暗い部屋に夏彦は立っていた。
霧がかかったようにはっきりとしなかった意識は、ようやくまとまりつつある。
「ここは……」
「ようこそ」
いつもの逆光、そこに男が立っていた。
それもいつも通り。
「何で、俺がここに?」
「死ぬ前の走馬灯と同じ原理だ。死に際の圧縮された意識が、この空間と時間をつくりだした」
「なるほど」
夏彦は納得する。
意識は鮮明になったとはいえ、体をずっしりと重くしている鉛のような疲労はそのままだった。
とにかく、疲れた。
夏彦はその場に座り込もうと腰を下ろす。
「うおっ」
いつの間にか夏彦はソファーに座っている。
そして、男の姿はない。
疲れた。
ソファーが優しく夏彦の体を受け止める。
このまま、寝てしまいたい。
目を閉じたい。
その誘惑に夏彦は耐えながら、暗い室内を見回す。
男が消えた。
何が起こる? それとも、何も起こらないのか。
夏彦は不思議に思う。
「疲れているね」
声がかけられた。
懐かしい声。
夏彦が振り向くと、そこには見覚えのある顔がある。
「タッカー、か?」
自分がかつて殺した相手の顔を見て、夏彦は目を丸くする。
「うん。で、どう? そのまま死にそうだね」
「ああ、そうだな。そうかもしれない」
そう言ってから、夏彦は少しタッカーの反応を窺うような目をして、
「やっぱり、俺が死ぬのは、嬉しいか?」
「ええ? 凄いこと言うね」
目をむいてタッカーは驚いてから、
「別に何とも思わないね。夏彦君が死ねばこっちが生き返るわけでもないし、そもそも、夏彦君は誰と話してると思ってるわけ? もしかして、本当にタッカーの幽霊と喋ってると思ってないよね?」
「分かってる」
夏彦は、大儀そうに首を振る。
「分かってるよ。俺の走馬灯だ。罪悪感や記憶が固まってできた幻と話しているだけだ。分かってる」
自分に言い聞かせるように呟いているうちに、タッカーの姿は消えている。
「人を殺すのに抵抗があるんですの? 人の死で今の地位に昇りつめたようなものですのに」
今度は、月が現れる。
「そうですね。月先生も、タッカーも、未だに心の傷ですよ。ある程度親しい人を殺したのは、一生残る傷だ」
「どうして?」
「俺が、弱いからでしょう」
夏彦は即答する。
色々あって、自分の中でもう結論は出ている。
「皆に言われるように、俺は空っぽです。中身がない。だから、エリートに憧れたし、人に容易く影響される。親しい人間を殺してしまった日には、まるで自分の中身の一部を殺してしまったような気分になる」
「へえ、そうですの」
納得したように頷いた月の首が、その拍子に外れる。
ボールのように月の頭が転がり、そして月の姿も消える。
「よくそんな不安定な奴が、ここまで大きくなったもんだな、おい」
嘲るような調子で虎が現れる。
「大した能力もなく、中身は空っぽで不安定。なるほど、そいつがどんどん高みに昇るってんなら、そりゃイレギュラーだ。納得できるな」
「ああ、そうだな。けど、虎」
力を振り絞るようにして、夏彦は沈む意識を繋ぎとめ、弱弱しく笑う。
「お前だって似たようなものだろ。中身が野生動物みたいな男だ」
「けど、俺の場合、スペックはすげえぜ。自分で言うのもなんだけどよ」
「本当に、よく自分で言えるよな……けど、ま、同意だ。知力体力共に高いものを持った野生動物、それがお前だな。厄介極まりない」
「何言ってんだ。野生動物なんて、結局のところ単純で分かりやすいじゃねえか。厄介なのは、お前みたいなのだよ」
虎は肩をすくめる。
「結局、他の誰も、お前を理解することはできなかったんじゃねえか?」
「もちろん、実際のところ、人を理解することなど人にはできません」
瞬間的に、虎はライドウへと変わっていた。
「けれど、理解したような気にはなれます。そして、そんな気がすれば人は安心します。その意味で、君は不気味だった」
「俺が? そうですか?」
いつも下手を打って死に掛けて、運よく生き延びてきたという印象しかない。
「僕や胡蝶も大概ですけど、ある意味で理解しやすいでしょう? つまり、過去のある一点に執着する人間っていうのは、完全に理解することは難しくても、分かりやすい。そういうものだと思えばね」
