「どうかしたかい? どうして、立ち上がらない?」
動かない夏彦に対して、怪物は本当に、単に不思議そうに問いかけてきた。嘲るわけではなく、本当に、ただ遊びを突然止めた友達を訝しがるような調子だ。
「……動かないんだ、体が」
かろうじて、夏彦は受け答えすることができる。
夏彦の体はすでにぼろぼろで、そしてあまりの酷使のためか、それとも能力の過剰使用のためか、再生はほとんど止まっている。
そして、目鼻耳から流れる血は止まらない。
座り込んだまま、夏彦は震えながら顔だけを動かして、ようやく怪物を見上げている状態だ。
「なんだ、じゃあ、もう終わりか」
がっかりした顔をして、怪物は空を見上げる。
「もう明るいね。夜も分けたし、遊びが終わるのも仕方ないか」
「残念だったな、お前の能力が、目立つうちに終わらなくて」
言いながら、夏彦は震える腕を空中に差し伸ばす。
指先が『三千苦界』の範囲内に入る。
「ん?」
怪物が顔を戻し、空中に差し伸べられている手を見て驚く。
「どうしたの?」
「立ち上がらせてくれないか?」
あまりにも奇妙なその夏彦の発言に、怪物は少し驚いた顔をした後、
「もちろん、いいとも」
躊躇いなく、夏彦の手を握って、
「ほら」
夏彦を軽々と引っ張り起こす。
「……悪いな」
自分の足で立ち続けることは、今の夏彦にも可能だ。
多少よろめきながらも、夏彦は何とかバランスをとり、目鼻から血をこぼしながら礼を言う。
「なに、いいさ、これで最後だ」
にこやかに怪物が言うと同時に、彼が握っていた夏彦の腕が肘から千切れた。血が噴き出す。
「ああ、本当に駄目になってるんだね、こんなに簡単に千切れるなんて」
怪物は、そこら辺に夏彦の千切れた腕を投げ捨てる。
腕を千切れても、夏彦は苦痛の声をあげることすらしなかった。多少、よろめいただけだ。
「もう片方も」
そう怪物が言うと、千切れていない方の腕も、二の腕の辺りから捻じ切られれて、ぼとりと落ちる。
「再生もしない。やれやれ、どうやら、本当に君は終わりみたいだ」
「どうかな」
夏彦は、両手をなくしたことに頓着せず、そのまま怪物の顔面に頭突きを打ち込む。
その頭突きの軌道を逸らすこともかわすことも、そして防ぐことすらせず、怪物は受ける。鈍い音がするが、怪物は微動だにしない。怪物には、まったくダメージを受けた様子はない。
「悲しいな。まるで、普通の喧嘩自慢の頭突きだ。さっきまで、人間をやめていた君の攻撃とは思えない」
蹴り。
夏彦の両足がへし折られる。
せっかく立っていた夏彦は、その場にかくりと座りこむ。そのままうつぶせに怪物の足元に倒れるが、
「うつぶせはよくないな。最後の景色がアスファルトじゃあ、つまらないだろう?」
怪物に腹を蹴り上げられる。
血を吐きながら夏彦は空中に舞い上げられ、半回転してから今度はあおむけに地面に激突する。
「ぐ」
凄まじい衝撃だが、血と一緒に出るのは、小さなくぐもった声だけだ。
「さて、これでいいだろう? 最後に見るのが、青空。申し分ない」
夏彦の顔を怪物が覗き込んでくる。
「……ゆう……な」
血をこぼしながら、夏彦が呟く。
「ん?」
そのあまりにもか細い声を捉えることができず、怪物は普通に耳を近づける。
「余裕、だな」
かすれた弱弱しい声で、夏彦は確かにそう言う。
「一気に、殺すことだって、できたのに、こんな、じわじわと。悪趣味だし、余裕がある」
そこまで言って血で咳き込んで、なおも続ける。
「今だって、無防備に、俺に顔を近づけてる」
「ふっ、ふふ」
耐え切れないというように、怪物は噴き出す。
「だって、今の君に何ができるんだい? 僕の耳に噛み付きでもしてみる?」
「ああ、そんなことはしない」
「そうだろう? まあ、確かに、君をじわじわと苦しめたのは悪かったね。今、楽にしてあげるよ」
「いや、謝らなくていい」
