑う。
「基本的に、時空が歪んだ場所に辿り着くようになってるんだよな、俺。あいつのせいで」
「あいつって?」
「ええと、名前何だっけ、忘れた。名前沢山あったしな。ともかく、俺のストーカーだよ。他の国まで逃げたのに追ってきてさ」
「はあ」
いつしか男の口調は単に愚痴るものになっていて、少年はとりあえず相槌を打つ。
「で、あいつは空間を操れるんだ。俺もできるんだけどね。で、その能力で攻撃し合ってたら、空間が歪んだわけ。空間が歪んだら時間も歪む。で、俺はそれに取り込まれて、何というか存在自体が時空的にずれたみたいなんだよな。時空の歪んだ場所にワープし続ける毎日だよ。過去も未来も別の宇宙もお構いなしでさ」
妄想としか思えないことをぺらぺらと喋りながら、男は廊下を曲がる。
少年は少し男のことが怖くなる。
この人、突然暴れ出したりしないだろうか。
「まあ、一応不老不死だからいいんだけどさ、もう何十年、何百年、何千年こんな生活してるか分からないよ。一応、行く先々で人を助けるようにはしてるんだけどさ、エリートになりたいから。けど、さすがに自分が擦り切れていくっていうか、何ていうかね」
「あの」
我慢できなくなって少年は口を挟む。
「本当に何千年もそんな生き方をしてたら、頭がおかしくなってると思いますけど」
妄想を否定して暴れ出しても困るので、まずは妄想に乗ったうえで突っ込んでみる。
「あー確かにそうかもな。けど、俺の場合は、まあ覚悟ができてたっていうか」
「覚悟?」
「確かに規模は違うんだけどさ、けど、普通の人間だったとしても、やっぱりな、理想を追う道って、延々と続くものだろ」
その言葉と、男の疲れ切ってそれでも毅然とした横顔に、少年は息を飲む。
あるいは、それは少年が目指す強者の道が延々と続く、と言われたように感じたからかもしれない。
「理想って?」
突っ込むのではなく、純粋に知りたくなって少年は質問する。
「ん? さっき言っただろ、エリートになることだよ」
そこで男は立ち止まる。
「さて、前ばかり向いてたら永遠に彷徨うはめになっていたわけだな」
男は下を向いている。その床には、四角形に切れ目が入っている。
「こ、これは?」
「さあ? けど、多分このまま廊下を歩き続けても何もない。行くとしよう」
そうして、男は爪をひっかけると、その四角形を持ち上げる。
床には、地下への入り口らしき穴が空いていた。
「じゃあ、まず俺が行くよ」
そう言って、男は躊躇いもなく穴に飛び込む。
「よし、降りて来い、オッケーだ」
穴から声がして、少年もしばらく迷った後で、意を決して穴に飛び込む。
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