午後零時に近づくからといって、この規模の街が眠ることはない。むしろ、これからが街の活動の本番だろう。
先程よりも明らかに増えた人ごみの中を、夏彦と月は歩く。
「このビジネスホテルですよね」
「そうですわ」
目的地にはすぐに着く。
何の変哲もない中級のビジネスホテル、この屋上で取引が行われる。
現在のテキストの所持者が誰か、までは情報が回ってきていない。だが、夏彦には何となく見当がついていた。
何せ、このタイミングだ。
外の組織が大掃除され、その僅かな生き残りも、例の虎と大倉の事件でまとめて処分されたタイミング。そのタイミングで学園と取引をして、なおかつ学園の闇とやらに大いに興味を持ちそうな相手。
落ち目になった外の組織が、穏便に済ませてもらうために、手にしていたテキストを学園に返す気になった、としか思えない。
「いらっしゃいませ」
深々と頭を下げてくるフロントに曖昧に礼を返して、夏彦はエレベーターに乗る。
月もしずしずとついてくる。
「夏彦君?」
狭いエレベーターの中、屋上にまで昇るまでの間に月が不意に声をかける。
「何ですか?」
「この取引、無事に終わると思いますの?」
その問いかけと同時に夏彦が感じた息苦しさは、エレベーターの狭さのせいだけでない。
「どうも、こういうのって、俺の経験上、うまくいった試しがないんですよね」
「夏彦君、いつも大怪我ばかりしてますものね」
そうこうしているうちにエレベーターは屋上につき、ドアが開く。
殺風景な屋上には、既に数十名の人間が集まっていた。
夏彦がバスでも見た顔の、外務会の連中が十数名、そして見覚えのない連中、地味なスーツ姿の連中が同程度。あれが取引相手だろう。
エレベーターから出た夏彦と月に、近づいてくるのはレッドだ。
「やあ、お二人さん。グッドタイミングですね。三十分ほど早いですが、もう全員揃って準備もできたのでもう受け渡しを始めようとしていたところですよ」
「全員って……残りは裏で色々しているわけですか?」
バスにいた人数の三分の一程度の人数しか外務会の人間がこの場にいない。
そのことを夏彦が指摘すると、
「取引なんて、何が起こるか分かりませんからね。不測の事態に備えるのは義務みたいなものでしょう」
レッドが冷たい目と声で言う。
「ごもっとも」
引き下がって、夏彦は取引相手らしき連中を観察する。
全員が地味なスーツを着て、個性を殺した外見をしている。どこかレッドに似ている、と夏彦は感想を抱く。
よく見れば、指示を出しているリーダー的な人間がいることに気づく。他と同じように無個性な見た目の、顔色の悪い男だ。三十代前半といったところだろうか。
「さて、監査役殿も到着したことだし、そろそろ取引と行きますか」
皮肉げに口を歪めると、レッドはその顔色の悪い男の方へと歩いていく。
どうやら、取引が始まるらしい。
外務会、相手側共々、双方に緊張がはしる。
夏彦は心に一抹の不安が広がるのを感じる。
全く、月先生のせいだ。
夏彦は内心毒づく。
直前、エレベーターであんな気になることを言うから。
レッドと顔色の悪い男は夏彦の心配とは裏腹に淡々と話している。決して友好的ではないが、冷静にビジネスライクに話しているというのが見ていても分かる。
お互いに血の通わない、表面上だけのやり取りをしているというのが、逆に夏彦を安心させる。
どうやら、話がこじれることはなさそうだ。
「うまくいきそうですわね」
ひょこっと夏彦の懐に飛び込んできた月が、囁く。
ほっとした色を隠そうともしない声。
どうも、月先生は本当にこの取引のことを心配していたらしいな、と夏彦は思う。
「ええ。俺の不運もこの取引には関係ないらしいですね、よかったよかった」
呟く夏彦の目に、顔色の悪い男が合図をすると、横にいたスーツの男が鞄から大学ノートくらいの大きさの金属製のケースを取り出すのが映る。