不意に、夏彦の声が力を取り戻す。
「さっきから、お前が俺を一息に殺さなかったのは、余裕を見せているのは、お前のせいじゃあない。だから、謝らなくていい」
「……何?」
「『英雄賛歌』だ。そういう能力があってな、お前の不安をすっかり取り除いていたんだ。時間稼ぎには、効果覿面だ」
「――これはっ?」
怪物は目を見開いて身を引く。
夏彦の話を聞いているうちに、いつの間にか夏彦の両手両足が回復していることに気がついたからだ。
いや、正確には再生しきったわけではない。だが、少なくとも千切れたはずの両腕は元の位置にでくっついているし、あらぬ方向にへし折られたはずの両足も、正しい形になっている。
「よっ……いてて」
ぎこちないながらも、夏彦は自分の力で立ち上がる。
「どうだ、俺の万策尽きた、今にも死にそうな姿、なかなか真に迫ってただろ。当たり前だ、本当に万策尽きて死に掛けたんだから。けど、間に合った」
目鼻耳からの流血も、いつの間にか止まっている。
「何だ、何をした?」
「間に合ったんだよ」
「だから、何に間に合ったんだ?」
怪物の目は限界まで見開かれている。口の端はびくびくと痙攣していて、引きつった笑いを浮かべているようにも見える。
「確かに、お前の言うように、ついさっきまで俺は脳髄を限界以上に使用してた。脳みそが焼き切れそうだったよ。けどそれは、能力を同時に三つや四つ使ったからじゃあない。それくらいで駄目にはならないレベルには、俺は人間じゃあないらしい」
「夏彦君、君は、何をしたんだ」
「ん? ああ、まだ、見えないのか」
そうして夏彦はゆっくりと怪物に歩いて近づく。
「けど、ヒントは充分だろ。限定能力の同時使用以外に何をして俺がオーバーヒートしてたのか、どうして俺の両手両足が一瞬のうちにこんなレベルまで回復したのか。もう、答えみたいなもんだ」
そう言っている夏彦の、その首が捩れている。
「ぐ、あ」
「見せてくれ、君が何をできるのかを」
怪物は、もうはっきりと笑っている。おさえきれないように。
その怪物の能力によって、夏彦の首が捻じ切られ、頭が宙を舞う。
ほぼ同時に、怪物の首も同じように捻じ切られ、頭が宙に飛ぶ。
突然、同時に向かい合った二人の首が切れて頭が空中に放り上げられるという奇妙な光景。
「ははっ、はははははっ」
空中の怪物が、頭だけで狂ったように笑い出す。
次の瞬間、夏彦と怪物の頭は、それぞれ胴体に繋がっていた。早くも傷は回復し始めている。
「素晴らしい! ずっと、君は、僕の『三千苦界』を!」
「ようやく学習できた。なるほど、便利な能力だな。明るくて見えにくいのが残念だ」
怪物だけではなく、夏彦の周りにも、かすかに輝く空間が朝日に隠されながらも存在している。
「あははははははははっ、凄い、凄いぞっ」
笑いながら怪物が夏彦に飛び掛る。右腕を伸ばす。
その怪物の右腕が捩れていく。
「本家に通用すると思うかっ」
だが、その右腕の捩れはすぐに元に戻る。
「逆に捻じるか。なるほど、確かに、能力の力自体は当然ながらそっちが強い」
夏彦は最小限の動きでその右腕をかわして、カウンターの左拳を怪物の顔に叩き込む。
「ははっ」
それに直撃しながらも、怪物はびくともしない。
「僕の能力を盗んだとはいえ、再生能力も身体能力もがた落ちなのは相変わらずだね。君の身体が限界だということに違いはないらしい」
拳を顔に受けたまま、怪物はそう続ける。
「さて、お互い様だな」
だが、夏彦も冷静にそう返す。
「ん?」
「これでも修羅場は何度か潜っているし、そうでなくても勘はいいんだ。さっきの頭突きを喰らわせた時に大体分かった。いくら表面上は余裕を見せて取り繕っていても、そっちも中身はぐちゃぐちゃみたいだな。やっぱり、脳を『三千苦界』で無理矢理移動させたのが決定的だったか?」
「ふふ、もう、ばれていたか」
