全身がばらばらになりそうな疲労感。意識が途切れては、全身の痛みで蘇るのを繰り返す。
状況が改善するまで、一瞬だったのかそれとも結構時間がかかったのか。夏彦には分からない。
「――く、あ」
ともかく、意識が明瞭になって動けるようになると即座に、夏彦は痛む体に鞭打って立ち上がり、そうして、タッカーの姿を捜す。
「……タッカー」
捜すまでもなかった。
満身創痍の夏彦は、すぐ傍に仰向けに倒れているタッカーと、そのタッカーの胸に刺さっているナイフを見る。
「信じられないね」
急所が外れているのか、ナイフがささっているにも関わらずタッカーは苦しむこともなく、ただ不思議そうな顔をして、空を見ている。
「……夏彦君の言葉なんかで揺れてしまうなんて、信じられない。けど、舌を噛みそうになったってことはそういうことだね」
自分に言い聞かせるように、タッカーはゆっくりと話す。
その顔は奇妙に晴れやかだった。諦めの極致、とでも表現すればいいのか。もう、死ぬことを受け入れている顔だ。
タッカーの発言の内容を理解できずに夏彦が戸惑っていると、タッカーは目だけを夏彦に向ける。
「最後、舌を噛みそうになってね。顎に力入れてこらえようとして、バランス崩しちゃった。約束を破ったからだろうね」
かすれた声で、タッカーは語る。
ナイフを振るうタッカーの顔が強張ったのを夏彦は思い出す。
そうか、つぐみの限定能力か。
「認めたくないけど、あのタイミングで約束を破ったことになったんだ。夏彦君に説得されたってことだよ」
疲れたようなため息をタッカーは吐く。
「笑えないね。夏彦君を空っぽだなんて言ってた自分が、善悪の判断すら人に左右される。空っぽだったのは、俺の方か」
「お前が……」
ナイフが刺さっているタッカーと同じくらいに死にそうな顔で、夏彦が言う。
「お前が、鈍感だったから気づいてなかっただけだろ。自分の罪悪感に」
夏彦にとっては、そのことは意外でもなんでもない。
最初から、タッカーがアイリスを案じている気持ちは、少なくとも一部は本物だという気がしていたから。
案じている幼馴染にとってかけがえのないものである料理に泥を塗るようなまねをして、何も感じないような人間じゃあなかった。ただそれだけのことだ。
「俺が鈍感か……そうかもね」
少し笑ったタッカーの口の端から、血がこぼれる。
「こほっ……ああ、夏彦君、空っぽだなんて言って悪かったね……俺にしてみると、そう見えたんだけど、鈍感な俺の言うことだ、多分間違ってるよ」
「いや、思い当たる節もあるし、生徒会長にも同じことを言われた」
足を引きずるようにして夏彦はタッカーの頭まで近づいて、その傍に腰を下ろす。
命のやりとりが終わり、夏彦は自分が空っぽだと言われた時に感じたことを、言語化できるようになっている。
「けど、空っぽだからって悪いことばかりじゃない。憧れることのできる人が沢山いたり、人の怒りを自分のことのように感じられたり、結構面白いことも多い」
少なくとも、アイリスとつぐみに同調して料理の不正を怒れたこと自体は、悪い気分じゃあない。それに、尊敬できる友人や先輩、師が沢山いることも。
「そうか。簡単な、ことだったね」
目線を外して再び空を見上げ、タッカーは呟く。
「中身が空っぽってことは、その分、中に色々なものを入れられるってことか。つまり、夏彦君は、器がでかいんだ」
「それは、良いように言い過ぎだろ」
顔を見合わせて、タイミングを合わせたように夏彦とタッカーは同時に苦笑する。
普通の友人同士の、いつもの会話のように。
だが、タッカーの唇が紙のように白くなり、目も焦点が合っていないことに夏彦は気づいている。
おそらく、意識を保つだけでも凄まじい集中力が必要な状態のはずだ。
「なあ」
だから、最後にこれだけは自分が聞いておこうと夏彦は、
「結局、お前にとってアイリスはどんな存在だったんだ?」
「どうして、そんなことを、知りたがる?」
ゆっくりと、ひとつひとつ言葉を区切るようにしてタッカーは言った。それだけで幾分苦しそうだ。
「それを聞けば、お前のことが少しは分かるかと思ってな。正直、今のところお前の精神構造は理解不能だ」
「あはは」
本当に愉快そうに、タッカーは白い顔で笑う。
「君如きには俺は理解できないよ。いや、誰も、能天気に生きてきた奴らに俺のことが分かってたまるか」
「それでも、理解したいと思うんだよ。友達だからな。悪いか?」
本心から、夏彦は言う。
「――いや、悪くない。救われるね」
間髪いれずに答えると、タッカーは大きく息を吸って、そして吐いた。一呼吸するごとに、タッカーの顔から生気が失われていく。
「けど、友達ってほど仲良くないね」
「もっと仲良くなる前にお前がこんなことを起こすからだろ」
きっと、何もなければずっと同じ時間を過ごして、友情を確かなものにできたはずだ。
ただの勘だが、夏彦には自信があった。
「くく」
血をこぼしながら、タッカーは喉の奥で笑う。
「それは、悪かったね。ああ、お詫びと言ってはなんだけど、質問に答えるよ。アイリスについて……正直ね、俺はもう、自分で自分のことが分からない。アイリスをどう思っているのかも分からない」
ぜろぜろと喉を鳴らしながら、タッカーは懸命に喋る。涼しげな笑みをその状態であっても浮かべたままで。
「けど、ひとつだけ。夏彦君の言う通り、俺はアイリスの料理を食べるのが好きだった。認めるよ。それは、本当だ。星空を見上げながら、孤児院のチビどもと一緒にあいつの料理を食べるのは、好きだった。俺にはできないことだから、羨ましかった。だから、タッカーを持って自分は大工仕事を頑張る、なんて」
胸の傷口と口から、絶え間なく血が流れ続ける。
焦点の定まらないタッカーの目は、ずっと天を向いている。
「ああ、よく見える……こんなに空を見たのは久しぶりだ。いつも、こんな星空だったな……アイリスの手料理を、食べて……」
タッカーの体が弱弱しく痙攣し始めた。何かを探すように、右手が上がって宙を彷徨う。
「ああ、くそ。邪魔だな、星が、見えない……」
手をのろのろと振り回して、タッカーは言う。
「なあ」
そして、不意に目を夏彦に向けると、
「アイリスのこと、頼むね」
宙で何かを掴もうともがいたタッカーの右手が、ぱたりと地面に落ちる。瞳が突如として凄まじい速さで動いて、すぐに止まった。
それが何を意味しているのか、分かっているのに夏彦は理解できていない。
何だ? 俺の前で何が起ころうとしている?
