伯爵については、ほとんど何も知らない。
そう、老人は言う。
「知っているのは、当時のこの国のトップ数人だけなのだろう。貴族院議員の父ですら、ほとんど何も知ることができなかったらしい。ともかく、その男が、日本を勝たせた……ある条件と引き換えにな」
老人は自らの両目を枝のように細い指で撫でるようにして、
「きっとその男は、未来が分かっていたのだろう。形だけ戦争に勝とうと、財閥を初めとする、旧い支配構造が破壊されることを。そして、その破壊される前に全ての資産を……そう、資産だ、資金だけではなく、人材、情報、技術、その全てだ。その全てをつぎ込んで――学園をつくりあげる。それと引き換えに、男は協力した。どうせ失われるならつぎ込んでも惜しくない。国の重鎮たちはその条件を呑んだ」
「それが、ノブリス学園ということですか。その伯爵とやらは、未来が分かっていたなら、つまりそうやって学園をつくりだして、その学園が国を支配することも読んでいた。つまり、その取引で、いずれ将来的に国を支配する立場になることを目論んでいた、ということですね」
ある程度の確信を持って夏彦は言うが、
「違う」
あっさりと老人は否定する。
「考えてもみるがいい。天候を操作して戦争に勝たせるほどの力があるのならば――そう、力だ。その力があれば、そんなことをせずとも国を支配できた。いや、元々それに近い立場にあったのではないか。今では、そう思っている」
「じゃあ、何のためにこの学園をつくったんだよ?」
虎がじれったそうに訊くと、
「力だ。さっきも言ったが、伯爵には……力があったという。それも……技術力や資金力ではなく……神通力が」
「はあ? じゃあ、なにか、ひいじいちゃんは、その伯爵とやらが天候を操ったのは、そいつの持っている神通力で直接本当にハリケーンを起こしたりしたっていうのかよ。あのな、そんな馬鹿な話が――」
だが、気づいて虎は言葉を途中で一度止めて、
「――ああ、今、俺たちは限定能力なんてけったいなものを使ってるのか。いや、けどよ、それにしたって能力のスケールが全然違うぜ」
「そうだ。それこそが、悲劇だ」
「あ? いや、ともかく、何のために学園をつくったのかってのを説明してくれよ。話がずれてるぜ」
「ずれていないさ。伯爵には神通力があった。一度だけ、父は目の前でそれが使われるところを見たそうだ。父の感想は、あれはまさしく神の如き力。万能の力だと。そして、伯爵の取引は、当初は学園をつくるというものではなかったそうだ。いや、取引というのとも違う……そう、そもそも戦争に勝つための手段は、天候操作などではなかった」
最良選択が発動したのか、それとも今までの話を無意識に論理的に組み立てた末なのか、ともかく、夏彦の頭には唐突に推論が浮かぶ。
「神通力とやらを使える人間が増えればいい。そうして、彼らが戦えば戦争に勝てる」
ほとんど呟いたような夏彦の推論に、老人は頷いて同意する。
「そうだ。当初の予定は……そうだったらしい。そして」
咳き込んでから、
「それは失敗した。真の万能の力などではなかったということだ。他の人間にも、同じ力を使わせることは、できなかった。実験で大勢の人間が死んで、その計画は取りやめになった。一定の成果はでた、が」
「……一定の成果というのは?」
さっきから、嫌な予感が夏彦はしている。何か、聞けばこれまで自分の信じていたものががらがらと崩れるような。
「ここからは……更に曖昧な話になる。父も、技術的な話には明るくないからな。当時の最先端の技術と、戦時中という倫理の壁を取り払ってしまった状況、そして万能の力とやら、その全てを最大限利用して、実験は行われた。力の因子のようなものを実験体に植え付けたんだそうだ。だが、さっき言ったようにそれが力として発現するまでに実験体の多くは死んだ。死ななかったのは、若者だ。それも……まだ成長途中の若者」
それでも、力の発現にまではなかなか至らなかったそうだ、と老人は言う。
「実験の繰り返しの中で、試行錯誤の末にようやく数人は発現まで至ったが、それでも発現したのは万能の力とは程遠い、ちょっとした余興にしか使えないような小さな力。おまけに、伯爵から一定以上離れればそのささやかな能力すら消えてしまうということが分かった。つまり、伯爵が国内にいながら最前線でその能力を振るうということすら、不可能だった。能力値自体も、その用途も、そして使用可能距離までも限定されてしまった、万能の力とは程遠いその力を実験では――『限定能力』と呼称していたそうだ」
「おい、それって――」
虎がさすがに顔をこわばらせる。
「御前」
夏彦はゆっくりと声を出す。
「ノブリス学園は、その続きだと?」
「だろうな」
突如として、老人の顔に生気が宿る。目はぎらぎらとしたものになり、口調すらも乱暴なものに変わる。
「そして、私はそれを知っていたんだよ。父から聞かされてな。実験のために学園をつくる。大変結構だ。その学園でトップをとりゃあ国のトップも狙える。だから俺は父の伝手を使って、学園に入って、あの八月を生き延びて初代の生徒会長として学園を卒業した。総理大臣だってやった。学園の理事にまでなったんだ」
だが違う、と老人は目を光らせながら言う。もがきながら、上半身を起こそうとする。
「私の、俺の、本当の望みは、目的は、その実験の成功例になることだった。万能の力とやらを得ることだったんだ。だが、おのれ、国の、学園の、上の上にまで昇ろうとして、昇って、それでもその力は手に入らなかった。畜生が」
そこで、突然力が切れたかのように老人はふっと動きを止めて、また上半身を力なくベッドに寝かせる。
表情も、口調も元のものに戻る。
「それでもいつかは、と思っていたが、どうやら時間切れだ。私は、伯爵と同等の存在には、なれなかった」
「け、けどよ、俺たち、別に何か実験に参加した覚えなんかないぜ。一体、どうして限定能力なんて――」
虎は同意を求めるように夏彦に目を向ける。
「入学時の健康診断とかかも。そうじゃなくても学食で食事とか良くしてるし――というか、学園だけじゃなくてノブリスという街自体が実験場なら、どこでその因子っていうのを受け付けられたとしても不思議はない」
夏彦はため息と共にそう言うしかない。
「うむ。それに、学園の持つ技術は最先端だ。現代の最先端の技術ならば……あれだ、ほら……ああ、ナノマシン、か」
それに同意した老人は頷いて、途中言葉を探しながら、
「そう、ナノマシンのようなものがこの街中に散布されていて、それによって因子を植え付けられているのかもしれない……まあ、どうでもいいことだ。ともかく、学園、そしてこの街は大きな実験場で、私もお前らもその実験体に過ぎない」
「この学園で、常に会同士が争い、会の中でも出世争いをしている。この虎だってそうですし、俺も今まで死にかけながらずっとやってきた。そして命を落とした者もいる。それも、全て? 全て実験だったというんですか?」
否定してほしくてそう言う夏彦に対して、
「争うことによって、実験体の持つ限定能力が強化され、進化することを期待してのことだろう。この街はな」
どろりとした、死人のような老人の目。
「全てはその実験のための、箱庭なんだよ」
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