体中の痛み。目眩。頭痛。鳴り止まない頭の中の警報。
「う」
呻いて、夏彦はふらつく身体を立て直す。
「くそっ」
一瞬、意識を失ったか。
そう思い、夏彦は辺りを見回して、
「は、あ?」
絶句する。
夜。
日の沈んだ世界。
夏彦は夜の校庭にいた。
「嘘だろ、だって、俺」
記憶を辿ろうとして、愕然とする。
記憶がない。
アイリスと共同墓地で会ったところまでは覚えている。その後、別れて、そして。
「……くそっ」
駄目だ。いつ、意識を失ったのかすら覚えていない。ついさっき感じた目眩や頭痛すら、それが原因で意識を失ったのか、それともそれで意識を取り戻したのかも分からない。
「ぐう」
猛烈な吐き気と、再びの目眩。
そのまま地面に倒れこむようにして、両手をつく。
「くっ、そ……」
呻きながら、夏彦は自分の両手にはしる蚯蚓腫れを目にする。全身が痛い。
「今、何日、だ?」
荒い息を落ち着けながら、夏彦は携帯電話を取り出して日付、そして時間を確認する。
大丈夫だ。一日は過ぎていない。そして時間は深夜。
これから、学園長に会わなければいけない。
「くそっ、がっ」
多少は吐き気がおさまった。目眩も、もう大丈夫だ。
それでもがくがくと震える体を無理矢理に動かして、夏彦は立ち上がる。
「イカレてきてやがる、俺の身体も、脳みそも」
呟きながら、夏彦は息を吐き、一歩足を踏み出す。
「証明しろ」
男の声が聞こえる。
それだけでなく、男の姿までが瞼の裏にちらつく。
「くそ、幻聴に幻覚まで、か」
体中に蚯蚓腫れが浮かび上がり、それらのひとつひとつが熱を持っているかのようだった。生きた蛇のように、熱と痛みと共にのたうちまわっている。
「まだだ、まだ、もうすぐだ、待ってくれ、頼むから」
誰に言うわけでもなく、夏彦は呟く。
ようやくだ。
これから、学園長に会って、理事長について話ができる。
決着をつけられるかもしれない。
決着? 何に?
頭の中を過ぎる不快な問いかけを、夏彦は必死で払いのける。
タチの悪い風邪にかかったみたいだ。
悪い思考が延々と渦を巻き、体は震え、悪寒がはしる。
ともかく、行かなければ。
「そうだ、決着をつけろ」
「うるせえ」
ぽたぽたと音がする。
何の音かと夏彦が見回せば、何のことはない、夏彦の汗が地面に落ちる音だ。
夏の炎天下の昼間に全力疾走でもしたかのように、夏彦の全身からは汗が滴り落ちている。
「全く、冗談じゃない、本当に」
不平不満を言いながらも、夏彦は足を進める。
「証明しろ」
「だから、黙ってろよ」
自分の幻聴にいちいち反論しながら、夏彦は目的の場所へ、第一校舎の地下三階、旧第一多目的教室へと歩いていく。
薄暗い、かび臭い陰気な部屋。
そこには学習机すらなかった。古びた黒板だけが唯一の装飾品とでも言えばいいのか。
その殺風景を超えた、死んでいるとでも表現すべき部屋の中央に、圧倒的な存在感を出す肉の塊がある。
厚手のコートを着てはいるが、それでは隠し切れない肉体を持つ巨大な老人。
「……どうも」
かび臭い死んだ部屋に、息も絶え絶えでドアを開けてよろめきながら入ってきたのは、夏彦だった。
「調子が悪そうだな」
かつて、間違いなく格闘技の世界で人類最強だと言われていた老人は、淡々と言う。
「ええ、まあ」
背中から壁に寄りかかりながら、夏彦はゆっくりと入り口から老人へ、学園長のデミトリ・ラスプーチンへと近づく。
「ラスプーチン」
ぽつりと学園長が呟く。
「え?」
かすれた声で、夏彦は聞き返す。
「私のファミリーネームだ。帝政ロシアを崩壊させた怪僧の名と同じだ。あの怪僧の登場以降、不吉だということで改姓する家がほとんどだったが、私の家はそのまま名を残した。何故かは知らん。だが、周りの誰もが眉をひそめる私のファミリーネームを、ただ一人、褒めてくれた男がいた」
「学園長、何の、話です?」
壁に体重を預けながら、夏彦は苦しげに、しかし途切れ途切れに言う。
「お前が聞きたい話だ。まだ、私は十五歳くらいの若造だった。当時、私のファミリーネームのことでからかう輩が多くてな。そいつらと一人残らず揉めに揉めていた私は、自分の命を守るため、そして敵を叩きのめすために、必死に身体を鍛えていた。金はなかったが、身体を鍛えるだけなら金はかからない」
昔を思い出すように、学園長の青い目が宙を見つめる。
「だが、身体を鍛えからといって喧嘩に勝てるとは限らない。鉄パイプも銃も何でもありの喧嘩ならばなおさらだ。私は、ギャング共に囲まれていた。全身を破壊され、何もされずとも放置されるだけで死にそうな状況で、だ。そこに、あの男が現れた」
