相変わらず、そのファミリーレストランには、人がいなかった。やる気のある店員も。
薄ぼんやりとした照明。
皮が剥がれかかっているソファーに座って、夏彦と虎は向き合っている。
「で、そっちが俺を呼び出すってのは、何か儲け話でもあるのかよ?」
ずるずるとうどんをすする虎は、じろりと夏彦を睨む。
多少やつれているようにも見えた。だがそれは虎を弱弱しくは見せておらず、むしろ険のある顔が凄みをましている。
「ああ、まあ」
曖昧に返事をする夏彦は、青白い顔をしてドリンクバーのサイダーをストローでゆっくりと飲み続ける。
病み上がりのような夏彦に、虎は大袈裟に眉を寄せて、
「どうしたんだよ、おい。死にそうな顔してるぜ」
「死相が出てるか。さもありなん、だな」
ふう、と息を吐き、夏彦は椅子に体重をあずける。
古いソファーがぎしぎしと鳴った。
「虎」
弱い声で夏彦が言う。
「あん?」
「頼みがある」
「ギブアンドテイクだぜ、基本的に。つーか、お前にやった金と情報返せよ」
いつもと変わらない調子で虎が返すと、
「金はともかく、情報を返せって言うのは難しいな。代わりってわけじゃあないけど、ほら」
ポケットから取り出したメモリーを夏彦は虎に投げ渡す。
もともと、虎にやるつもりで持ってきたものだった。
「うおっ」
ようやくうどんを食べ終えた虎は、慌ててそれを受け取って、しげしげと見つめ目を細める。
「何だよこれ?」
「外務会を牛耳ることのできるアイテム。クロイツの遺産だ」
サイダーをちびちびと飲みながらの夏彦の返事に、虎は目を丸くする。
「お前、これを俺に?」
「ああ」
「……何をして欲しい?」
虎の表情が真剣そのものに変わる。
一方の夏彦は気負う様子もなく、
「行政会の、学園長と会いたい。俺の師匠にな」
「今、学園長は忙しいんだぜ」
当たり前のことを虎は言う。
口の端に笑いを残しているところからして、少しからかっているようだった。
「だから、お前に頼んでるんだ」
辛抱強く、夏彦は続ける。
「大体、学園長に会ってどうする? 会に戻れるように口添えを頼むのか? それとも、稽古でもつけてもらうか?」
そんなわけがない、と思っているのが伝わるような投げやりな虎の口調。
それも悪くないな。
知らず、夏彦の口元には笑みが浮かんでいた。
悪くはないが、それが目的じゃあない。
「理事長に、会えないかと思ってな。学園長に話を通すのが一番早いと思ったんだ」
瞬間、空気が凍る。
「夏彦」
虎の声は静かだった。
「死ぬ気か?」
「いや、特にその気はない」
二人の視線が絡む。
虎は探るような視線を。夏彦は、真っ直ぐの視線を。
「夏彦」
虎が、不意に笑う。牙を剥くように。
「ん?」
「分かった。学園長と会わせてやるよ。俺の命に代えてもな」
凶暴な笑みのままで虎が言う。
「……どうしたんだよ、いやに力が入ってるじゃないか」
本心から意外だった夏彦は目を丸くする。
「親兄弟でも噛み付くような、猛獣とは思えない」
「はっ、確かに虎は無慈悲に獲物を噛み砕くけどよ、仲間のために命をかけることだってあるぜ。別に矛盾はしてねえよ」
「仲間、か」
口に出すと、妙に恥ずかしい。
「何だよ、違うのかよ? 友達だろ」
虎は口を尖らせる。
「ああ、まあな。扱いづらい友達ではあるけど」
皮肉な笑みを貼り付けて夏彦が茶化すと、
「馬鹿言え。俺ほど分かりやすい奴もいねえぜ」
虎は憤慨して、立ち上がる。
確かにそれはそうかもしれない、と夏彦は納得する。
虎はシンプルだ。要するに、猛獣にするようにして付き合えばいい。その中で、猛獣が時に自分を守ってくれることもある。ただそれだけのことだ。もちろん、それで心を許せばすぐに噛み殺されるが。
「さてと、それじゃあ、明日から動くとするわ」
既に虎は支払いの準備をしていた。片手に財布を持っている。
「悪いな」
「別に。ちゃんと報酬はもらったわけだしな」
虎は受け取ったメモリーを取り出し、指先で少し振る。
「それでも、少し俺の方が得をしてるような気がするけど」
本心からすこし申し訳ない気がしていた夏彦が言うと、
「だったら」
ふと思いついたように虎は財布から紙片を取り出し、それを夏彦によこす。
「これだ」
「何だ、これ?」
受け取った夏彦はその紙片を見る。
それはメモ用紙だった。細かく雑な字で、何事か書かれている。
「明日の日付と、時間、それから場所が書いてあるだろ。俺からのお願いだ。この場所に顔を出してくれよ。これで、フェアな取引だ」
「分かった」
明らかに怪しいその申し出を、夏彦は二つ返事で引き受けた。サイダーを飲み干す。
「おいおい」
頼んできた虎の方が多少引いている。
「いいのかよ、そんな安請け合いして」
「いいよ。友達の頼みだろ?」
間髪いれずに夏彦がそう返すと、虎は目を丸くしてから、苦笑する。
「私が欲しかったものは、私の演算を超えるものだった。それこそが、神殺しを可能とする」
「まあ、そりゃそうだろうな。あんたの演算じゃあ、神様に追いつくことなんて不可能なんだろ?」
