つぐみは気絶してしまったので床に寝かせた。
やがて、保健担当と名乗る生徒数名がやって来て、床にうずくまって呻いている指を切り落とされた男子生徒を連れて行き、床の血の跡と散らばったガラス片を綺麗にしていった。
その間、夏彦と虎はライドウからさっきの件についての説明を受けていた。
「特別危険クラスにくるような連中は、ノブリス学園以外どこも受け入れてくれなかった札付きで、おまけに自分よりも強い人間に会ったことがないから全て力で片がつくなんて思う連中ばかりなんですよ。だから、それを入学してすぐのこの時期に風紀会が叩きなおすのが毎年の風物詩ですね」
風物詩って。
「いや、それはいいとして、よくないけど。あの、あれ、なんですか、律子さんが刀を持ってたり持ってなかったりしてませんでした?」
混乱しながらも夏彦が訊く。
「あれかあ。あれが限定能力なんだけど、まあ、その話はいいじゃないですか」
いいわけないだろ。
と、夏彦が言うよりも先に、
「あれ、朝? 夢? え、教室?」
つぐみが急に起き上がった。
どうやら記憶に混乱があるらしい。
「ああ、つぐみさん起きましたか。では説明の続きをします。よろしいですね」
ライドウは何もなかったかのように普通に説明を続けようとしている。
「いやちょっと」
「は、はい、お願いします!」
夏彦が口出しする前につぐみが元気よく返事をした。まだ混乱しているくせに、根が真面目だからこういう返事が反射的に出てくるのだろう。
さっきまで倒れていたつぐみがそう言っているから、何となく文句を言いにくいので夏彦は口をつぐむ。
黙ったままの虎は、そんな夏彦とつぐみを面白そうに窺っている。
「うちの教師のほとんどは、僕も含めてノブリス学園の出身です。あるいは高級官僚や大企業の役員からこの学園の教師に転職したり運営に参加したりする人間もいます。また、この学園では留年が非常に多いです。留年は五度まで許されていて、優秀な学生でも何度も留年している学生が多い。さて、どういうことか分かりますか?」
どういうことだ、と夏彦は首をひねる。
わざわざ列挙したということは、それらは全て同じ理由でそうなっているってことだよな。
「それだけ、ノブリス学園に長くいるのにメリットがあるってこと?」
倒れていた椅子を直してから座った虎が言うと、ライドウは指を鳴らす。
「惜しい! 正確にはメリットというよりも、チャンスですね。会に所属して上に昇るチャンスは、当然ながら長く学園に在籍すればするほど多いわけです。会の役職者になることが、どれほど重要なことなのかを表しているんですよ、さっきの例は全てね」
「ええ? 会の役員になるのが、重要なんですか? その、上のクラスになるんじゃなくて?」
戸惑ったようにつぐみが言う。
「会で出世すれば自然とクラスも上位になるというか、そこは比例関係にあるんですけどね。でも、どちらかと言えば会における出世の方が重要でしょうね。ノブリス学園にある六つの会、それぞれの会のOBやOGの大部分が今やこの国を動かしています。はっきり言えば、六つの会のどの会出身かで派閥が存在しているんですよ、日本の政財界の中枢においてね。加えて、会で出世するというのは能力の証明です。誰もが会で出世した人間は欲しがる」
「会の役職者になれるものは、ノブリス学園の全校生徒、全教師、学校関係者、全てのうちのほんの一握り」
冷たく鋭い声。
喋ったのは律子だった。夏彦は律子が普通に喋るのを会って以来初めて目にした。
「その通りですね。極端な話、会の役職者になることなく普通にストレートで卒業して、その後それこそ一流企業に就職するか高級官僚にでもなったとしましょう。それでも、五年留年してでもいずれかの会の役職者になって卒業した方が、それ以後の人生においては圧倒的に有利です。そんなレベルなんですよ」
じゃあ、本物じゃあないか。
それが夏彦の正直な感想だった。
さっきまで、学園内での六つの会ややたらに分厚い校則集を、妙だとは思いながらもどこかで「ごっこ遊び」の感覚で見ていた。
しかし、どうも話を聞く限り、この学園内で起きているのは本物の出世競争であり、本物の政治だ。
「いいね、つまり会に入って出世すれば、そのまま社会においても上に昇れるってわけだ。面白れぇ」
虎は乗り気らしく、不敵に笑って腕を組む。
「お、乗り気でいいですね。入会自体は、公安会以外の全ての会が常時受け付けていますし、希望すれば大抵入会できますよ。ただし、メリットもあればデメリットもあります。入会すればそれぞれの会ごとに義務があるし、危険もある。それを覚悟しておくことですね。あ、当然、学業成績においても優秀なことを証明し続けなればすぐに脱会させられますので」
「それは……」
厳しいんじゃないだろうか。そんな訳の分からない会に入って、そこで手柄を立てつつ成績も良くないと出世できないってことだよな。
不安に思っている夏彦に、ライドウは指を突きつけてきた。
