何の飾り気もない殺風景な部屋。机の前に、夏彦は立っていた。机を挟んだ向こうには、椅子に座った男。
「特に用もなく会いに来るとは。剛毅なものだな」
火傷の痕。眼帯。素肌とジャケット。そして、鉄や石を思わせる、固く重い存在感。
雲水は変わっていなかった。いかに学園が揺れようとも。
「俺も、まさか本当に会ってくれるとは思ってませんでしたよ。忙しいでしょうに」
「敬語はなくて構わん。もはや上司部下の関係でなく、歳も同じ。何より敬意が存在してなかろう」
「そういうわけにも行きませんよ。それに、敬意がないわけないでしょう。一年生で、会長にまで昇りつめたあなたに」
夏彦は司法会本部にいた。
ふらりと尋ねた夏彦を、司法会の最高役職者、司法会会長の雲水は迎え入れた。
今、夏彦と雲水は向かい合っている。
「しかし、用はないが会いたい、と正直に言う奴がいるとは思わなかった。バサラ者め」
「いや、嘘をつこうにも、思いつかなかったから、正直にね……それに、実際、俺は会長と喋ったこと、ほとんどなかったんで」
更に正直に言うなら、失われた記憶の片隅で雲水の名が出たからだが、さすがにそこまでは説明しない。
「別にお前に限ったことではない。俺は誰かと個人的に親交を持つようなことはなかったからな」
「ああ、そんなもんですか?」
「ああ」
そこで、雲水はついと目を天井に向ける。
「俺に敬意があると言ったが、それは間違っている。俺に敬意を持つべきではない」
「え?」
「それは、例えば河を見て、いつも流れていることに敬意を持つようなものだ。魚が泳ぐことに敬意を持つようなものだ。無為自然。それに敬意なぞいらない。ただ、そこにあるだけのものだ」
「……でも、会長。だったら、どうして会長にまでなったんですか、前会長と前副会長を殺してまで」
「確かに。だが、あれは俺が出世したいから殺したわけではない。規矩を破ったからだ」
「規則を破ったから、殺したと?」
「違う。いや、間違ってはいないか。説明が難しいな。俺が殺したのだが、俺は代弁者のようなものだ。もっと大きな概念のようなものの代わりに、俺が殺したのだ」
「大きな概念って――」
失われた記憶の話を思い出して、夏彦は唾を飲む。
「神、とかの話ですか?」
「神? いや、そんな大層なものではない。言うなれば、決まりは守るものだ、という概念そのものだ。これ自体、トートロジーではあるのだが。守るものを、決まりと呼ぶのだから」
「はは、なるほど。つまり会長ほど、司法会に相応しい人もいないわけですね。ルールの代行者なわけだ」
「ああ、多少ずれているが、そう理解してもらって概ね間違いはない。だが、俺は自らを律してその立場にあるわけではない。無為自然のままに振舞っていたら、そうなっていただけだ。単なる性分だ」
「生まれつきですか?」
「いや」
少しだけ、雲水にしては珍しく言い淀んで、
「俺の火傷、これは子どもの頃のものだ」
と雲水は自分の話を始める。
「爆発に巻き込まれた。半死半生を彷徨った挙句、現世に落ち着いた俺には、その後遺症が残った」
「後遺症?」
「幻覚、幻聴。脳内麻薬の過剰分泌。常に恐ろしい妄想に襲われ続け、死に至るような痛みが永遠に続き、暴れ狂いたくて堪らなかった」
雲水は恐ろしい内容を淡々と喋り続ける。
「だから俺は暴れた。限界まで疲労して体が動かなくなるまで暴れたら、その後は瞑想だ。幻覚、幻聴をコントロールするためにな。禅寺にも通った」
岩のような体を軋ませながら、雲水は椅子から立ち上がる。夏彦に背を向け、窓から外を見る。
「その頃の俺の生活は、無茶な鍛錬と同じだ。精神と肉体を痛めつける日々。すぐにどちらか、あるいは両方が壊れて終わりだ。普通ならばな。だが、俺は幸か不幸か、それを乗り切った。乗り切ってしまった。異常なレベルの鍛錬を日常として生き延びた。行住坐臥、その全てが肉体と精神を限界まで鍛え上げる鍛錬。そして、俺が出来上がった」
「……はあ」
夏彦は呆然として困ったような声を漏らす。
あまりの話に呆然としながらも、しかし夏彦は同時に納得していた。
巨大な自然石のような雲水の佇まい、その理由が少しだけだが分かった気がした。
「その頃からの習慣みたいなものだ。法を重視するのはな。禅、そして瞑想は、無から決まりを見出すようなものだからな。もっとも、その決まりを最終的に無にするのだが」
「色即是空って奴ですか? それとも、空即是色?」
適当に夏彦が答えると、
「さて。俺如きが、それを答えられる境界に達しているとは思えないな」
そこから、沈黙。
静寂の中、
「……あの」
と、夏彦はその背中に声をかける。
「何だ?」
「どんな感じですか、今、学園は」
「さて。俺には何も分からん。ただ、己の務めを果たすだけだ。司法会の長としてのな。学園が潰れようが、副会長と監査課課長が消えようが、それは変わらん」
「なるほど」
感心と呆れが入り混じったため息を吐く夏彦。
「何が、なるほどだ?」
「いえ、ある人がね、雲水会長は、会長になるべくしてなった。だから、一年生で会長になっても、別に意外でも何でもない。そんなことを言ってたんですよ。その言ってた意味が、ようやく分かりました」
