夏彦は、防御と回避に徹する。
「がああぁっ」
吼えて殴りかかってくる大倉の攻撃を、五感に加えて第六感まで全力で集中し、夏彦は防ぐ。
大倉の攻撃は避けられない。だから、せめて防御する。
やはり、ダメージがある。
夏彦は攻撃を受けながら分析する。
本来なら、攻撃を食らって防御ごと吹き飛んでいる。
あの二人と戦って、ダメージが皆無なわけがない。ダメージが、攻撃の速度と威力を殺している。もっとも、まともに動いている時点でおかしいんだが。
「かかっ!」
「ぬぅ」
蹴りで、ガードを弾き飛ばされそうになって、夏彦は思わず呻く。
多少威力や速度が落ちたといっても、充分に必殺の域。
おまけに。
「くくっ」
笑いながらの大倉の一撃を、今度は避けきれずに夏彦は肩で受ける。
「があっ!」
そのまま肩が吹き飛んでしまうかのような衝撃。
短時間の間に、威力や速度が急激に戻ってきている。このままじゃあ、すぐに全快の状態に戻ってしまう。
それでも、全力でかわし、防御する。
最低限、致命傷だけは受けないようにしながら、工場内を飛び回る。
「くく」
笑いながら暴力を振るう大倉。
夏彦がほぼ全身を打たれ、大倉の攻撃が威力速度をほとんど取り戻した時。
「時間切れだ、弾けろ」
大倉はそう言って、それまでとは明らかに違う、全身全力で夏彦に飛び込んできた。
その勢いを利用するように、全身全力で拳を振るう。
ダメージのない時に大倉が多用していた、全身の力を使う攻撃。単純なのに、何故か避けることができない攻撃だ。
「終わりだ」
大倉の顔にあるのは自信。
「――ようやくか」
そして、全身を痛ませながらも夏彦の顔にも自信がある。
位置もばっちりだ。
夏彦が、横に跳ぶ。全力での跳躍。次の一手のことなど考えもしない、全てをこの一撃をかわすことにかけた跳躍。
ゆえに、これまで避けられなかった大倉の全力の攻撃を避けられる。
だがそれに何の意味があるのか。
全てを捨てた逃げの一手。
大倉はその跳躍する夏彦の姿を見て憫笑する。
もう、夏彦は次の攻撃をかわせない。体勢もめちゃくちゃだ。この攻撃をかわそうとも、二撃目で確実に葬れる。
「がっ!?」
がぎり、と。
逃げていく夏彦に意識を割いていた大倉の腕に、重い衝撃が伝わる。
ドラム缶。
夏彦がさっきまでいた場所には、多数のドラム缶が置かれていた。夏彦は、ドラム缶を背にして、横に跳躍したのだ。
全力を振り絞った大倉の右拳は、ドラム缶に突き刺さる。
その金属製のドラム缶にはほとんど満杯に中身が入っていた。おそらく、重量は優に二百キロを超える。
そこに、全速全力で、体ごとぶつけるような凄まじい拳による一撃を打ち込んだ。通常ならば、拳は砕け、腕も折れ、肩は外れる。
まるで大型車同士が衝突したような音を立てて、大倉の拳がドラム缶にめり込む。
成功した、と夏彦は飛んだ勢いをごろごろと転がって殺しながら思う。
賭けに勝った。
だが。
「舐める、な!」
大倉の気合と共に、ドラム缶は衝撃で変形しながら、宙を舞う。大倉が、二百キロを超えるドラム缶を、拳で打ち抜き空中に打ち上げたのだ。
ドラム缶はひしゃげ、天蓋が外れて中身の液体を撒き散らせながら床に落下する。
「もう、同じ手は食わねぇからな……」
憤怒の表情で夏彦に向き直る大倉。
夏彦は既に大倉に向けて構えなおしている。
だがその顔には、驚愕が張り付いて消えない。
大倉の右拳も、右腕も、傷一つついていない。
それでも内部的に、骨や腱がいかれてるんじゃあないか、という夏彦の希望的観測は、
「いくぞ」
大倉が右腕をぐるぐると回したことによって、消滅する。
