雨陰太郎は、意識的に自らを道具、あるいは機械にしようとしていた。
それが殺し屋として正しいあり方だと思っていたし、自分は生粋の殺し屋だと信じていた。
心を動かすことなく、逆に人の心を動かせるように。
強さを求めず、殺傷力だけを高めるように。
殺気を発さず、自らを殺し屋だと決して悟られないように。
彼は最強の殺し屋ではなく、最高の殺し屋となった。依頼されれば、どんな相手であろうと殺す。ただ、それだけに特化した道具。
そして己の殺し屋としての価値を高めるのが、学園に潜入しているという事実だった。学園内の人間を暗殺できるという希少性によってこそ、より殺し屋の高みに立てる。
だからこそ、ノブリス学園に潜入し続けるという難度の高い行為を彼はやってのけた。そして、そんな芸当は彼にしかできなかっただろう。
育ての親に拾われて以来、彼がそんなふうに一箇所にずっとと留まるのは初めてのことだった。ずっと同じ場所にいれば、危険も高まる。彼はそんな状況をずっと避け続けていた。
だからだろう。彼は初めて長く続く人間関係を持ち、それに愛着すら持った。
それでも、彼は生粋の殺し屋。
依頼達成のためにその愛着を持ったものを壊さなければならなくなれば、一切の迷いなくそれらを壊すだろう。
ただ、ひとつ雨陰太郎にとって誤算があったならば。
愛着の湧いた人間関係を壊し、それでも任務を遂行することに、果たしてどんな意味があるのかと考える時間ができたことだ。
もちろん、意味などない。自分がそういうふうに生まれた、純然たる殺し屋、道具、機械だからにすぎないとは分かっている。それでも、空いた時間にふと考えてしまうのは止められない。
それが無意味だとは知っていても、してしまう。それは彼の知る限り人間的な行為で、そんなことをしている以上、自分が人に近づいてしまっているのかもしれないと思っている。
だが、それを踏み越えて、人に近づきながらも殺し屋として成長できれば。己の人間性すらも任務達成のための武器とすることができれば、自分はより殺し屋として完成する。
そんな、倒錯した期待と喜びを密かに抱いているところが、雨陰太郎が生粋の殺し屋である証拠でもあるが。
会議室を出れば、既に辺りは薄暗く、そのことに夏彦は少し驚いた。
まだ少し胡蝶は顔色が悪いが、一人でさっさと司法会本部に向かおうとする彼女を気遣う声をかけることを夏彦はしなかった。
それをすれば、逆に惨めな気持ちになることくらい予想できるからだ。限定能力を使うまでもなく。
きっと、これから胡蝶はライドウにこの会議のことを報告に行くのだろう。何を思って報告に向かうのか、それを聞いたライドウの心に去来するものが何か、夏彦には想像もできなかった。
ともかく、胡蝶が去っていくのを見送ることしかできなかった。
「さて」
どうするかな、と校舎を出た夏彦はとりあえず考えを整理するのもあって、自動販売機で缶コーヒーを購入する。その場で夜の色に染まりつつある空を見上げながら、缶コーヒーを開ける。
「このまま帰って仕事するかな」
選挙関係で、色々と仕事は有り余っている。
コーヒーを一口、夏彦はぼんやりと考える。
結局、俺が企んださっきの会議の結果、よく分からなかったな。だがまあ、とりあえずあの仮説が当たっているなら、襲撃の責任を負うべきはクロイツか。
夏彦の頭に、頭を打ち抜かれたレッドの姿、死屍累々の屋上、路地裏で死んでいく男の顔がフラッシュバックする。
「うわっ」
べこり、と音がして夏彦は驚く。
何の音かと手元を見れば、無意識に力が入ってしまった手に握り締められ、缶がへこんでいる。
いけないいけない。
反省して、夏彦は深呼吸をひとつ。
別のことを考えるか。冷静にならないと。
他のことと言えば、そうだな、やっぱり雨陰太郎のことか。結局、署名については何も分からなかった。
こういう時は、発想を変えるのが吉だろうな。
例えば、雨陰太郎の視点に立って考えるとか。
自分が雨陰太郎だとしたら、今回のことはどうなるだろうか。
夏彦はコーヒーをもう一口、考えに没頭する。
あの仮定の通り、生徒会副会長にコーカの殺害を依頼されたとして。
自分なら諦めちゃうな、実際。どう考えても、あんな男を相手に殺すことなんてできないだろう。うちの学園にいる化け物じみたエリートたちの中でも、最高クラスの一人だ。依頼されても、手を出しあぐねて時間だけが過ぎていくだろう。
そしてそんな中、自分の噂が流れるわけだ。
かなりびびるな、自分だったら。バレちゃったと思って逃げるかもしれない。
それ以外にも、外務会の取引に雨陰太郎が関与する可能性があるなんて噂も流れた。そのせいで襲撃に巻き込まれたわけだけど。
自分がもしも雨陰太郎だったら、そっちの噂も相当に気になるな。