そのケースは顔色の悪い男に渡され、そして顔色の悪い男がレッドに渡す。
受け取ったレッドは、そのケースをかえすがえす眺めた後、開けようと両手でケースを持つ。
その時。
乾いた破裂音。
そして、レッドの頭が揺れる。
「ん?」
何が、起きたのか。
意味が分からず夏彦は間抜けな声を出して辺りを見回す。
誰もが、時が止まったように硬直している。
だが。
夏彦は自分が身をかがめていることに気がつく。
何か考える前に、体が勝手に動いている。
そうして。
「……おいおい、マジかよ」
少し遅れて、全身に冷えるような悪寒。口から自然とそんな言葉が溢れる。
「走りますわよ」
いつの間にか同じように身をかがめていた月が囁くのと。
どしゃり、と。
どうやら頭を銃弾で打ち抜かれたらしいレッドの体が、屋上のコンクリートの床に転がるのが同時だった。
「っあ、あっ、確保っ!」
「おい、どうなってる!?」
「応答しろ!」
怒号。
そして。
「うおっ!?」
「しゃがめっ」
乾いた破裂音、いや銃声が何度も屋上に響く。
「いきますわよ」
「えっ、あっ、はいっ」
混乱の中、月が走り出す。
非常口やエレベーターに向かってではなく、何故か屋上の真ん中に向かって。
どうして?
夏彦は疑問を抱くが、だがこの場では月についていくのが正しい選択のように思える。単なる勘だが。
月についていくように、体を低くしたまま全力で走る。
優雅に和服をひるがえしながら走る月の行く先には、へたりこみながらも金属製のケースを回収しようとしている顔色の悪い男がいる。
「なっ!?」
その男を、月の細腕が掴み取り、そのまま引きずって更に走る。突然のことに男は叫ぶ。
それはそうだろうな、と夏彦は思う。自分があの男の立場でも、突然銃撃されておまけに少女に掴まれて走らされたら意味が分からず叫ぶだろう。
月は男を掴んだままで、そのまま屋上の中央を突っ切り、反対側にある自動販売機まで走りきる。
驚くべきことに、月は男を引きずりながらも走るスピードを一切落とさず走りきった。夏彦は自分の目を疑いながらも、その月に続いて自動販売機まで走る。
そうして、月、夏彦、そして顔色の悪い男は自動販売機の陰に隠れるようにしてしゃがむ。
怒号と銃声は、まだ止んでいない。
「くそっ、おいっどうなってやがる」
「知るか! てめぇら裏切りやがって!」
外務会と取引相手はお互いを牽制し合いながら、銃撃に次々と倒れていく。そのうち、数人がエレベーターに向かい、そしてまた別の数人が非常口に走る。
「ばか」
ぽつり、と月が呟く。
その言葉を証明するように、エレベーターの前に立った数名は銃撃に晒されて体を躍らせた後、糸が切れたように転がる。
非常口に向かった数名も、非常口の方から銃声と悲鳴が聞こえてきたことを考えれば、どうやら同じような運命を辿ったのだろう。
「こんな状況で、あからさまな脱出口に一番に向かうなんてギャンブルが好きな方々ですわね……夏彦君、敵を視認できましたの?」
「……そうですね」
一度、大きく唾を飲み込んでから、
「まだ見えてないです。遠距離からの狙撃ですかね……でも、非常口に行った連中も撃たれたみたいですから、非常階段とかを塞いでる部隊もいると考えた方がいいですよね」
恐怖と混乱を必死で抑えようと、夏彦はあえて平静な声を出す。
そんな夏彦を見て、
「上出来ですわ」
と月が艶やかに目を細める。
「さて、と。もしもし、大丈夫ですの」
そして身を自動販売機に隠したまま、月は傍らで震えている男に声をかける。
引きずってこられた男は元々悪かった顔色を更に悪くして、震えながらケースを両腕に抱えている。
「お、お前ら、う、裏切ったのか!? なっ、何なんだ、これはっ、どういうつもりだ!?」
「それはこちらのセリフですの……でも、演技ではないようですわね。ということは、これは外務会でも取引相手でもない第三勢力による襲撃かしら?」
