暗い部屋に、男が待っていた。
「それで、何が訊きたい?」
唐突に男は切り出す。
「これがおそらく最後だ。最後に確認をしておかなければなるまい」
夏彦は、暗い部屋に立っていた。
また、再生されている光景。映画のように眺める。
「どう、なってるんだ? 結局、これは、俺の記憶なのか?」
素直に、疑問を全て口に出す。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。今、この空間は、レインの限定能力によって無理矢理蘇らされつつある失われた記憶、そして改造の副作用による脳と精神の誤作動の二つが作用して生み出されたものだ。そこに、私が力で直接介入している」
「改造、か」
夏彦の頭に学園長の言葉が蘇る。
学園長も、確かに改造されたと言っていた。
「学園長も、改造したのか?」
「ああ、ラスプーチンか。そうだ。改造して、人としての限界まで力を出せるようにした。その上で強くなるために必要な環境も指導者も用意した。とはいえ、奴が最強の格闘家と言われるまでに成長したのは、奴自身の素質と意思も不可欠だったが」
逆光で見えない顔が、確かに笑みをつくった。
「だが、お前に施した改造はそれとは次元が違う。私がお前に植え付けていた私の力の一部を、そのまま完全にお前のものとして解放する手術だ」
「解放? 妙な言い方だな」
「そうか? ごく真っ当な話だ。今まで、お前の力は縛り付けられていた。所詮、借り物の力だからな。それを、縛りから解放する。夏彦、お前の限定能力は、もう限定されなくなる」
「じゃあ、もう、限定能力じゃあなくなるな」
「そうだ。それはもはや、単なるお前の能力となる。ノブリスの外でも使用でき、鍛えれば鍛えるほど無限に成長していく。それは人が持つ能力ではない。改造によって解き放たれた能力が、内側からお前を食い破ろうとしてる。それが、お前の肉体に悪影響を与え、精神と脳に誤作動を起こさせた」
「迷惑な話だ」
夏彦は吐き捨てる。
「何とかしてくれ」
「心配するな。全ては予定通りだ。今回の発作で、ようやくお前の身体は正式に人間ではなくなる」
「――は?」
あまりの内容に、夏彦はうまく反応ができない。
「といっても、私から見れば人間と変わりないがな。人間から、一歩だけこちらに踏み込んだというだけの話だ」
「おい、ふざけるな」
言いながら、夏彦の中には諦めにも似た感情が生まれていた。
どこかで、納得していた。
ずっと、蘇りつつある記憶のことを誰にも話さないようにしていた。
そうした方がいいと、勘で判断していた。
今思えば、それは、自分が何か別のものに変わりつつあるのを予感して、それを隠そうとしていたのかもしれない。
「だが、まだ不完全だ」
男は、夏彦の様子に無頓着に続ける。
「それでは、お前は人間ではなくなっただけ。人間を超えた存在にはならない。それには、証明しなければならない」
「……だから、何をだ? あんた、ずっと証明しろ証明しろって、何を証明して欲しいんだ?」
「お前が本当のイレギュラーであることを、だ。お前を人間を超えた存在にするのは、私にもリスクがある。おそらく、それをすれば神々は改造されたお前に、そしてお前を改造した私に気づく。敵、いや害虫とみなされるかもしれない。だから、万が一にも失敗は許されない」
「おい、じゃあ、俺を元に戻せ。全部、あんたの勘違いだ。俺は、イレギュラーなんかじゃない」
