動くのは何だ?
夏彦は必死で自らの体を探る。
だが、もう指先さえ動きそうにない。それどころか意識を繋ぐのに必死だ。
喋れるか?
「あ……」
喋れる。口はちゃんと動くし、声も出る。
「終わりだ、死ね」
夏彦に乗っている虎は拳を振り上げる。
ああ、このままでは死ぬ。
夏彦は、諦めそうになる。
体はもう動きそうにない。意識すら、どの程度もつか分からない。そして、マウントポジションをとられて、今にも攻撃されようとしている。
希望の持ちようがない。
諦めていいのか、と内なる声が言う。
それは自分の声のようでもあり、律子の声のようでもあり、タッカーの声のようでもあり、そして目の前にいる虎の声のようでもあった。
夏彦は『最良選択』を全力にして、生き残る道を必死で模索する。
足掻く。困難がある時、諦めるのはエリートのすることじゃあない、そうだろ?
内なる声にそう応えて、夏彦は沸騰しそうな脳髄を酷使して、道を探す。
どうやったら勝てる? 体は動かない。口で時間を稼ぐか? いや、これ以上時間をかければ命取りだと虎は分かっている。こちらの時間稼ぎに付き合うはずがない。
どうする? どうすればいい?
そして、拳が振り下ろされようとする。
その寸前。
「やめろ」
かすれてはいるが、しっかりと夏彦は声を出す。出せる。
「もう、お前の負けだ」
「何?」
拳が、途中で止まる。
怪訝な顔をした虎が、夏彦の腹の底を覗き込むような目をする。
負けるな。
夏彦は自分に言い聞かせる。
腹の中を読み切られたら終わりだ。自信を持て、ふてぶてしくいろ。
「呼び声が聞こえなかったのか、もう律子さんと秋山さんが目を覚ました。俺を探している」
むろん、はったりだった。
夏彦を探している声など聞こえない。
「……ちっ」
だが、虎は忌々しそうに舌打ちする。
さっきまでこの廃工場では激しい殺し合いが繰り広げられていた。本当に二人が目を覚まして夏彦を探している声がしているのに虎がそれに気がつかなかったとしても、おかしなことではない。
虎は、疑心暗鬼に陥っている。
「どうする? 俺を今殺しても、その後すぐにあの二人に見つかるぞ。偽装工作の暇もなく、な。その状態でも、嘘で切り抜けられると思ってるのか?」
今、耳を澄まされたらすぐに嘘だとばれてしまう。
夏彦はとにかく静かにならないようにと喋り続ける。
「ははっ」
虎は余裕を幾分かなくしつつも、それでも笑う。
「お前、それで生き延びられると思ってるのか? それ、二択になってねえぜ。お前を殺したら言い逃れできないっつうけどよ、だからってお前を生かしたら俺が生き延びれるわけじゃねえだろ」
どちらに転んでも後がないなら、殺したら後がないぞと脅すことに意味はない。
そうだ、その通りだ。
夏彦は内心で虎の言葉を肯定する。
いくら考えても、直感に頼っても、勝つ道は見つからなかった。
「じゃあな」
虎が再び拳を振り上げる。
そうだ、勝つ道はない。
夏彦はそう思いながら振り上げられた拳を眺める。
勝つ道はない。だから。
「協力しよう。お前を、生き延びさせてやる」
ここは負けてやる。
負けても、生き延びてやる。
それが夏彦が見出した唯一の道だ。
「……ああん?」
意外な言葉だったらしく、虎は動きを止め、目を丸くする。
「……本気か?」
「ああ」
夏彦は、消えかける意識を保とうと必死で息を吸って、吐く。
「……この状況、とりあえず何とか切り抜けるための嘘を作れよ。得意なんだろ? 俺が、その嘘に乗ってやる。俺は、巻き込まれたことにでもしれくれ……ああ、あと、当然だけどお前にも身を切ってもらう。破滅しない程度の弱みをよこせ。破滅は免れるが、学園長を納得させることができる程度の弱みだ。俺が話をつけてやる」
「はっ……」
唖然としていた虎の顔に笑みが浮かぶ。その笑みが何を意味しているのかは分からない。夏彦の案に同意する方向の笑みか、それとも否定する方向の嘲笑か。
ただ、続きを促すように虎は黙っている。
「それと、この後は大人しくしろよ。それなりの弱みを握らせて、お前が大人しくなれば、学園長も納得するだろ」
「……おいおい、いい加減にしろよ」
虎が、ようやく口を開く。
