言葉も出ずに、夏彦はたたらを踏む。
そこにナイフが突き出される。
勘だけを頼りに、夏彦はわざとがくがくと揺れる脚から力を抜いて、その場に仰向けに転ぶようにする。
鼻先をナイフが通り過ぎる。
転がったまま夏彦はタッカーの腹に思い切り蹴りを入れる。
「ぐっ」
大したダメージはないようだが、多少は怯む。
その隙に距離をとって夏彦は起き上がる。
「限定能力が本人の精神性なんかの影響を受けるっていうのは知っているよね?」
つい一瞬前に争ったことなど忘れたかのようにタッカーは話を続ける。
いや、続けているのか?
夏彦は疑問に思う。
話が繋がっていないんじゃないか?
「限定能力が勘の強化――なるほど、分かり易い。夏彦君の本質がそこに出てるね。つまり君は、自分がないんだ」
だが。
その話はすぐに繋がって。
「勘、第六感、直感。言い方は色々あるけど、つまり一番原始的なもの、本能的なものだね。それを強化する、いや、それを強化するしかない。何故なら、他に何もないから。何かに対するこだわり、矜持、誇り、コンプレックス、自信、執念。何も持っていない」
喋りながらタッカーは近づいてくる。
ナイフのフェイント。次は蹴りだ。分かっていてもみぞおちに蹴りがはいる。ローキック。勘で次の攻撃をナイフだと読む。外れ。拳。耳の辺りを殴られる。耳鳴り。前蹴りで金的。体をくの字にする。そこにナイフ。それだけは防ごうと、転がるように体当たり。
不意を突かれたのかタッカーの動きがとまる。
今しかない。
ナイフを持っている左手を夏彦は掴む。だが、夏彦の左手を同時にタッカーに掴まれた。
そのまま、タッカーは夏彦の右腕の傷口に指を入れる。
「ぬぁっ」
ナイフを掴んでいた夏彦の手が緩み、タッカーがナイフを振るう。
反射的に避けた夏彦の頬がナイフで切り裂かれる。
「どうして限定能力で強化されているはずの勘をもってしても俺に勝てないか不思議かな? 別に俺がナイフを持っているからとか、そんな理由じゃないよ」
避けた夏彦の腹に、喋りながらタッカーが膝を打ち込む。
「ぐうぅ」
「本物には勝てないってことだね。ずっと磨いてきた技術に、勘で一足飛ばしで手に入れた技は勝てない。練り上げ続けたフェイントを織り交ぜての戦闘の組み立てに、勘での判断は敵わない」
ナイフの振り下ろし。勘で避ける。避けたところに蹴りがきて、片足が酷くやられる。
いや、もう両足をやられているか?
夏彦には判断できない。とにかく、感覚のなくなった両足を必死に動かして距離をとる。
くそ。
タッカーが犯人なのは、やたらと腹が立つ。顔に一撃入れてやらなきゃ気がすまないが、実際は一方的にぼこぼこにされている。
鉤突き。
肋骨が軋む。吐き気。
とにかく逃げる。ナイフに絞って攻撃を避ける。ナイフさえ食らわなければいい。
「エリートに憧れているんだよね? 噂は聞いているよ。けど、当たり前の話だよね。人は自分にないものを持っている人に憧れる。何も持っていないものにとって、エリートなんて存在は憧れの塊みたいなものだろうね」
ナイフ。避ける。
ナイフの一撃を避ける代わりに、夏彦は他の攻撃を何度も受ける。もう、左手は完全に動かない。
耳鳴りが止まらないし、視界がさっきから安定しない。左腕の傷からの血が止まらない。
そんな状況でも、タッカーの言葉はいやに鮮明に入ってくる。
「だからだろう? 自分が空っぽだから、持っている人に憧れる。すぐ近くに料理にこだわりを持ってる人間が、アイリスとつぐみっていう二人がいたんだ。そりゃあ、憧れるね。影響を受けるよ。いつの間にか混同して、自分が料理の不正を許せないなんて思ってたんだろうね?」
ああ、なるほどな。
夏彦は別にショックは受けない。むしろ感心する。
そうか、どうして俺が料理の大会にこんなに拘ってたのか、ようやく分かった。人に言われて気づくのも間抜けな話だが。
つぐみ。アイリス。
あいつらの、影響を受けただけか。
蹴り飛ばされる。
ごろごろと転がって、夏彦は起き上がる。
「……ぷっ」
口の中に異物感があり、吐き出すと血にまみれて白いものが出てくる。歯が折れたらしい。
そうか。
ようやく、夏彦はタッカーが今回の犯人だと実感できる。
許せない。