「言っただろう。賽は投げられたのだ。そんな話は最早通らない。いいか、学園の政治闘争は混沌を生むためのものだ。私の演算能力はその混沌をシミュレートし続けた。混沌から、私の演算を超える何者かはずっと出現しなかった。だが、ついに私の演算を超える行動をして、演算を超える地位と力を手に入れたイレギュラーが現れた。それがお前なのだ。いや、そもそもそれ以前、お前がその最良選択という限定能力を手に入れた時に、それは始まっていた。その限定能力は演算しきることができないからだ。自己言及のパラドックスが起きてしまう。そうだ、最早、逃れることはできない。お前が選んだ道だ」
「違う。俺は、イレギュラーなんかになるつもりなんてなかった。選んでなんてない」
「そうかな? お前は気づいていたはずだ。自分がエリートになれるはずがないと。選ばれた存在ではないと。にも関わらず、エリートを目指した。イレギュラーは、お前が選んだ道だ」
「違う……」
否定しながらも、夏彦の声は力を失う。
「どの道、もうお前は人ではなくなった。戻ることはできない。後は、進むだけだ。己が真のイレギュラーであることを証明しろ」
「うるさい。誰が、そんなことを証明するか」
「証明の方法は簡単だ」
「うるさい。しないって言ってるだろう」
「怪物を殺せ」
「うる……は?」
予想外の名前、そして予想外の命令だった。
「怪物だ。特別危険クラス唯一の生き残り。外の組織が学園の王となるべく作り上げた最悪の失敗作。奴を殺せ」
「ふざけるな。どうして俺がそんなことを」
「何故ならば奴こそがもう一人のイレギュラーだからだ。奴は、今のお前と同じ状態だ。人を超えたとは言えないが、少なくとも人間ではない」
「俺は、人間だ」
搾り出すような夏彦の反論は無視される。
「恐るべきは、この件に関しては私が関与していないことだ。私が改造することなく、外の組織の妄執と偶然が何重にも重なり、奇跡と言うのも生易しい低確率を突破して、人間でないものが、怪物が自然にこの世界に生み出された」
男の声には、畏怖すら含まれているように夏彦は感じる。
これまでの男からは想像もできなかった。
「この怪物もまた、完全なイレギュラーだ。この世界が生み出した、私の演算を超えた存在」
「じゃあ、もう、そいつが本物のイレギュラーでいいじゃないか。そいつと仲良くやってろよ」
「永劫の時をイレギュラーを待ち続けた私の前に、同時期にイレギュラーが二人、現れる。これをどう考えればいい? 神々を超える、更に上位に位置する何らかの意思を、世界すらすり潰してしまうような法則の力を感じないか?」
「感じない。誇大妄想だ、あんたの」
「お前たち二人に殺し合ってもらう。そして、生き残った方を、私の全能力をかけて、私に近い、否、私を超える存在に仕上げる。それが、私の出した結論だ。そうしてできあがった、私の演算を超えた存在の力を手に入れ、私は神を殺す。絶望を突破する」
「馬鹿げてる。もう、帰っていいか?」
「賽は投げられた、と言っただろう。もう、戻ることは不可能だ。お前は最早人ではないし、そもそも」
男はいったん言葉を切って、
「怪物は、了承した。お前を殺しに来るぞ」
屋上に、立っていた。
「……ああ」
空は藍色。
夜明け寸前の色をしていた。
夏彦は、何が起きたのか分からず、しばらく呆然と立ち尽くす。
どうも、さっきまで地下にいた、あの第一校舎の屋上らしい。
どうして、自分がここにいるのか夏彦には全く分からない。
幻聴と、幻覚。
さっきの、妙な空間に意識があるうちに、勝手にここまで上がってきたのか?