必死でこらえていたのか、怪物がその場でよろめく。
「いい拳だ。おまけにカウンターだしね、効いたよ」
「そう言ってもらって嬉しいよ」
既に、夏彦と怪物は至近距離にいる。
無言で数瞬、視線が絡んだ。
二人の拳が交差した。
クロスカウンターだ。
ほとんど同時にお互いの顔に炸裂したそれは、お互いを吹き飛ばす。
「ぐっ」
夏彦は一歩二歩たたらを踏むが、すぐに体勢を立て直す。
「お互いに今ので骨を折ることさえできないか。やっぱり、肉弾戦ではらちがあかないな」
一方の怪物は、よろめきながらそう言って、姿勢を直すよりも先に夏彦に向かって目を細めた。
「ぬっ」
みしみしと、夏彦の頭が軋む。
だが、
「無駄だ」
次の瞬間、夏彦の頭は解放され、足元のアスファルトの地面が突如として割ける。
「これは」
目を見開く怪物に、夏彦が踏み込む。
姿勢を直して一歩踏み出した夏彦と、よろめいたままの怪物。有利不利は比べるまでもない。
「ふっ」
全身を使うようにして繰り出した前蹴りが、怪物の胴体に刺さる。
「ぐうっ、あ」
いくらかの骨が折れる鈍い音を響かせて、怪物は後ろに吹き飛ぶ。
「ぬっ、う」
そして地面に倒れるが、即座に怪物は口の端に細く血を流しながら立ち上がる。
「今ので、ようやく骨が折れるくらいか。たまらないな」
ため息と共に夏彦が言うが、
「なあに、そんな捨てたものじゃないよ。万全の僕なら確かにこの程度のダメージ、瞬時に回復するけれど」
怪物は手で口の血を拭う。
「今の僕だと、完全回復に五分というところかな。充分、積み重ねれば殺せる」
「ふん」
「それよりも問題は、君の『三千苦界』の使い方だ。君の頭を破壊するつもりが、邪魔をされた。君よりも僕の能力の方が強いはずだ。なのに、何故?」
「単純だ。空間をコントロールするんだ、精密な調整が必要になる。ちょっとでもミスをすれば何が起こるかわからないだろ。俺は、真正面からお前の能力に能力で対抗するんじゃあなくて、干渉するようにしてやっただけだ」
「なるほど、つまり」
「ああ、もう、俺を能力で殺すことはできないってことだ。ただ、そっちにも朗報がある」
「へえ」
「俺は、お前がいつ『三千苦界』を使用しても対抗できるように準備をしていなければいけない。そうすると、その間、他の限定能力の使用は不可能らしい。ただでさえ、さっきの無茶で脳がぶっ壊れ気味なんだ、仕方ない」
「ふふん」
奇妙に、怪物は嬉しそうな顔をする。
「じゃあ、どうする? 二人とも、回復するまで、一旦日を置いてみるかい?」
「本気じゃないだろう? プーラナ・カッサバ」
そう言うと夏彦は左手を差し出した。
「何だい、その手は? また、引っ張って欲しいのかい?」
「いいや。ただ、握手して欲しいだけだ。そうして、お互いにその手を離さないようにしよう」
夏彦は歩み寄る。
「夜も明けた。人がこないうちに、さっさと済ませるためだ。手を離したら、そっちの負けってことでどうだ?」
「いいね、素晴らしい」
口は満面の笑みで、目は見開いてぎらぎらと輝いて、怪物も歩み寄る。
「お互い、能力は使えない、いや、使わないってことだね」
「そうだ。お互いの左手を握ったままでの、単純な至近距離からの肉弾戦。人間をやめた奴同士の決戦としては地味かもしれないけど」
「いや、いい、いいよ。素晴らしい」
そうして、怪物も左手を伸ばしてきた。
夏彦と怪物は、お互いの左手をしっかりと掴む。
「最高だ。君は、最高の、イレギュラーだ、夏彦君」
「嬉しくないよ。少しでもエリートに近づいたって言ってもらった方が嬉しかった」
呟いて、夏彦は右拳を構える。
怪物も右拳を構えた。
そうして、二人は睨み合う。
一瞬の間を置いてから、肉弾戦が始まる。
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