正式な授業開始までの一週間余り、夏彦は必死でもがくことにした。
そもそもが、「司法会に入会したい」と軽はずみにも言ってしまった後、喜ぶライドウからはぞっとするような指示を受けてしまったので、もがかざるを得ないと言う方が正確か。
「じゃあ、校則集のここからここまで、司法会総則の部分を一週間後までに暗記しておいてください。それと来月にはクラスを、少なくとも通常クラスの上位十クラスには移動できる成績をとってもらわないといけませんね。ああ、もちろん体は鍛えておいてください。自分の身は自分で守れるくらいでお願いします」
その言葉で入学式が終わってから、夏彦は寮の自室の入寮の片付けはそこそこに、必死で教科書を読み、校則集を暗記し、活字を追うのに疲れたら体を鍛えることにした。
寮は巨大なマンションのような寮が、街に多数点在している。どの寮になるのかは完全にランダムらしい。だが、どの寮も学生寮とは思えないくらいの施設、機能、セキュリティを兼ね備えていることは間違いない。
その一端として、どの寮にも一階分丸ごと使ったジムが備え付けられている。文武両道を旨としているノブリス学園ならではだろう。ジムにはちゃんとトレーナーがいて、しかも学園生ならば全て無料というのがすばらしい。
ということで、暗記しなければいけない書籍と資料を読み疲れた時は、夏彦は寮の一階にあるジムで倒れる寸前まで体を鍛えることにしていた。
授業が始まる前日、夏彦はジムのエアバイクを必死にこいでいた。
校則集の該当部分の暗記は何とか間に合った。後は、学力と身体能力が司法会についていけるかだ。
バイクをこいでいる夏彦は学校指定のジャージ姿、周りのジム利用者も大体はそのジャージ姿だが、そうでない者もいる。このジムは学園関係者以外にも解放されている。
「うっぷ……」
三十分近く、全力でこいでいたら気持ちが悪くなってくる。腹筋もひくひくと震えて挙動がおかしい。
これまでまともに運動らしい運動をしてこなかった体に無理をさせたら、こうもなる。
そろそろやめるか。
転がるようによろよろとエアロバイクから降りて、近くのペンチに夏彦は腰を下ろした。
疲れた。
脳髄も体も半端じゃなく疲れた。こんなに疲れた一週間は、これまで体験したことがない。
「精が出るねえ」
間延びした声。
声をかけられて、夏彦は息も絶え絶えに顔を上げた。
「ああ……どうも……」
その声の主を夏彦は知っていた。
一週間、ジムに通っていれば自分と同じく常連の顔も覚える。
ジャージ姿であるところからして、同じ寮生の男子学生だ。
くせっけのある髪を無造作に伸ばしている。目鼻立ちはくっきりしていて、浅黒い肌、太い眉と、美形というよりも男前と表現するのが正しい男だった。ハンサムなのは確かだ。
体つきも、一週間前から急激に鍛えようとした夏彦の体とは違い、きちんと長い年月をかけて鍛えてきたのが見ただけで分かる、自然かつ筋肉質なものだった。
「新入生でしょ、俺と同じでさあ」
体つきや顔つきとは裏腹に、その目は優しい光を湛えている。草食動物を連想させる。
「ああ……そっちも……新入生なの? 俺は……夏彦、よろしく」
荒い息を無理矢理整えつつ、夏彦は返事をする。
「夏彦か。よろしく、夏彦。俺はサバキ。一応、特別クラスだねえ」
特別クラス。
出たぜおい、見た目ハンサムで体も鍛えてて頭もいい。ザ・エリートだ。
夏彦は息を整えつつ思う。
「ああ、凄いね、特別クラスか。俺は通常クラスだ、しかも上位でもないし」
「この一週間見てたんだけどさあ、明らかにこれまで鍛えてなかった体をずっと必死で鍛えているところを見ると、君は入会するつもりだろう?」
いきなり、核心を突く質問。だが、彼の穏やかな目と口調から、夏彦は警戒することなくそれを受け取る。
「あ、ああ。そうだけど、サバキも?」
言ってからミスに気づく。
当たり前だ。特別クラスなんだから全員が学園と会については教えられているはずだ。そして、教えられたら特別クラスに入るような化け物がそれを見逃すはずがない。
「そうだよ。俺は司法会にしたんだけどねえ」
「あ、サバキも? 俺も司法会だよ」
「へえ。そうなんだあ。ちなみに、どうして司法会を選んだの?」
「え?」
言われて、改めて夏彦は考える。
あの時、勢いで司法会と言ってしまったが、何か論理的理由は存在したのだろうか。
「ええと、まず、そうだな」
考えながら、自分に言い聞かせるように語る。
「うちのクラスの担任で、会のこととか教えてくれたのが司法会の人だったんだよね。少なくとも、その人は悪い人じゃあなさそうだったから、司法会は少なくとも信用できるというか、信用しようかなと思ってみても丸っきり損にはならないかなと思ったとか」
どんどん語尾を弱くしながらもとりあえず喋り続ける。
「なるほどお。分からないでもないけどさあ、それならその時に決めないで他の会の人とかとも触れ合ってから決めればよかったんじゃないの?」
それは、そうだが。
「その場で決めたかったんだよ、軽はずみだったと思うけど、一日でも遅れたらその分、差をつけられる気がして」
夏彦がそう言った瞬間、サバキの目が僅かに光る。
だが次の瞬間には、捕食動物を思わせるその光は消えて、元のおだやかな目に戻る。
「そういう考え方、大事だと思うなあ。君、結構出世競争ではライバルになるかもねえ」
「まさか」
思わず夏彦は笑う。
サラブレッドとロバがライバルになるとは思えない。
「で、司法会にしたのはそれだけの理由?」
「ああ、あと、今にして思えば、俺、色んな会の人と知り合いたかったから選んだのかもしれないな。ほら、司法会って他の会同士の橋渡しとか調停とかするんだろ? 俺、もともとノブリス学園のエリートっていうのに憧れてたからさ、一人でも多くの、そういうエリートに会いたかったのかもな」
後付けのような話だが、振り返りつつ夏彦が言うと、サバキは首をひねる。
「ううん、人脈を作る、っていうのはちょっと違うみたいだねえ」
「ああ、そういう実利的な話じゃなくて、本当に趣味嗜好の問題だな」
「面白い人だねえ」
笑うサバキ。
結局、その後夏彦とサバキは電話番号を交換して別れる。
夜。
独り、寮の自室でベッドに横になっている。天井を見つめる。
明日から、とうとう授業が始まる。
今の自分で通用するのか。
自信はない。
けれど、やるだけはやった、という自負はあった。こんな自負を持ったのは夏彦にしてみれば産まれてから初めてのことだった。
言い切れる。
この一週間、全力でやるだけのことはやった。
それだけでも、ノブリス学園に来た意味はあると思った。
眠れない。
肝心の明日、遅刻でもしたら目も当てられないというのに、興奮して眠れない。
羊の数でも数えるか。
ああ、そう言えば限定能力について訊くの忘れてたな。
訊いても教えてくれそうになかったけど。
入学式以来、虎ともつぐみとも会っていない。あいつら元気にしてるのかな。
というか、電話番号の交換すらしてなかった。
まあ、入学式の日は色々ありすぎた。
サバキ。
いい奴っぽかったけどな。
あいつの言うように、同じ司法会にいるってことはライバルか。
色々な考えが浮かんでは消えていく。
そのうちに、夏彦の意識は眠りに沈んでいく。
準備期間はこうして終わり。
学生生活が本格的に始まろうとしている。
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