「褒めているのか?」
「いや、特には。でも」
「うん?」
「やっぱり、尊敬はします」
「夏彦」
雲水は振り返る。
鉄のように静かで重い眼光が夏彦に向かう。
「はい?」
「俺も、お前を尊敬している」
「俺を? 尊敬?」
あまりにも意外な言葉に、夏彦は鸚鵡返しにする。
「お前は、俺とは正反対だ。性分でもなし、素質もなし。河なのに、炎を纏おうとする。魚なのに、空を飛ぼうとする。俺には無理だ」
「そんなつもりは、ないですけど」
「だからこそだ。お前自身は、無理をしている意識はないんだろう? だからこそ、俺はお前を尊敬している。会など関係なく」
にこりともせず、雲水は言う。
「嬉しいですよ、正直な話」
「そうか……それで、話はもういいか? そろそろ、仕事に戻らねば。ライドウも胡蝶も、お前も抜けてしまったわけだからな」
「悪いですね、面倒かけて」
「言っただろう、性分だ。気にするな」
最後まで、雲水は表情を変えなかった。
「ふう」
自分の部屋に入って、一番に出てきたのはため息だった。
普通に授業に出て、ちょっと雲水と会っただけだというのに、異様に疲れた。
体力がなくなったのかもしれない。妙な夢、幻覚ばかり見ているからだ。疲れがとれない。
「……さて」
ベッドに腰掛けて、夏彦は天井を仰ぐ。
何だか、心がざわつく。
こんなことをしている場合ではないような。
「……虫の知らせか」
いわゆる、勘だ。
だが、もう夏彦が動くための動機は、勘しかなくなってきている。人脈も権力も使えない。そもそも、使って何をしていいのかも分からない、この状況。
強いて言うなら、失った記憶を取り戻したい、という欲求はあるが、それもレインのワインを飲んだ今、待っていれば蘇る気がする。
だとしたら、今、何をすべきか。
直感に従うしかないだろうな、と夏彦は単純に結論を出した。
要するに、何となく、やりたいようにやればいい。
軽食をとって、シャワーで汗を流し、動きやすい服装に着替える。
軽くストレッチをしているうちに、夕暮れだったそらは暗くなっていく。開けっ放しの窓からは夜の冷気が忍び込んでくる。
「行くか」
薄手のジャンパーを羽織って、夏彦は寮を出る。
もう秋の気配がする。
空気に香るかすかな秋を楽しみながら、夏彦は足を進める。別に急いでいない。
時間が決まっているわけではないのだ。
ゆっくりと、夜の道を歩く。
空の色は完全に夜のものになっていて、星と、そして月も見える。
今夜は満月だ。
その美しい月を、夏彦は仰ぎ見ながら歩く。
記憶の中の男が言っていた、神の話を思い出す。
確かに、この満月のようなものが、まったくの偶然でできるなんて信じられない気もする。誰かが、芸術品を作るつもりで作り上げたとしか。
「車、轢かれたらどうすんだよ」
声をかけられて、夏彦は空から地表に視線を戻す。
いつの間にか目的地についていた。
昨夜、大倉と出会い、殺し合った道に。
「待ったか?」
「いや、今来たとこだ」
そして、昨夜と同じ場所に、大倉は立っている。
「俺の勘も捨てたもんじゃねえな。ここで待ってりゃ、お前とまた会えると思ったんだ」
「なるほど。お互いに、勘でここに来たわけか」
夏彦は身構える。体は温まっているし、服装も身軽だ。コンディションは良い。
「準備万全って感じだな、ええ?」
黒尽くめの格好の大倉は、構えることなく、無造作に右手に警棒を持つ。
「武器を使うか」
「素手じゃあお前を倒すのは、骨が折れそうでな」
「一つ訊いていいか?」
「ああ?」
「どうして、そこまで俺を狙う」
「俺は暴れたいんだよ。俺をコケにした奴らは全員ぐちゃぐちゃにしてきた。お前だけが残ってるんだ。ケリをつけたいんだよ、それだけだ」
「あっそう」
「こっちからも訊いていいか?」
「何だよ?」
「どうして、そっちこそ付き合ってんだよ、俺と。ここに来たら殺し合いになるの分かってるのに、わざわざここまで来やがって」
「――ああ」
そりゃあ、そうだ。
虚を突かれて、夏彦は瞬間、無防備になる。
そうだ、俺はどうして、わざわざこんな場所に来る気になったのか。何となく、直感でこうなることは分かっていたのに。
どうして。
その夏彦の隙を突いて、大倉は瞬時に距離を詰めると、全力で警棒を横にフルスイングしてくる。
「うおっ」
しゃがんでその攻撃を避けた夏彦は、当然更に後ろへ飛び退く。
予想通り、大倉はフルスイングで崩れた体制から前蹴りの連続攻撃を行ってくる。
蹴りは夏彦の頬をかする。
「ちっ、相変わらずうまいな」
大倉は、限界まで捻った体を元に戻す。
「勝てないよ、もう」
挑発でも何でもなく、夏彦はぽつりと正直な感想を言う。
「ああ?」
「一度勝った上に、昨日、少しとはいえ手の内を見たからな。もう、俺がお前に負けることはない。お前は勝てない」
「あああっ!? やってみろよ!」
激昂して吼える大倉が、再び距離を詰める。
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