自分でも理解できないくらいの猛烈な怒りが煮えたぎる。
「知力、体力、武力、権力、限定能力……全てを合わせた総合的な力。それが夏彦君の場合は軽いんだよね。芯に何もないから。覚悟も執念も、何もね。勘で無理矢理人並み以上に振舞えて、それで満足してる限りは、勝てないよ」
喋りながらタッカーは蹴りを繰り出す。
肩に当たって、夏彦はよろめく。
「喋りながら攻撃する。これなんかも訓練の賜物だね。逆に、訓練できていないから、目の前に集中しようとしても頭の何割かは相手の会話に割いてしまう。すると防御が疎かになる」
こんな風に、とタッカーはまた蹴り。
脚に当たって、意思とは無関係に脚から力が抜けて、夏彦はその場に膝をつく。
「そうそう。どうしてこんなことになるまで強化された勘が働かなかったのか、分かってないよね? あれはね、簡単な話だよ。勘や直感っていうのは、はっきりと目に見えるものじゃあない。だから、別の感覚で簡単に誤魔化される」
膝をついて、もう息も上がった夏彦は顔を上げることすらできない。
それなのに、話だけは聞こえる。妙なものだな。
夏彦は不思議に思う。
「心情だよ。俺が犯人であってほしくないって、強く思ってたんだろう? 一体どこまでが自分の願望で、どこからが勘や直感なのか、分からなくなったんだろうね。簡単な話だよ」
ああ、そうだ。
今なら分かる。タッカーが怪しいという勘と、事件とは無関係であってほしいという願望が一緒になっていた。勘が鈍ったんじゃあない。勘に、不純物が大量に混じっていた。それに気がつかなかっただけだ。
「俺の計画では、夏彦君が一番の障害だった。タイミング的にあの大会で仕掛けるしかないのに、勘でそれを気づかれるかもしれなかった」
一歩、タッカーは近づく。
「だから手を打ったんだよね。夏彦君と距離をとったら、それこそ、それを妙に思われる可能性がある。俺はね、逆に近づいたんだよね」
もう一歩。
夏彦には最早立ち上がる力すら残っていない。
「憶えてるだろ、俺が寮の部屋まで行って、アイリスを頼むって言ったこと。あれだよ。あそこまですれば、俺をアイリスのことを心配するお人好しだと信頼するだろ。俺が犯人であってほしくないと思うさ。たとえ、勘で怪しく思ってもね。正直、時間稼ぎになるか半信半疑だったけど、思った以上にうまくいった」
憶えている。だが。
夏彦はそこにかすかな違和感を抱く。
もう一歩、タッカーが踏み出す。
そして、ナイフの距離だ。タッカーのナイフは夏彦の頚動脈を切り裂くことができる。
「どうやら時間には間に合いそうだね」
ぽつり、とタッカーは呟きながらナイフを振るった。狙いは首筋。
見ていないが、それを夏彦は感じていた。
首にナイフが来る。そして俺は動けない。死ぬのか。
まだだ、と思う。
まだ、やれるはずだ。全身の力をかき集めろ。少しくらいなら動かせる。
首を傾げるようにして、夏彦はナイフの一撃をかわした
そのかわしたナイフを右手で掴んだ。タイミングは完全に勘だ。多少狂って、手のひらが切られたが問題ない。ナイフは掴めた。
「この――」
振りほどこうとするタッカー。
その振る力を利用するようにして、夏彦は立ち上がる。
「タッカー」
そして、耳元で言う。
全力を使って、頭を起こす。夏彦とタッカーの目が合う。
「色々、ためになった。俺も知らない俺のことを教えてくれて、ありがとう」
血まみれの顔で、かすれた声で夏彦は礼を言う。
それは強がりでも冗談でもなかった。別に役に立ったとも思えなかったが、興味深くはあった。だから、それについて礼を言っただけ。
「けど、その話はもうおしまいだ。俺は、自分が空っぽだと言われても腹も立たないしショックも受けない」
ようするに、俺がつまらない人間だってことだ。
夏彦は、そう理解していた。
そんなことは分かっている。自分が卑小だからこそ、エリートに憧れた。自分が持ち得ないから、持っている者に憧れたんだし。
それに。
虎、つぐみ、ライドウ、クロノス、胡蝶、コーカ、月、律子、秋山、アイリス。
この学園で出会った人間の顔が、断続的に蘇る。
色々な人に憧れることができるのも、悪くない。
「だから、これからはお前の話をしよう。お前と、アイリスの話を」