苦悩するように、学園長の額の皺が深くなる。
「見たこともないような、高級そうなスーツと靴、腕時計。顔よりも、そんなものの方が印象に残っていた。男は私を囲むギャング共に声をかけた。ギャング共は、何か汚い言葉で反論したように思う。よく覚えていない。覚えているのは、次の瞬間、ギャング共の首がひとりでにねじ切られたことだけだ」
「そりゃ、すごいですね」
ようやく、体調が少し良くなってきた気がした夏彦は、背中を壁から離す。
「気づけば、生きているのは私とその男だけだった。男が名前を聞いてきて、私がそれに答えた。男は、私のラスプーチンというファミリーネームを気に入った。それだけだ。ただ、それだけの話だ。夏彦、私にはそもそも、格闘の才能など大してない」
「え?」
意外な、そして意味不明な言葉に、夏彦はそう聞き返すしかない。
「ただ、偶然出会って、そして名前を気に入られただけだ。私はその男にボディーガード役をしないかと誘われた。私はそれを受けた。そして」
学園長の指が夏彦を指した。
「酷い手術跡だな。私の手術直後でも、そこまではならなかった。余程、大掛かりな手術を受けたと見える」
「学園長、あなたは、いや、あなたも、これを」
思わず、夏彦は自分の腕にはしる蚯蚓腫れを指でなぞっていた。
「そうだ。改造された。最強の格闘家として。そして最高の環境、最高のトレーナーを準備された。後は、世間が知っている通りだ。私は格闘家として勝ち続け、最強の称号を手にした。下らん、全て、あの男のお膳立てだ」
そこで、学園長はふと、遠くを見るような目をして、まるでなぞなぞを考える子どものような口調で、
「しかし、今でも不思議だ。どうして、あの男がボディーガードなんてものを必要としたのか。そんなものなくとも、危険などありえないのに。ひょっとしたら、全て口実なのかもしれない。私を傍に置くための。あの男は言っていた。私の名前が気に入ったと。少し前に死んだ、友達の名前と一緒だと」
そこまで話して、学園長はようやく目を夏彦に向ける。
「夏彦。これが、私の知る理事長の全てだ。共にこの国に来て、学園を設立し、私はボディーガードから学園長という立場へと変わったが、本質は何も変わっていない。あの男にいいように使われているだけの男だ。夏彦、お前と何も変わらない」
「だから、俺に訊いても無駄だ、と?」
「そうだ。メールで送られてくる理事長の意向の通りに動いているだけだ。私は中間管理職に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。ノブリス学園についても、私は何も興味がない。ただ、命令の通りに運営しているだけだ」
「それは、嘘ですね」
ようやく、夏彦は調子を取り戻してくる。
腕の蚯蚓腫れも消えつつある。
『最良選択』が、学園長の発言を否定している。
「学園長、やっぱり、あなた、学園長として、この学園のこと、気にしてるんじゃないですか? できれば、このまま崩壊なんてさせたくない。違いますか?」
「……さあな。そうかもしれん」
答えながらつくため息に、夏彦は過ごしてきた年月の重みを見る。
「私は、長くここに関わり過ぎた。愛着が湧いているのは、否定できんな」
「だったら、理事長についてもっと教えてください。俺からも、理事長に学園を存続させるように頼んでみますよ」
最後の手段として、取引めいて口にしたその提案は、
「無駄だな」
学園長の一言で斬って捨てられた。
「いや、しかし」
食い下がろうとする夏彦に、
「無駄だ。そんなことをする必要はない。夏彦、全ては理事長の予定通りだ」
そう学園長は落ち着いて言う。
「え?」
「お前が私の元に来ることも、既に理事長に一週間前から知らされていた。全ては予定通りだ。夏彦、もうすぐ、お前は理事長に会える」
「何を……」
周りの景色が歪む。
頭がきりきりと痛み、全身が熱を発する。
一度は消えていた蚯蚓腫れが、再び現れるのを視界の端に見る。
これは。
夏彦は吐き気をこらえる。
これは、何だ。
「心配するな」
エコーがかかったようになった学園長の声。
「これが最後らしい。改造の反動はこれで終わり、お前は理事長と会話する。全て予定通りだ。心配するな」
そして、意識が闇に溶けていく。
その寸前、
「理事長の人形とはいえ、この歳まで磨き続けた技術は本物だ。だから、死ぬなよ。まだ、お前に伝えていない技術は無数にある」
少し寂しそうな、普通の老人のような学園長の言葉が聞こえる。
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