ただ呆然と、そのタッカーの様子を見る。
そうして、タッカーは最後に一度、かすかに息を吸うと、
「疲れた……」
そう言って、動かなくなる。
「タッカー……」
夏彦は名前を読んだが、タッカーは動かない。
どうすればいいんだ、これ?
動かないタッカーを前に、夏彦は真剣に悩む。体力集中力共に限界なためか、考えはまとまらず、夏彦はとりあえずタッカーの開きっぱなしの目を閉じさせる。
自分が今、何を思っているのか、感情すら分からず、夏彦は混乱する。
とりあえず、立つか。
「よっ……」
掛け声とともに、夏彦は立ち上がる。何とか、動き回ることができるくらいには体力は回復していた。
次にするべきことは、と考えて、携帯電話を落として拾っていないことに気がつく。
あれ、どこに行った?
すぐに屋上の端の方に転がっていた携帯電話を見つけて、夏彦は這いずるくらいのスピードで近づく。
「ぐっう」
呻きながら、全身の痛みに耐えつつ携帯を拾い上げる。
連絡をしないわけにはいかないだろう。
夏彦は倒れているタッカーを見て、ぼんやりと思う。
誰に連絡をするべきか一瞬迷うが、
「胡蝶先生に報告するか……」
直属の上司に報告するのが妥当だろう。もう、個人でどうにかできる事態じゃあない。
そうして、携帯電話の電話帳で胡蝶の番号を呼び出したところで、夏彦の指が止まる。
「……いや」
先に、報告しておくべき奴がいた。汚れ役は、汚れ仕事が済んだら慰め役に報告しなければならないだろう。
夏彦は、別の番号に電話をかける。
「もしもし、どうなった!?」
その相手は、すぐに電話に出た。コール音がほとんど聞こえなかったくらいだ。その早さと口調から、向こうがどれだけ心配しているか分かる。
それだけで、泥のように血と疲れに塗れている心身が、少しだけ楽になった気がする。
「ああ、つぐみちゃん……そっちは、今どんな感じ?」
「こっち? こっちは、今、乙グループの本戦が終わったところだけど……」
「じゃあ、悪いけど、アイリスを説得して、決勝はつぐみちゃんとアイリスでお願い。タッカーは、急用だとでも、言っといてくれ」
慰め役は任せる。
「それは分かったけど……ねえ、そっちは、どうなったの?」
気遣わしげな口調のつぐみからの質問に、夏彦はふと考える。
何て答えればいいのか。俺は結局、何をしたのか。
倒れたタッカーと、そこに刺さったナイフを見る。ついさっき、動かなくなる寸前までタッカーと交わした会話を思い返す。
夏彦は、自分が何をしたかを、ようやく客観的に考えることができた。
「こっちは……」
自分のしたことを的確に表現する言葉を探す。そして、夏彦は一言でそれを表現する一文を思いついた。
「……俺が、友達を殺した」
夏彦がそう言うと、
「――そう」
と短い返答の後、
「ねえ、帰ってきてよね。約束したんだから」
つぐみはそう言って電話を切った。
帰るよ、つぐみちゃんの約束破るとろくでもない目に遭うって、目の前で見せられたからな。
夏彦は内心に宣言する。
つぐみのあまりもあっさりとした返答と電話の切り方。それが、つぐみなりの気遣いと、そして彼女もまた混乱の極地にあるためだということくらい、夏彦にも理解できた。
大丈夫だ。
夏彦はつぐみの心配をしない。
あいつなら、やるべきことをやる。アイリスを落ち着かせて納得させ、決勝に一緒に出場して料理を作る。
何となく、夏彦はタッカーがやっていたように空を見上げる。
まだ日は沈みきっておらず真っ赤な夕暮れで、当然ながら星なんてひとつも見えない。
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