廊下には、学園内で作られたとは思えないようなクオリティの選挙ポスターが所狭しと張られている。
どのポスターもカラーで候補者の笑顔の写真と歯の浮くようなキャッチフレーズが載せられている。それがびっしりと並んでいるのは、この時期のノブリス学園の風物詩だ。
もっとも、夏彦にとってはこの時期のノブリス学園を経験するのは初めてのことなので風物詩かどうかなんて知りもしない。
いつものことだ、と律子や秋山といった先輩から説明を受けて風物詩だと知っただけだ。
「これが毎年のことなら、本物の選挙顔負けですよね」
第三料理研究部の部活動中、選挙の話題が出たのでたこ焼きを頬張りながら夏彦はそう言う。
「あーどうっすかね、確かに風物詩ではあるんすけど、今回の選挙は特別な感じっすけどね」
「う、うん。いつもより、ざわついてる感じ……」
秋山と律子の話を受けて、
「どウシて何ですカ?」
同じくたこ焼きを食べていたアイリスが質問する。
「どうしてって、そりゃ例の大処分……じゃねえや、なんか、今回生徒会の役職者の席が一気に空いたらしいぜ」
会に所属していないアイリスの前で例の内通者の処分の話を出しそうになった虎は、慌てて言い直す。
「そうそう。だから、今回はポストが大量に空いてるから、選挙が激しいみたいよ」
つぐみがはふはふとたこ焼きを口に運ぶ。
「「けド、いつモは三年生が生徒会長とか副会長にツイテるから、この時期ニハ卒業してて生徒会長、副会長って一番大きなポストが空イテるって話デスケど」
「あーそうっすね、今年の生徒会長と副会長は二年生だったんで、そのまま三年生になっちゃったんすよね。結構珍しい話っすよ。まあ、だから確かに、一番大きなポストが空いてないって意味では盛り上がらない選挙とも言えるかもしれないっすね。激しい一方で盛り上がりに欠ける選挙っすね」
この時期の選挙は、あくまでも欠けたポストを埋めるための選挙。総選挙があるのは半年後だ。ということは、去年の総選挙で二年生ながら生徒会長となったコーカは、そのまま次の総選挙まで生徒会長であり続けるということだ。
夏彦はそうやって頭の中で情報を整理する。口にはたこ焼きを運ぶ。
「まあ、何にせよ俺たちみたいなのには関係ねぇ話だよな」
虎がへらへらと笑いながらたこ焼きに爪楊枝を突き刺す。
「まあねえ。生徒会なんて入ってないし。あたしたちに関係ないと言えばないわね」
珍しく、つぐみが虎の不真面目な態度に同意する。
ひょっとしたら、お祭り騒ぎみたいな人気投票になっているこの選挙の状況はつぐみにとって不愉快なのかもしれない。真面目であるがゆえに。
「確かニ。今回の選挙、アタシの周りでも興味ある人ほとんどイナイわ。生徒会長と副会長が決まラナイからかモシレナいけど」
アイリスのセリフを聞いて、夏彦は「生徒会は形骸化している」と言ったコーカの言葉を思い出す。
もはや、一般生徒は生徒会選挙にほとんど興味をなくしているのかもしれない。いずれかの会に所属している人間たちが、権力闘争の一環として興味を持っているだけかもしれない。
ふうむ、とたこ焼きを口にしたまま夏彦は考える。
今回の大量に空いたポスト、そこに誰の息がかかった奴らが入り込むかで、これからの政治闘争、力関係が大きく変わってくるのだろう。選挙管理委員の連中も責任重大だな。
司法会からは監査課の人間、つまり夏彦の部下が選挙管理委員となる。正直な話、今回の選挙は夏彦にとっても重荷だった。課長である胡蝶が全て夏彦に丸投げしているため、今回の選挙についての責任は夏彦にのしかかっている。
もしも今回の選挙で不正が行われたら、責任の一端は夏彦が負うことになる。
損な役回りだ。うまくいっても別に利益はないっていうのに。
「浮かない顔してるわね……ああ、そっか、夏彦君は選挙他人事じゃないんだっけ」
つぐみが何の気なしに言う。
「え? どウイウこと?」
「夏彦は選挙の手伝いしてんだよ」
アイリスの質問に、他人事だと思ってにやにやと底意地の悪い笑みを浮かべる虎。
「そう。大変だよ、まったく。こうやってたこ焼きとかを食べてる時だけがリラックスできる時間だよ」
愚痴りながら夏彦は頬杖をつく。
「た、大変だね、夏彦君……」
本当に心配そうな律子とは対照的に、
「ははっ、お前のことだから、絶対に新しくトラブルが入ってくるな」
虎が縁起の悪いことを嬉しげに言う。
「よせよ。もし来ても、さすがに選挙で手一杯ですからって言って他の人に押し付けるよ、この状況じゃあ」
「他の人に回せないような筋からのトラブルとか頼みごとが来るんじゃないすか?」
悪乗りする秋山。
「どこの筋ですかそれ」
