あまりにも白く、清潔な廊下。無機質なその様子がどうにも居心地が悪いらしく、いつもとは違って背を丸めて、覇気なく虎が横で歩いている。
完全な無音に近い廊下では、足音がやけに響く。
「なあ」
だから、小声のはずの虎の言葉も同様だ。廊下に、響いて反響する。
「ん?」
「夏彦、お前ちょっと変わったよな?」
「ん、ああ……一応、出世したし、その分経験を積んで、頭と体も必死で鍛えたから、それでか? 自分でいうのもなんだけど、体つきなんかは入学した時とは完全に別物になったと思う」
「いや、それもそうだけどよ……人を、殺したか?」
その質問に、一瞬だけ足が止まるが、
「お前なら知ってるだろ、タッカーを殺したのは」
「ああ、そりゃあ、知っている、が……あれは半分事故みたいなもんらしいじゃねえか」
虎の表情はまるで羨ましがっているかのようで、
「そうじゃあなくて、自分の意志で、殺したんじゃないか?」
「どうしてそう思う?」
既に歩行は再開している。
「一線を超えた――覚悟を決めた奴の顔をしてるぜ」
虎がそう言っているうちに目的地につく。正確には目的地の病室に入るためのゲートの扉の前に。
「じゃあ、虎」
「ああ」
そうして、虎によって生体認証を通過する。
「ようこそ」
扉の先、廊下と同じように白く清潔な病室で、ベッドの上から、無数の管に繋がれた枯れ木のように痩せた老人が迎えてくれる。
「間に合わないかと、思っていた」
細く呼吸をしながら、老人が言う。
「自分の残り時間が削られていくのが、はっきりと分かる。ああ……ここで、夏彦、お前が来てくれるのに間に合ったのは、幸運だ」
この老人――クロイツが御前と呼んでいた存在――は夏彦のことを知っていた。そして、それは夏彦も予想していた。だから動揺はない。
「クロイツさんからもらった情報に、この病院のこの階、それからこの病室――そしてあなたの存在がありました。暗号化されてましたけどね」
「生体認証の突破に――そこの……凶暴な、ガキを使う、とは、考えたな」
老人の白く淀んだ目が夏彦の横の虎を向く。虎は肩をすくめている。
「これもクロイツさんのアイデアですよ。どうやら、虎とあなたに血縁関係があるところまで探っていたみたいです」
「クロイツ、か……面白い男、だったが……諦めて、分かりにくい自暴自棄になっていた。長くはないと思っていた」
そこで老人は咳き込み、
「結局、お前は、今日まで顔を見せなかったな」
「ほとんど面識のないひいじいちゃんから『力になってやる』って言われても、普通会いにいかねえよ。罠の可能性もあるし、自分だけでいける自信もあるし」
「ふん、大昔に会ったクソガキの、そのまま育ったな」
しわがれた声で笑ってから老人は、
「さて……夏彦、お前のことは、知っている。何か知りたいから、ここに来たんだろう? 何が訊きたい?」
「これについて」
夏彦は、コインロッカーから手に入れたそれを目の前に差し出す。
劣化した、紙の束。
「郷土研究会のメモです。本物の」
「ふむ」
老人は席をしてから、
「そこに、何が書いてあるかくらいは分かっている……『血染めの八月』、学園設立についての事情。断片的な、情報とも言えない情報。だが、それですら禁忌だ。だから、封じられ、カバーストーリーが何重にも被せられ、最終的には架空のものに成り果てた」
「『血染めの八月』……学園の最初期に起こった、暴動と大量死――そういうことでいいんですか?」
「ああ、それがあまりにも忌まわしいから、封印されている……そう、事実を知っていると思っている人間ですら、そう思っている」
ということは、真実は違う、というとこか。
「確かに、このメモにも、『血染めの八月』の概要を探り出したところまでで終わっていました。そう、この学園の闇を見つけ出して満足していたんだと思う。この先が、あると?」
「ここでもったいぶっても仕方がないな。そうだ。あの暴動は……」
思い出を味わうように老人は目を閉じて、
「学園を支配しようとしていた一派と、独立を守りたい一派の殺し合いだ。ああ、支配しようとしていた、というのは不公平か。学園を、この国のために運営しようとする一派、と言い換えよう」
「この国のために?」
「ああ、そうだ、そこから、この学園の設立の事実にたどり着かれるかもしれない。だから、あの暴動は隠蔽された」
多少疲れたらしく、老人は少し喋るのを休み、しばらく病室には苦しげな呼吸音だけになる。
「この学園の設立に多少なりとも関わったものは、皆、分かっていた。この学園がいずれ、国にどれほどの影響力を持つのか。国が学園に支配される。それを、防ぎ、学園が国に支配される形に変える。そうしようとした者たちがいた。あの、敗戦に限りなく近い勝利によって、多くの力を失った、旧き支配層たちだ。彼らは彼ら自身、そして手先を学園に大量に送り込んだ」
「そして、『血染めの八月』で、負けた?」
「そうとも。負けて、ただでさえ少なくなっていた力を失った。生き残った者たちは学園から逃げ延び、まとまり、それでも生き延びて学園のことを諦めきれずに、いや、もはや復讐のために――今では学園で『外』とだけ呼ばれている」
「へえ、それが今の『外』の組織の成り立ちか。面白いな」
黙って聞いていた虎が呟いて笑みを浮かべる。
「あの、『血染めの八月』で最も活躍した、殺し尽くしたのは――」
老人の目がぎょろ、と急に鋭くなり、
「……どうしました?」
「――お前のような、最初は、目立たなかった学生だった。それが、あれよあれよという間に昇りつめ、あの八月に表に裏に活躍した。あの男は、おそらく……生きている。姿を消したが、きっと、今も」
震えている。老人が、少し震えている。体力的な問題ではなく、おそらくは単純に恐怖から。
「ちょっといいかよ、ひいおじいちゃん」
そこで、虎が口を出す。
「で、その暴動の真実がどうしたんだよ? 面白いけどよ、その――暴動だが抗争だかが、どうして学園の設立につながるんだよ?」
「そうだな」
老人は呟いて、
「ここからは、私が実際に体験したことではない。私を学園に送り込んだ側――父から、聞いた話だ」
「俺のひいひいじいちゃんね」
「そうだ。あの戦争は――負けに等しい勝ちは、戦勝国であるというプライドだけをもたらした。他には、何もない。結局、この国は連合国の言いなりになるしか、戦後を生き延びる術はなかった。だが、この国が言いなりにならなければいけなかったのは、戦勝国だけではない」
よろよろと、老人は首を動かしてしっかりと夏彦を見据える。
「お前たちは、どうやってこの国が、圧倒的に不利だったあの戦争にかろうじてだが勝てたのか、歴史の授業でどう習っている?」
「どうって、なあ?」
虎がこちらに顔を向けてくるので、
「うん。有利だった連合軍の、こちらにとどめを刺すための大艦隊が、歴史的なハリケーンに遭遇、一方こちら側の攻撃時には異様なくらいに天候が良好だった。つまりは自然現象。当時のうちの国では神風だなんて大騒ぎだったらしいけど」
「ああ、未だにその話が通り続けているのか」
喉をごろごろと鳴らして老人は笑って、
「それはカバーストーリーだ。いや、確かに……嘘ではない、が。異常気象は、人為的に引き起こされた。敗戦を免れるために」
「天候を操作したってことですか?」
信じられずに夏彦は聞き返す。
「そうだ。それをしたのは、私の父も、『伯爵』と呼ばれていることしか知らない、そんな男だったそうだ」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!