「もしくは、どちらかが末端を切り捨てた。現場の同胞を殺して何らかの計画を遂行しているって可能性もありますけど」
夏彦が補足する。
「そうですわね。うちの学園の会は魑魅魍魎の棲家ですからありえない話ではないとして、そちらはどうですの?」
「うっ、おっ、おっ」
未だ混乱の最中にいるのか男は声を詰まらせながら、
「おっ、俺は、何も、知らない」
それでも答えを搾り出す。
「それはそうですわね。あなたも銃撃に晒されているわけですもの」
「俺を、ハメたっってことか、上の奴らが? そんな、馬鹿な。大体、こんな、こんなことをして、うちに何のメリットがある!?」
最後には男は絶叫する。
「……あれ?」
夏彦はふと違和感に気づく。
いつの間にか、銃声はまばらになり、怒号も大人しくなっている。
首を伸ばして周囲の様子を窺うと、屋上には何体もの死体が転がっているし、撃たれて呻いている人間も大勢いる。
それでも、無傷、軽傷のものが中心となって集まり、グループ単位で携帯電話でどこかと連絡をとったり、あるいは警戒しながら非常口の方に進んでいく。
「どうやら、外に待機させていた外務会の部隊が敵の排除を行いつつあるようですわね」
月が呟く。
「ああ、それで狙撃も少ないんですかね?」
「おそらく。狙撃部隊も今頃外務会に潰されてますわね。多分、一部は生け捕りにできるでしょうし、そこを尋問すればきっと全容も解明されるでしょう。わたくしたちがしゃしゃり出て必死に真相解明するような事件ではありませんわ」
「ですね」
それについては夏彦も全面的に賛成だ。
これは外務会の事件だ。外務会の取引中に起きた事件であり、しかもノブリスの外。捜査もケジメも外務会がすべきこと。もちろん、事後的に風紀会や司法会のチェックが入るのは当たり前だが。
「さて。まだ、この場所が危険なことに変わりはありませんわ。幸い、外務会の方々が非常口から下に降りられているらしいですし、ここは混乱に乗じてわたくしたちも非常口から脱出しますわよ」
「なっ、何言ってるんだっ、こっ、このまま待ってりゃいいだろ」
男が悲痛な声で叫ぶ。
「それも一つの手ですわ。ただ……」
言いよどむ月に、
「事態が落ち着いた後、この場に来る勢力が、俺たちを友好的に保護してくれるかどうか分かりませんね」
先を読むように夏彦が言う。
「何言ってるんだ!? 今、襲撃してきた奴らを排除してるのはお前のとこの、外務会の連中なんだろっ、なら――」
「敵の勢力が不明な現状、最終的に外務会が勝利するかどうかは分かりませんし、なにより」
月はいったん言葉を切って、
「その外務会が現時点で信用に値するかどうか、まだ見極められてませんわ」
「はっ!? お、お前らの味方だろ、外務会は?」
ある意味で当然の男の疑問を受けて、夏彦は少し躊躇った後、
「もちろん基本的にはそうですけど、事態がこんなことになってはね。正直、今の俺の心境としては、敵が誰で味方が誰かが全く分かりません。俺以外は、あなたたち二人ですら心底信用できない状況ですよ」
と、心情を吐露する。
「その考えは正しいですわね。わたくしとしても、襲撃の現場で同じように襲われた、という一点で、他の人間よりはお二方はまだ信用できるというだけですわ」
夏彦と月の言葉に、男は絶句する。
そんな男の様子を気にかけることもなく、
「それではいきますわよ」
と月は非常口に向かって今にも走り出そうと身構える。
「あ、ちょっとま」
慌てて自分も体勢を整えようとする夏彦を無視して、月は走り出す。
おしとやかに見えて、かなりせっかちだな。
うんざりしながら、夏彦も走り出す。
少し遅れて、
「まっ、待てっ」
顔色の悪い男も続く。その手には金属製のケースがしっかりと抱えられたままだ。
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