「夏彦君、無理だとか思ってませんか? 大丈夫です、死ぬ気でやれば何とかなります。逆に言えば、死ぬ気になれないならば会の役職者なんてとても無理です。今の生徒会長のコーカ君なんて、生徒会長の職務を果たしながら成績は学年で十位以内を常にキープ、おまけに空手部の部長までしています。そこまでなれ、とは言いませんが、無茶をしなければ道は開きませんよ」
無茶か。そこまでする価値があるってことか。そんなこと、今までしたことがあるだろうか。
夏彦は自問する。
何かに対して、死ぬ気になってまで打ち込んだことが。
答えはすぐに出る。
ない。
その途端、夏彦はやたらに虚しくなった。
自分は、今まで何をしてきたんだろう。
「ともかく、この学園の実態がある程度は分かったと思います。そして、校則によってここまで厳重に情報を管理している理由もね」
「ええっと、それって、やっぱり……危険、だからですか?」
遠慮がちなつぐみの言葉にライドウは頷き、
「そういうことです。この学園内での政治闘争は『本物』ですからね。情報が分かっていれば、ライバルを蹴落とすためにそのライバルの家族に危害を加えようとする者だって出てくるかもしれない。あるいは過去の弱みを調べて脅迫する輩も」
「だから名前も明かさずにノブリスネームで、と……けど、学園側は当然入学の時にこっちの名前も家族構成も履歴も把握してるだろ、当然。それはどうなるんだよ?」
意外に細かいところをつつく虎だが、ライドウはむしろその細かさを歓迎するかのように笑みを大きくして、
「入学手続きのために学園に提供した情報、その他にも緊急事態のための外部の家族への連絡先等々……そういった情報については公安会が管理してします。厳重にね」
公安会。さっき、さらりと出てきたな。と、夏彦は思い出す。確か、公安会以外は希望すれば入会できると言っていた。逆に言うと、公安会は6つの会の中で唯一、希望しても入会できない。
「公安会は政治闘争には関わらない会です。この会については、他の会もほとんど情報を得ることができません。謎に包まれた、恐ろしい会ですよ。彼らに目をつけられれば、静かに消されると言われています。ノブリス学園自体の守護者とも、他の5つの会のバランサーとも言われていますが」
一瞬だけ笑みを消し、ライドウは本当にぞっとしたように顔を強張らせてから、すぐに笑顔に戻り、
「--まあ、今日はこれくらいにしておきますか。それぞれの会がどんな会か、教えて欲しければ職員室にでも質問に来てください。別にすぐに入らなければならないことはありませんからね。あ、ただ同意書はちゃんと一週間後までに出してくだ――」
「俺は行政会に入るぜ」
ライドウを遮るようにして、虎が言った。
「決定事項だ。ライドウ先生、俺に行政会の入り方を教えてくれよ」
「おおっ、活きがいいですね。よろしいですよ」
自分の会に入らないのにライドウは嬉しそうだ。
「あっ、あたしもっ」
つぐみもつっかえながら必死で口を開く。
「あ、あたし、あたし、風紀会に入ります」
食い入るように、つぐみは律子を見ている。顔は上気して真っ赤に染まっている。
あれ、と思って夏彦は虎と顔を見合わせる。
これ、完全につぐみちゃん、律子さんに憧れてる感じっぽいな。
「百合的なことか」
虎がそっと耳打ちしてくる。それも失礼な内容を。
「いや、まだ記憶は曖昧なんだろうけど、つぐみちゃんとしては自分を助けてくれたお姉様みたいなイメージがあるんじゃないか」
夏彦も耳打ちで返す。
「なるほど、そういう劇的なのに免疫なさそうだしな」
虎は頷いて夏彦から離れた。
「ふむ。大丈夫ですかね。風紀会は結構女子生徒には厳しいと思うのですが」
ライドウは心配そうにしている。
確かに特別危険クラスと毎年戦争をしているような会だ。つぐみに合っているとは思えない。だが、目をきらきらさせて律子を見ているつぐみを止めることはできそうもない。
「……分かった」
一言そう言って、律子は頷く。
それを受けてつぐみの顔が輝く。
さて、これで三人のうちで決まってないのは自分だけか。
夏彦は考える。
とはいえ、別にここで急に決めることもない気がする。むしろ、虎とつぐみが迂闊すぎる。そんなに簡単に決めて。
……いや、違う。全然違う。
別に入会に期限は決まっていないのだろう。しかしそれならば一体、今日じゃなければいつ入会する気だ? それとも入会しないのか? 危険だから?
夏彦はノブリス学園のエリート、その言葉自体にすら憧れていた自分を振り返る。
憧れていたのは、慣れないと諦めていたからだ。自分はノブリス学園出身のエリート、国を動かすような存在とはかけ離れたものだと。今から必死でやれば、自分もそんな存在に近づけるだろうか。自分にも、何かに必死になることができるのか?
もし、一週間後に入会したとして、そうしても虎とつぐみには一週間分の差をつけられていることになる。
そうか、と夏彦は納得する。
つまり、戦いはもう始まっているわけだ。あとは、戦いに参加するか、降りるかだ。
「俺も、入会します」
気づけば夏彦はそう言っていた。
「ほう、どこに入会希望ですか?」
ライドウが訊いてくる。
「――司法会に」
自然と、夏彦の口から言葉が出てきた。
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