戸惑う夏彦に、
「ようこそ」
若くもなく老いてもいない声が、あるいは若く同時に老いている声がかけられる。
少年が、そこにいた。
少年は幼いとも見える中性的な顔と古びたガラス玉のような目をしていた。病的に肌は白く、髪は金色に近い茶。おそらく、髪は染めたのではなくて色素があまりにも薄いためにその色なのだろう。夜の藍色の中でも美しいその髪は長く、唇は紅い。少女のようにも見える。
「特等席だ。夜明けを見るにはね」
老人のような疲れ果てた印象と少年の華やいだ空気を併せ持つ声。
ゆっくりと、空を抱くように少年は手を広げる。
その動作で、夏彦はその少年がほっそりはしているが、骨格は男性的であることに気づく。肉はほとんどついていないから痩せた印象を持つが、骨格自体はまるでスポーツ選手のようだった。
「お前は、誰だ?」
夏彦はそう言うが、その答えは何となく自分でも分かっていた。
「ノブリスネームは、プーラナ・カッサバ」
微笑を浮かべてはいるが、目が笑っていない。
「君達が僕を呼ぶ時は、大抵怪物と呼ぶけどね」
「……初めまして」
戸惑いながらも、夏彦は挨拶をする。
「どうも、ご丁寧に。初めまして」
怪物も会釈を返す。
「ところで」
夏彦はさっそく本題に入る。
「どうして、俺がここにいるか分かる?」
「ああ、もちろん。僕には分かるよ」
何でもないことのように怪物は言って、
「僕と殺し合うためだろう?」
「違う」
ため息と共に、夏彦は首を振る。
「どうして、どいつもこいつも俺に殺し合いをさせたがるんだ」
吐き捨てる夏彦に、
「まあまあ、落ち着いて。夏彦君」
苦笑しながら、怪物が近づいてくる。
「俺の名前、知ってるんだな」
夏彦は一歩下がる。
嫌な予感がしたからだ。もっとも、勘というよりも、もう決まりきった筋書きが読めるだけとも言えるが。
「もちろん。僕は、君のファンなんだ。ずっと監禁されている間、レインから君の話を聞くのが唯一の楽しみだった」
また一歩怪物が近づいてくる。
「どうして近づいてくる?」
「もう、分かっているんだろう?」
さらに一歩。
もはや、怪物と夏彦はお互いの手が届く距離にいる。
「……なあ、怪物?」
「ん?」
もう一歩。
既に至近距離だ。
「どうして、お前が外にいる?」
「レインが、僕の友人が出してくれたんだよ」
更に一歩。
ついに、ゼロ距離になった。
お互いの肩が触れ合う距離。
「妙だな。お前、皆殺しにしたんだろ、クラスメイトを」
「僕が全員殺したわけじゃないよ。大部分を殺したのは、否定しないけど」
「そのお前が、どうして出れる?」
「どうしてだと思う?」
至近距離で、夏彦と怪物の視線が絡んだ。
こんなに近くにいるのに、全く体温を感じさせない怪物を夏彦は恐ろしく思う。
「そうだな、たとえば……この学園の全てを裏で支配している行政会の王、理事長が出すように望んだ、とか?」
「へえ。理事長が、どうして、僕を?」
ゆっくりと、怪物の手が夏彦の頬に伸びる。
頬に触れるその指の冷たさに夏彦は慄然とする。まるで死そのもののような冷たさ。
「もちろん、交換条件があったんだろうな」
だがその動揺を出さないように、夏彦は必死で冷静な顔を保ったままでゆっくりと左足を後ろに引く。
「交換条件?」
「理事長は、どうも俺とお前を殺し合わせたいみたいだ」
「そうらしいね。けど、夏彦君はその話に乗り気じゃないんでしょう?」
「お前は、どうだ?」
「もちろん」
不意に怪物の笑みが消えて、仮面のような無表情になる。
「乗り気だよ」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、頬に触れていた怪物の手が、まるで圧搾機のように凄まじい力でそのまま掌底を打ち出してくる。
みしみしと音を立てて、首の骨が壊れていくのが分かった。
夏彦の視点が横に九十度回転する。
「は」
喉からは妙な空気が漏れるような音がする。
だが、ほぼ同時に、片足を引いて身構えていた夏彦の、渾身の力を込めた右足の蹴りが怪物の胸に炸裂する。
筋肉のついていない怪物の肋骨は容易く破壊され、折れた骨が心臓や肺に突き刺さったのも夏彦は蹴った感触から感じる。
だが、それをやったと思う前に、夏彦の視点は更に回転し、喉の辺りから壊れる音が聞こえる。
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