愉しげな顔と、それに不釣合いな凶暴な目。
「それ、俺が信じるとでも思ってんのか? ここで死にたくないお前の妄言だろ。助かった後で、俺を売らないって証拠がどこにある?」
その反応は夏彦の想定内だ。
「証拠はないが、それをやるメリットが俺にはある。虎、ここで死んでる連中以外にもお前が弱みを握ってる奴らがいるだろ、そいつらの素性とその弱みを教えろ。まだある。お前はどうせもう派手に動けないんだ。脅迫で作った金もくれよ」
「てめぇ……」
あまりの発言に虎の顔から笑みが消え、目が吊り上がる。
「俺に奴隷にでもなれってのか?」
「ああ」
無茶苦茶な要求だ。
夏彦にもそれは分かっている。
だからこそ。
「それをしてくれるなら、俺にもお前を生かすメリットがあるってことだ。信憑性出てきただろ? ああ、あと外の組織から知った学園の情報も当然、教えてくれよ」
いけしゃあしゃあと、更に夏彦は要求する。
こんな要求を呑ませようとするくらいに、本気で虎を生かそうとしているのだとアピールする。耳障りのいいことを言ってこの場を切り抜けようとしているのではなく、本気なのだと。
「そもそも、論外だぜ。それをやったって、お前が情報と金を手に入れた後で俺を裏切らねえ保証がねぇだろ」
目を吊り上げたまま、喉で唸るような声で虎が言う。
「それこそ論外だ。お前は、いきなり何の保険もなく俺に全ての情報と金を渡すようなタマか?」
視線が絡む。
虎の吊り上った目の奥底に、面白がっているような光があるのを夏彦は見つける。
「……お前が生殺与奪の権を握ってる以上、俺に何かできるとは思えねぇけどな」
「どうかな? お前なら、なるべく情報や金を渡すのを引き伸ばしながら、逆にこっちの弱みを握るくらいするんじゃあないか?」
「――ははっ」
耐えきれない、とでも言うように、突如として虎の顔が崩れる。
この場に似つかわしくない屈託のない笑顔が現れる。
「いやあ、あれだな、やっぱり面白ぇな、夏彦。ずっとこうやって、お前と遊んでみたかったぜ」
そのセリフに思わず呆れて、
「遊びか、これが? 見ろよ、死と血が充満してる」
「別に誰か死んだり血が流れる遊びなんて珍しくもねぇだろ。猛獣同士がじゃれ合うんだ」
「俺を猛獣にするな」
「ははっ、大倉さんを殺しといて猛獣扱いするなっていうのは、通らないぜ」
虎は、夏彦の上からどく。
「……交渉成立と、考えていいか?」
安堵のあまり気を失いそうになるのを、唇を噛んで踏みとどまりつつ夏彦は言う。
「ああ、いいぜ。時間もないしな」
何のことだ、と夏彦が訊こうとしたところで、
「な、ウグッ、ヒック、な、なつひ、夏彦くぅん……」
「おーい、夏彦、どこっすかー? ……あ、あれ、壁崩れてるっすよ、律子、ほら、泣いてないで、あっちじゃないっすか?」
夏彦を捜しているらしい律子と秋山の声が聞こえてくる。律子は完全に鳴き声だ。
「……嘘から出た、真だな」
思わず夏彦が呟くと、
「何だ、やっぱり呼び声は嘘だったのかよ」
悔しそうに虎は地団駄を踏みつつ、夏彦を悔しそうに見る。
まるで子どもだな。
その虎の様子がおかしくて、夏彦は噴き出す。
「なづひごぐぅん……どごぉ……」
「こっちかなあ、うわ、更に壁が壊れてるっすね……大倉くんに殺されちゃったかなあ……ああ、律子、冗談、冗談だから!」
二人の声は近づいてくる。
「うわっ、何だよこりゃ、こっちの廃工場死体だらけ……あっ、大倉君も死んでる! 律子、本部に連絡するっすよ、って……ああ! な、夏彦君が死んでる!!」
「みぎゃあああああああああん!」
律子が泣き喚いている。
生きてるよ、今のところ一応。
もう声を出すのもつらくなった夏彦はそう思いながら、意識を手放す。
「あっ、だ、誰っすか! ……って、え? 虎?」
「よう、秋山さん」
「みぎゃあああああああああん!」
後のことはこの三人……一人は使い物にならないから、二人か、彼らに任せよう。
夏彦の意識は薄れていく。
うまくやってくれよ、虎。せっかく交渉したんだからな。
そうエールを送って、夏彦の意識は闇に落ちる。
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