夏彦が呟いた瞬間、携帯電話の着信音が鳴り響く。夏彦の携帯電話だ。
思わず、無言で全員が顔を見合わせる。
おいおい、どういうタイミングだよ。
そう思いながら夏彦が携帯電話の液晶を見て、
「え?」
思わず声をあげる。
あまりにも予想外の人物の名前が表示されていたからだ。
確かにアドレスはお互いに知っているが、最初に会った時以来、一度も連絡を取り合ってなどいなかったのに。
「……ちょっと、失礼」
夏彦は部室を出て話が部屋の中に伝わらない距離まで離れると、携帯電話に出る。
「もしもし、お久しぶりです」
やや緊張した夏彦の第一声に、
「やーどうもどうも、ご無沙汰だね」
軽い口調で、外務会副会長クロイツは応える。
生徒会本部の一室。生徒会長室。
そこにあるソファーに深く腰を掛けて、コーカがため息をつく。本当に疲れた、疲労の象徴のようなため息だ。
「お疲れですわね」
くすくすと笑いながら、艶やかな和装で月がお茶を運ぶ。
「ああ、どうも、月先生……いや、今回の選挙、自分が出るわけでもないのに疲れますよ。やることが多すぎる」
「空いてるポストが多いですものね。ここで、副会長派が大勢役職者になったら、生徒会長の席が脅かされる、と」
「はん」
コーカは彼らしくない、乾いた笑いを漏らす。
「こんなガラクタの王の席、欲しけりゃくれてやりますがね。この席、どう利用するか頭を使わなきゃただの神輿ですよ。他の会長席も同じような面はありますけど、生徒会長は特にそれがひどい。副会長、こんな形だけの王の座をうまく使える程の器量者ですかね」
「あら、意外ですわね。生徒会長と同じく、二年生で副会長に昇った男なのですから、当然優秀だと思いますけど」
「優秀。優秀ね。それは認めますよ。だから嫌いじゃない。無能な人間よりは余程好感が持てる。けど、優秀さと器量は別ですよ。あいつ、器量が小さいんですよね。副官向きです」
「彼は、その自分の器を分かっていない、と?」
「いえ」
そこでコーカはお茶を一息で飲み干し、どこか寂しそうな目をする。
「奴は優秀です、自分の形くらい分かってますよ。それでも、分不相応なものを求める」
天井を仰ぎ、コーカは大きく息を吐く。
「それもまた、人の業ですね」
しばらく、天井を無言で睨み、その向こうにある空を見通すようにしていたコーカは、考えがまとまったのか顔を戻す。
「……月先生」
「何ですの?」
「雨陰太郎という男を知っていますか?」
「……生徒会の人間ですの? 申し訳ありませんが、聞き覚えがないですわね」
きょとんとあどけない顔をして首を傾げる月。
「いえ……外の人間ですよ。月先生、外務会の立花先生と親交がありましたよね」
「え、ええ……同期ですの」
「そっちの伝手を使って、雨陰太郎について調べてもらえませんか?」
「いいですわ。でも、雨陰太郎って何者ですの?」
月の質問に、コーカは目を閉じて、
「殺し屋らしいです。俺も詳しいことは知りませんけど。あのバカ……副会長がそいつに何かしら依頼したという話が、公安会経由で流れてきましてね」
「会長、公安会にパイプ持ってますの?」
驚いた月の質問にコーカは答えず目を開き、
「有能か無能かは状況によって変動します。自分の力量に合った状況ならその状況下では有能になり、力量を超える状況では無能となる」
コーカの目が鋭くなる。憎しみの対象を直視するような目。
「無能は諸悪の根源です。副会長も無能となって、厄介ごとを呼び込むかもしれません」
「外の殺し屋を呼び込んで、学園内に騒動を起こすと? でも、誰を殺すというんですの? 今回の選挙で、誰が一人を殺したからって副会長が劇的に有利になることなんてありますの?」
自分の派閥の人間をどれだけ通すかという選挙だ。そこで誰を殺すことで有利になるというのか。
だが。
「例えば、僕ですよ」
あっさりとコーカは言う。
「選挙中のタイミングで僕が死ねば、さすがにまた改めて生徒会長を決める選挙を直後に行うことはないでしょう。落ち着くまで、会長代行を立てることになると思いますよ。そしてその代行を務めるのは――」
「副会長、ということですか」
「そういうシナリオを書いているかもしれませんね」
つまらなそうにコーカは自分の右手を返す返す見る。
「そこまで無能に堕ちたなら、この右拳で消してやらないといけないですね」
壊れた玩具を捨てる子どものような寂しそうな顔をして、コーカは右拳を握りしめる。
それを見ている月は、コーカに気づかれないくらいにかすかに、その紅い唇に舌を這わせて舌なめずりする。
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