「――何?」
ぴくり、と一瞬。
ほんの一瞬だが、タッカーは無防備になる。
その瞬間を狙って、夏彦はタッカーに組み付いた。
「ぐっ、お前っ」
「……今回使い物にならなかったとはいえ、俺の勘も捨てたもんじゃないだろ。お前のアキレス腱はアイリスじゃないかって、そんな気がしてたんだ」
そう。
夏彦は思い出していた。
タッカーが勘を鈍らせるためだと語った「アイリスをよろしく頼む」と頼まれた時のことを。
「あの時、アイリスのことを頼んできたお前の態度、何割かは本物だった、そうだろ? そうじゃなかったら、俺の勘を鈍らせる以前に、その時点で俺の勘に引っかかって警戒されるかもしれない。お前は、自分の本物の心情を利用したんだ。それが、俺を信用させる一番の方法だからな」
喋りながら、組み付いたまま夏彦は自分の体力を回復させる。
もうすぐだ。
もうすぐ、自分で立つくらいはできる。
時間を稼ぐ。感じたことを言え。勘で半分くらいは当たるかもしれない。こいつを動揺させるんだ。
「タッカー、お前、死ぬ気なんだろ? 少なくとも、逃げ切ることはできない」
虎は、自爆テロだと評していた。
「だから、どうした?」
夏彦を振りほどこうとしながらタッカーが吐き捨てる。
「どうして命を捨ててまで、生徒会長を失脚させるんだ? 内通者仲間の連中が、そんなに大切か?」
「さあね」
タッカーが肘打ちを何度も打ち込んで、振りほどこうとするが夏彦も必死でしがみつく。
「アイリスのためじゃあないのか」
「――何?」
振りほどこうとするタッカーの力が緩む。
「アイリスを人質にとられていたりとか、な」
それは、夏彦が虎の話を聞いてからずっと疑っていたことだ。
タッカーが命と引き換えにしても惜しくないものは何か。それは、孤児院で一緒に育った幼馴染、アイリスの存在そのものじゃあないか?
少なくとも、アイリスを案じているタッカーの心情は本物だと夏彦は確信している。だからこそ、そうとしか思えない。
「そうだろう? お前は、アイリスのために――」
夏彦は言葉を止める。
タッカーの体が、震えている。
激情のためかと思っていた夏彦だが、すぐにそれが間違いだと気づく。
笑っている。
タッカーは体を震わせて笑っていた。
「間抜け」
瞬間、世界が回転する。
投げられた、と気づくよりも先に肩から着地した。衝撃。掴んでいたナイフがすっぽ抜けた。
追撃の蹴りが顔面にヒットする。
「くぁっ」
だが浅い。すぐに夏彦は立ち上がる。何とか体を動かすことができまでには回復している。
鉄の匂い。唇が切れて、鼻血も流れ出している。
鼻が曲がっているので、夏彦は手で無理矢理鼻を真っ直ぐに戻した。みちり、という音と激痛。しかし、そんなものが気にならないほどに頭の中が疑問で一杯だ。
どうして、笑っている?
ナイフを握ったまま、タッカーは笑っている。体を折り曲げて笑っている。さっきまでの様子からは考えられない、奇妙な振る舞いだった。
「くく……くくくっ、アイリスが、人質? まったく、面白い発想だね。考えもしなかった。違うよ、アイリスは関係ない。いや、ある意味では関係あるか」
笑みを残したまま、タッカーはナイフを構える。
「俺が命を捨ててまでこんな下らないまねをする理由はシンプルでね、それが命令だからだ。命令には絶対服従。それが染み付いているもんでね。惰性で動いてると言った方が正しいかな」
染み付いている。惰性。
その単語で、夏彦は直感的に理解した。タッカーが内通者たちの命令のために、命すら捨てる理由。
「そうか。お前、いや、お前とアイリスがいたのが――」
「想像通りだよ。俺たちがいた孤児院、それが学園の言うところの『外の組織』の息がかかってたんだよね。というより、組織の手駒の養成所みたいなものだね」
まだ笑みを貼り付けたままで、タッカーは続ける。
「ああ、といってもアイリスは知らないよ。あの孤児院から組織の手駒になったのは、俺を含めて二、三人だからね。適正があると判断された奴しか選ばれなかったよ」
笑い続けるタッカーの目が、恐ろしいほどの冷たさを帯びてくる。
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