「そうだ。だから、私の演算を超えるものを、私の中に取り込まねばならない。そうでなければ、神には勝てない」
「神に勝つ……あんた、やっぱり病院行った方がいいな」
夏彦の暴言にも、男はぶれることなく、
「だが、世界中を探し回っても、私の演算を超え、なおかつ私が取り込めるものなど見つからなかった。だから、造ることにした」
「造る……」
「まずは、種を蒔く。そして、そこに水をやる。だが、いくらそれをしようとも、私の演算を超えることなどない。その種からどんな芽が出るかは決まりきっているからだ。花の種から、狼の芽が出ることはない」
「どんなたとえだよ、そりゃ」
「それならばどうする? やる水を変えるしかない。ただの水ではなく、劇薬を注いでやる。そうすれば、思いもやらないものが芽吹くかもしれない」
「それが、あんたにとっては学園だったってことか?」
「少し違う。種が優秀な学生、そして劇薬が闘争、そして限定能力だ。闘争は人の能力成長を加速させるが、それだけならば演算の範疇だ。だからそこに、限定能力という要素を加えた」
「加えた……? そんな簡単に、できるものなのか、あれが?」
素朴な疑問に、
「簡単ではない。だがそれでも、私の持っている力の一部、それを学園の領域に解放してやった。いや、少し違うか」
お前は知っているだろう、と男は言ってから、
「最初は私の持つ力をそのまま移植してやるつもりだったのだ。戦争を利用して。そしてその力で戦場という極限状態で争わせる。そのはずだった。だが、ようやく実現できたのは私のものとは程遠い、あらゆる意味で限定されたものだけだった。だが、仕方あるまい。だから次善の策として、それぞれの個性に合わせて、学園で闘争を行う者にその限定された力が植え付くようなシステムを作り上げた」
「それが、『限定能力』か」
「そうだ」
男は短く同意する。
「学園が六つの会に分かれて権力闘争しているのも、あんたのプログラムか? 学生運動の影響ってのは、後付のカバーストーリーか?」
「違う。私が手を加えたことは否定しないが、今の学園の形態はほぼ自然にできあがったものだ。当然だろう、私の思うように作り上げるなら、私の演算を超えることなど不可能だ」
「そりゃそうか。あんたは、自分ではどうしようもない相手を倒す為に学園を作ったんだもんな」
手を加えれば手を加えるほど、自分の演算どおりになるわけだ。
「そうだ。とはいえ、学園はかなり不安定だったので、当初はかなり私が調整したのも確かだ。外界とは隔絶され、内部で絶え間なく闘争が起こり、しかもその主役の大半は学生。私の演算を超える存在が産み出され易い環境を作るためとはいえ、いつ崩壊してもおかしくない舞台だった。だから、選別ついでに初期にかなり直接的に力を振るった。ああ、時々、あの8月を思い出す」
幾分不満そうに男は続ける。
夏彦は、虎のセリフを思い出していた。
こんなに簡単に崩壊しかける学園が、今までもってきたことの方が不思議だ、と。
そして、血染めの八月。間違いない。
この男は、御前の言っていた、あの。
「六つの会という形態をとって安定させた後も、もしものために私は理事長として行政会の王とならざるを得なかった。本来は、私は関わりたくなかったのだがな」
「……ようするに、この学園内で起こった闘争は全て、いや、外で起こった闘争も含めて、あんたの掌の上だったわけだ」
「違う。言っただろう、私がコントロールしては意味がないのだ。私が王となっている行政会は、結局のところ学園が適切に運営されるための潤滑油にして最終安全装置。その実働部隊が公安会。他の四つの会こそが本来の意味で闘争を行っていた」
「司法会、生徒会、風紀会、それに外務会か」
「そうだ。そして、それらの会の王も、今年は稀に見る傑物揃いだった。お前は既に会っているな。司法会の雲水、生徒会のコーカ、風紀会の瑠璃、そして外務会のクロイツ。彼らの誰しもが、学園を支配してもおかしくない力の持ち主だった。そして同時に、学園を崩壊させても、な」
「けど、あんたがそうはさせなかった。支配も、崩壊も」
「そうだ。それをしてしまえば、闘争が終わる。それでは意味がない」
「で、その王たちの中に、あんたの目当ては見つかったのか?」
夏彦は本題に軌道修正する。
「まさか。私が求めているのは、神殺しの鍵となるものだ。いくら人間にしては傑物であろうと、神の前では塵にすぎない」
断言する男の言葉に、夏彦はわずかに苛立ちを覚えた。
「はっ、そうか。ご苦労なことだな。戦後間もなく学園を作ってから、五十年以上経つってのに、あんたの目当ては見つからないわけだ」
あえて挑発的に吐いた夏彦の言葉に、
「なに、五十年など瞬く間だ。私は、既に百二十億年以上待っている」
ぞっとするような言葉を静かに放って、男は揺るぎもしなかった。
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