「物欲、性欲、食欲、名誉欲、復讐、妄執、情愛、野心、エトセトラエトセトラ。人が何で動くかなんて、結構パターン化されてるものよねぇ……ふぁああ」
突如としてライドウの隣に現れた胡蝶は眠そうに欠伸をしている。
「でも、夏彦君は、私から見ても、ねえ? 何を原動力にしているのか、全然分からなかったわ。きっとそれは、他の人も一緒」
「ふうん、俺が、ねえ」
自分がそんな風に、気味悪く思われていたなんて実感がないな。
消えそうな意識の中で夏彦は思う。
「あ、あ、あた、わたし、は、変だと、は、思って、なかった、けど……」
ライドウと胡蝶の姿は消え、律子が一人、刀を持って立っていた。
「さ、最初は、私と同じかと思ったの、夏彦君……正義のために、頑張ってるんだって」
「残念ながら」
本当に残念に思いながら、夏彦は言う。
「そんな立派な人間じゃあないですよ」
「う、うん……すぐに違うって分かった。夏彦君は、もっと、別の理由で頑張ってるんだって。で、でも、それでも、私、嬉しかったの。私を、受け入れてくれたから、と、友達になってくれたから」
「そもそもっすね」
いつしかそこに秋山がいる。
「夏彦君は主体性がないんすよ、よくも悪くも。それなのに、今まで敵を倒してきたじゃないっすか。一体、どうやって倒すべき敵とそうじゃない人間を見分けてるんすか? まさか、正義とか悪だなんて言わないすよね。だって、善悪の基準をしっかり持ってるんすか、夏彦君?」
「持って、ないな。特に、このノブリス学園なんて灰色の世界で通用するような基準は、持ってない」
だったら、何を基準に敵味方を決めて、ここまで歩いてきたんだろうか?
自分のことながら、夏彦は不思議に思う。
もう、夏彦の周りには誰もいなかった。
静かだ。
「……ふう」
息を吐き、意識を手放そうとしたところで、夏彦はポケットの中に携帯電話が入っていることに気付く。
少しだけ迷ってから、力を振り絞って震える手で携帯電話を取り出す。
「……もしもし」
「自分に聞くってのもありなんじゃないかなー」
サバキの声だった。
「自分に?」
「そうだ。貴兄の内なる声を聞け」
今度はレインだ。
「あれ?」
暗い部屋の中心で座っていたはずの夏彦は、いつの間にか別の場所にいる。
何の変哲もない、生活感に溢れた一室。
だが、懐かしい。
「ここは……俺の……」
夏彦は呟く。
その部屋の中心で、一人の子どもが本を読んでいる。
「夏彦は本当に、本を読むのが好きねえ」
姿は見えないが、母親の声だけがする。
そうだ、あれは、子どもの頃の俺だ。
夏彦は、子どもの頃の自らを凝視する。
その子どもは、ひたすらに本を読んでいた。
何冊も何冊も。
だが、その本は全てある一つのジャンルだった。
偉人の伝記。
それを、ひたすらに夏彦は読み続けていた。
「そんなに、本が好きなの?」
声だけの母親が問う。
「偉人が好きなんだよ」
読むのをやめようともせず、夏彦が応える。
「だって、自分よりも皆のために戦うんだ。凄いでしょ、母さん。凄い立派な目的のために、一生懸命になるんだ。こんなの、僕、絶対できないよ」
「ううん。夏彦はきっと立派な人になるわよ」
微笑ましい息子を見守るのに相応しい、優しい声。
「え? どうして? だって、僕、こんな立派な人じゃないよ?」
「でも、そういう立派な人になりたいって思っているから、本を読んでいるんでしょう? なりたいって思って頑張れば、きっとなりたいものになれるわよ」
「本当に?」
「もちろん」
「嘘だ」
それを第三者として見ていた夏彦は、そう呟く。
さすがに、それを嘘だと分かるくらいには成長した。
どんなに憧れても、どんなに努力しても、近づけない人はいる。いや、憧れを持たれるような人間は皆、努力だけでは近づくことすらできないような人間ばかりなのかもしれない。
「それでも、憧れることは止められない。そうでしょ?」
子どもの夏彦が、不意に夏彦を向いてそう言った。
「――ああ、そうだ。何も、俺は何も、変わってない」
無邪気に立派な人に、偉大な人に憧れている子どものままだ。
「ふん、『最良選択』か」
夏彦は吐き捨てる。
どうして自分の限定能力が、勘の強化なのか疑問だった。他人からは、どうしてそんな限定能力なのか心理分析の真似事みたいなものも聞かされた。