多分、元々外の組織は雨陰太郎のお得意様だったはずだ。そのお得意様と外務会が何やら取引して、そしてそこに自分が介入するかもしれないなんて噂が流れる。気になって仕方がない。
考えていて、夏彦は想像ながら少しだけ雨陰太郎が気の毒になってくる。
自分だったら心配事は多すぎるし、依頼された仕事は無理すぎるしで、ストレスで憤死してるかもしれない。
その時、携帯電話が鳴り出す。
着信を見れば、虎だ。
そういえばあいつも雨陰太郎について調べていたんだったな、と夏彦は思い出す。
「もしもし、どうした?」
「よう、お疲れか? 面白そうなことしたらしいな」
電話口から、虎の笑いの気配が伝わってくる。
「VIPだけを集めて、秘密の会合開いたんだろ?」
「微妙に違う。けど、さすがだな、虎。耳が早い」
「ははっ、うちの学園長も参加したらしいからな、耳には入るぜ」
「で、そっちで何かあったのか? そっちも雨陰太郎を調べてたんだよな?」
「おお、そうだけどよ、とりあえずこっちの発表の前にそっちの会合の結果どうなったのか教えてくれよ」
「こっちの話か」
どこまで話していいものか判断できなかったので、夏彦はとりあえず雨陰太郎に関係している部分だけ話すことにした。どうせそっちに関しては全部仮説にすぎない。
「――という感じかな。結局、確かなことは何も分からなかった」
「ふうん、そっかよ」
思ったより面白い情報ではなかったのか、虎は詰まらなそうだ。
「で、そっちは?」
「ま、こっちも大した情報じゃねえな。雨陰太郎の噂、その出所についてだ」
「出所? そんなもの、突き止められるのか?」
都市伝説における友達の友達みたいなもんじゃないのか、と夏彦は思っていた。
「例の、副会長が選挙中に雨陰太郎を雇ったって噂だ。あれは、選挙中って期間が限られてたから、噂の出所を見つけるのは簡単だったぜ」
「なるほどな。それで、どうだった?」
「いや、結構オーソドックスな出所だったぜ。選挙直前に、新聞部に投書があったんだ。告発文だな。副会長が雨陰太郎を雇ったって内容の」
「その投書が学内新聞に載ったってことか?」
「まさか」
馬鹿にするように虎は息を漏らす。
「当然、相手にされなかった。けど、部内では話題になって、そこから漏れて噂になったわけだ。後、それと同じタイミングで学内ネットの掲示板にも同様の内容がいくつも貼られたみたいだ。そっちも、悪質で低レベルなネガティブキャンペーンってことで一笑に付されたようだけどどよ」
「貼った奴が生徒会長側の工作員認定されたりしたのか?」
「ま、そんなとこだな。悪いな、大した情報じゃなくてよ」
「それはお互い様だ。じゃあな」
電話を切って、夏彦はふと疑問に思う。
さっきの虎からの情報を考えるに、噂が事実で、自然発生的に生まれたというのは間違いだったわけだな。噂は明らかに人為的にばら撒かれたわけだ。しかも、結構稚拙な方法で。
どう考えればいい?
何かが、夏彦の頭に引っかかる。
何だ?
必死で自分の頭の中を探る。何か、何かが引っかかる。『最良選択』が発動し、一気にこれまでの事柄が頭の中に溢れる。
生徒会副会長。噂。雨陰太郎。名前。死んでいった外の組織の男。外の襲撃。バス。署名。クロイツ。幻の事件。テキスト。作られた噂。自分が、雨陰太郎だったらどう考えたのかのシミュレート。
夏彦の脳内で、いくつかの要素が有機的に繋がって、ぼんやりとした像を結ぶ。
雨陰太郎。偽名は簡単に作り出す。英訳したり、ひっくり返したり。
「――まさか」
それは、何の根拠もない、想像上のストーリーに過ぎなかった。
だが、そのストーリーを無視するべきではないと、夏彦の勘が叫んでいた。
どうすればいい?
慌てて携帯電話を取り出し、目的の相手にコールするが、全く出ない。出きる気がないのか、それとも、出れない状況なのか。
「くそっ」
悪態をついて、夏彦は駆け出す。
とにかく、心当たりの場所を虱潰しにするしかない。個人的に会って確かめないと。まだ、人や組織を使って大袈裟にするようなことはできない。今のところ、単なる妄想に過ぎないのだから。
「携帯、鳴っているが、いいのか?」
風紀会本部の向かいにある多目的室。暗い室内で、レインがそう訊く。
「ええ、後でかけなおします。こちらの用件はすぐに済むので」
答えるコーカはレインと対面している。その横には月も控えていた。
「それで、貴兄の用とは何だ?」
「ああ、それですけど、レイン副会長」
コーカは一歩前に出た。レインとの距離が縮まって、一メートル程度になる。
「雨陰太郎は、あなたでしょう?」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!