真夜中の廊下。
足音を響かせ、携帯電話を片耳に当てた男が歩く。
男はサバキだった。
携帯電話の通話相手と、例の間延びした口調で愉しげに会話しながら歩いている。
「いやー、だから本当に感謝してるってばー。課長補佐の様子を教えてくれたし、ちゃんと風紀会に大倉の居場所伝えてくれたしねえ。だから、お礼をしたいんだよ、本当に」
「結構よ」
だが、電話の相手の声は冷たい。
「あたしはあなたに喜んで欲しくてあなたの話に乗ったわけじゃないわ。ただ、あの二人が喧嘩して、命を落とすなんてことになって欲しくなかっただけだもの」
「いやー、さすがつぐみちゃんだねえ」
サバキは本当に感心したように言う。
「無欲で友情に篤い。だからこそ、俺も君に協力求めたんだけどねー」
「で、その結果があれ? 夏彦君が死ななかったのは運が良かっただけじゃない。下手をしたら、夏彦君も律子さんも秋山さんも死んでいたわ。結局、夏彦君と虎君は喧嘩しちゃうし」
「勘弁してよー、大倉ってのがあそこまでの化け物だなんて知らなかったんだよ、ごめんって。それにさあ、結果論だけど、皆生き残ってるし虎君とうちの課長補佐も仲いいままじゃんかー。むしろ、あんな状況からここまでベストな状況に好転したことを喜ばないとさあ」
「……それは、確かにそうね」
しばしの沈黙の後、つぐみが答える。
「結果として、うまくいったから、そこは感謝しておくわ」
「できれば、これからもつぐみちゃんとはいい関係のままでいたいんだけどねー」
「あなたの派閥に入れってこと?」
「いやいや、派閥って何のことですかあ?」
「……まあ、いいわ。考えとく」
そうして電話が切られ、サバキはほうと一息つく。
ちょうど、目的地に着いたところだ。
廊下の突き当たり、ドアの横に壁にもたれて男が立っている。
「いやあ、お待たせしましたーレインさん」
サバキが声をかけると、
「なに、俺が早すぎただけだ。さて、貴兄も来たことだ、行くぞ」
レインはそう答えて、組んでいた腕を解く。
そうして、レインとサバキはドアを開けて中に入る。
ドアの向こうには、更に通路が続いている。その通路をしばらく進むと、今度は分厚い鋼鉄製の扉と、その横に指紋認証装置が備え付けられている。
「さて」
レインは、その長い指を装置に押し当てる。
かちり、と音がして扉の鍵が開く。
「行くぞ、そう緊張するな」
「はい」
ぽん、とサバキは肩を叩かれる。
二人は扉を開けて、中に入る。
「やあ」
強化ガラスに囲まれた部屋の中心、椅子に縛り付けられたままで迎えてくれたのは、怪物だ。
拘束服とベルトで全身を締め付けられたまま、怪物は柔らかに挨拶する。
「久しぶりだね」
「ああ、すまない。色々と忙しくて貴兄と会う時間が作れなかった」
「構わないよ。風紀会副会長の君がそんな暇じゃないことくらい分かってるさ」
「そう言ってもらうと助かる……ああ、サバキ。彼が怪物だ」
「だからその名前はやめてくれよ。僕の名はプーラナ・カッサパ。これは、歴史上の人物の名前を拝借していて――」
「六師外道ですねえ。釈迦と同じ時代同じ地を生きた異端の六人のうちの一人。確か、道徳の否定者じゃなかったですか?」
サバキがすらすらと答えると、プーラナは目を丸くした後で、にっこりと笑う。
「やあ、これは博識だ。そう、道徳無用を唱えたのがプーラナ・カッサパだよ。よろしく」
「よろしくお願いします。俺はサバキです。えー、司法会の監査課に属してます」
一歩前に出て、サバキは深く頭を下げる。
「ああ、よろしく……レイン、君がここに連れてくるということは、彼も?」
その言葉に、レインは軽く頷く。
野生的な貌はまるで彫像のように変わらない。
「貴兄の予想通りだ。サバキは司法会と同時に公安会に属している。一度、君に紹介しようと思っていてな」
「なるほど、ここに連れて来るということは、君としても彼を買ってるということだね。確かに、素質は感じるよ」
「恐縮です」
サバキはそう言って一歩下がる。
「そう言えば、もう一人期待の新人を最近手に入れたんじゃないのかい?」
愉しげに、ベルトで巻かれた顔を動かしてプーラナはレインに顔を向ける。
「こんな小さな世界に閉じ込められて動くこともままならず、それでも耳は早いってわけか。貴兄はつくづく油断できないな」
「動けないから、噂話くらいしか楽しみがないんだよ。それで、どうなの?」
「ああ、そうだ。貴兄の言う通り、期待の新人は手に入れた。現在は公安会の息がかかった病院の集中治療室だ」
「ふうん、で、どう?」
「素質は申し分ない。戦闘力としては、だがな。あの状態で息があるのも驚異的なら、限定能力があるとはいえ回復速度も驚異的だ。リハビリすれば、うまくいけば一ヶ月くらいで動けるようになるかもな」
「素晴らしい……あの夏彦君を殺しかけた逸材だろう? そんな彼を持ち駒にできたら、君もより動きやすくなるね」
「お言葉ですが」
そこで、一歩下がって控えていたサバキが口を挟む。
「夏彦は、大体いっつも殺されかけてますけどねえ」
「……はっはっは、そうだったね、忘れていたよ。彼の言う通りだ、レイン。君から聞いた話でも、彼はいつも死にかけていたね」
「そうだ。そういう波乱万丈な冒険譚こそが、貴兄の好みだったんだろう?」
「はっはっはっ、違いない……それにしても、運が良かったとはいえ、公安会としては今回の件、一番素晴らしい結末に落ち着いたんじゃないかい? 暗躍した甲斐があったね」
プーラナの言葉に、レインは少しの間考えて、
「確かに強力な駒が手に入り、内通者は全員死んだ。けれど、貴兄が言うような最善の結末とは言えないな。上手く話が転がれば、外の組織の構成員と理事連中を引きずり出せるかと期待していかたからな」
「なるほど、確かにそう考えると、穏便なところで話が終わってしまったね。君としては、更なる混沌がお望みだったわけだ」
「ああ、それは、これから貴兄の活躍に期待しよう……サバキ」
「はい」
レインの合図で、サバキはプーラナに近づき、その体を縛り付けているベルトを解き始める。
「おいおい」
プーラナの顔に驚きの色がはしる。ただ、目は乾いたままだが。
「いいのかい、こんなことをして?」
「既に話はついてるんだ。むしろ今まで待たせてしまったことを謝らないとな、友よ」
レインは落ち着き払っている。
これをするのは当然だと言うように。
「……感謝するよ、レイン、君の友情に。そろそろ、外の景色が見たいと思っていたところなんだ」
プーラナの紅い唇に笑みを浮かべ、枯れた目が夢見るように揺れる。
サバキは黙ってベルトを解き続けている。
だだ、他の二人には見えないように、密かにその口には笑みが浮かんでいる。獣が牙を剥くような、舌なめずりさえしそうな笑み。
そして、怪物は解き放たれる。
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