だが、今なら夏彦は何となく分かる。
要するに、憧れに近づく為のツールだ。
「そうです。かつて、君のことを殻だと言ったことがありました」
声に振り向けば、後ろに立っているのはコーカだ。
「中には何も入っていないと。しかし、それはどうやら正確ではない。君は確かに、ほとんど空っぽです。けど、だからこそ、他の人間の中身に、更に言うならば偉大な尊敬すべき中身に対して、切ないまでの憧れがある。君という殻の中には、どうやらその憧れが詰まっているようですね」
「憧れか。そうだな、それだけは、溢れるくらいある」
「ケド、いくら憧レタって、近づケナい」
横にはアイリス。
「ああ、そうだ。近づけない。いくら努力しても、近づけない。だから、少しでも近づけるようになりたくて」
「ふん、その結果がその忌々しい能力か。はっ、努力だけではどうしようもない、憧れてる他人に少しでも近づくための能力。才能や感覚ってやつをトレースするための能力か。けっ、お前、なまじ勘の強化って形でその能力が発現したから、これまで気付かなかったわけだな」
大倉に馬鹿にされる。
「言葉もないな。そうだ。そんな本質だとは気付かずに、俺はずっと、ただ単に勘が強化される能力だとばっかり思っていた。そういう使い方をして、生き延びてきた」
間違った使い方だったわけではない。
ただ、少しずれていた。
勘の強化、それは勘を強化すること自体が目的の能力ではなく、本当は、それによって才能や感覚の差を埋めるための能力だったわけだ。
「そうだった。俺は、憧れてばっかりだったな」
いつしか、夏彦はもとの暗い部屋にいた。
中央に座っていた。
目を閉じたい。
その誘惑に抗いながら、夏彦は呟き続ける。
「この学園に入って、本当によかったと思ってるんだ、俺は」
誰に喋りかけているのか、もはやただの独り言だ。
「憧れる対象が、沢山いた。尊敬できる人が沢山いたんだ。憧れて、憧れて。それで、妙な能力を手に入れて、上に上に昇って、憧れに少しずつだけど、近づけてもいたんだ」
結果が、こんなものになってしまったが。
「それで、どうしてまだ眠っていない?」
座っている夏彦の目の前に、学園長が立っていた。
「どうして?」
「そうだ。ここで意識を手放すのを拒むことに、何の意味がある? 苦しむ時間が長引くだけだ。それとも、ここから意識を取り戻して現実の世界に戻れば、あの怪物に逆転できるとでも思っているのか?」
「無理だ」
即答する夏彦。
「あれは、俺なんかじゃ絶対に勝てない。そもそも、体も動かない。勝負はついてるんだ、もう」
「ならば何故だ?」
「それは、もちろん」
もう答えはわかっていた。
「俺の理想像は、エリートは、俺の憧れる存在は、絶対に、絶対に諦めない人間だからだ」
色々な人間に憧れてきた。その全ての人間の素晴らしい点を集合させたような、夏彦の理想像。なりたい自分。完璧なエリート。
それは、高貴な人間だった。
完璧な能力を持ち、高邁な理想を抱き、意志は強く決して折れることはない。大義のために自らの身を削ることを厭わない、本当のエリート。
ノブリスオブリージュを果たすものだ。
もしもその理想の存在が同じ状況に置かれたとして、諦めるだろうか?
そんなわけがない。
だったら、自分は諦められない。
夏彦は結論を出す。
憧れに近づこうと悪あがきする、それしか能のない空っぽな人間なのだから。
「じゃあ、死にに行きます」
あえて自嘲の笑みを口の端に浮かべたまま夏彦は言うと、疲労と眠気で混濁しつつある意識を無理矢理に覚醒させる。
「ぐっうっ……」
歯を食いしばり、全身に力を入れて立ち上がる。
びしびしと音を立てて、暗い部屋にひびが入っていく。
「ねえ」
いつの間にか、学園長の姿はなく、つぐみが傍にいる。
「死んじゃっても、約束破ることになるんだからね。約束、守ってよ」
無茶を言うなよ。
そう反論しようと夏彦が口を開いたところで、
暗い部屋は砕け、全てが光に飲まれた。
そして、夏彦の意識は現実に回帰する。
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