あんな重量のものを全力で殴って、その反動で壊れることがないのか。
化け物だ。
夏彦は唾を飲んだ。
そうしてまた全力で突っ込んでくる大倉を見て、
「それでも、俺の勝ちだな」
夏彦は呟く。
「――あ?」
凄まじい勢いの大倉が、夏彦の目前、拳が届く寸前でバランスを崩し、よろめく。
「なん……だ?」
体勢を立て直そうとする大倉だが、足がすべり、とうとうそのまま勢いよく地面に激突する。
「かっ……」
自分の全力がそのまま自分の体に激突したような状況だ。
大倉は息を吐き出し、体を痙攣させる。
だがすぐに体を起こし、再び夏彦に飛びかかろうとする。
「ぐ、あ?」
うまくいかない。
産まれたての小鹿のように、震えながら体を起こそうとして何度も転ぶ。
「……これは」
そうして、大倉はようやく自分の体にまとわりついたもの、そして今や工場内中央の床に広がっているものに気がつく。
「油?」
「廃油の一種みたいだな」
大倉の疑問の声に、夏彦が落ち着いた声で答える。
凄まじい大倉の一撃で宙に舞い上げられたドラム缶、そこから辺りにぶちまけられた中身は、工場の床、大倉、そして夏彦の体に降り注いでいる。
廃油の一種。夏彦がそう推測したように、その液体はどろどろとして、特に床に広がった油はタイルの摩擦係数を著しく減少させていた。
「中身が入ってるのは、最初にあんたの前に出て行く時に確認してた。まあ、叩いただけだけどな」
夏彦は自分の頭に人差し指を押し当てる。
「あとはここ。勘で、中身が油、少なくともそれに順ずるものだって気がした。大当たりだな、俺は勘が鋭いんだ」
「てめぇ!」
激昂した大倉が夏彦に掴みかかろうと踏み出して、また体勢を崩す。
対する夏彦は、ゆっくりと慎重に、姿勢を崩さず大倉に歩み寄っていく。
「普通に戦ったんじゃあ、俺は勝てない。身体能力はもちろん、技術も、勘も、戦闘に関してはそっちが数段上だ。当たり前だよな、経験値が違う。潜った修羅場の数が違う。けど」
大倉の怒りを誘うように、あえて夏彦は余裕を持った笑いをして見下す。
「この状況は初めてだろ? まともに歩くことすら難しいようなこの状況。俺も初めてだ。ここなら、経験値は同等」
また一歩、体をぶらすことなく夏彦は進む。
「そして、体を動かす基本ができてることについては、俺は学園長のお墨付きだ。つまり、俺の方が自由に動ける。いや、もったいぶった言い方はやめるか」
夏彦はにやりと笑みを濃くする。
「これなら、俺の方が強い」
「ほざくなガキがぁ!」
耐え切れなかったのか、大倉が夏彦に飛び掛る。
かかった。
夏彦は、慎重に体を少しだけずらす。
それだけで、すぐにバランスを崩した大倉の拳は夏彦にもう届かない。
「あああっ」
しかし、大倉は暴力の天才。
バランスを崩しながらも体を捻り、無理矢理に夏彦に拳を当ててくる。
「うっ、お」
漫画的とも言える大倉の動きに夏彦は驚嘆する。
だが大倉も夏彦も、体が油に塗れている。
中途半端な当たり方をした大蔵の拳は、ぬるりと夏彦の体をすべる。
「ぐっ」
それでも、なおも威力がある大倉の攻撃の恐ろしさ。
夏彦は呻き、一歩後ろに下がる。
同時に、夏彦はバランスを崩した大倉の、攻撃の勢いのままに頭が倒れこもうとする位置に自らの拳を置いた。
殴るというよりは、拳に向こうの頭が激突するのを待つ感覚だ。
ごきり、と大倉は頭を夏彦の拳に打ち付ける。
だがやはり、その攻撃もお互いの体が油に塗れているためにずるりとすべる。クリーンヒットはしない。
「このっ」
今度は大倉は夏彦に掴みかかってくる。そのまま腕への関節技に移行。
「ふっ」
だが夏彦が少し力を入れて振り払おうとするだけで、大倉が掴んでいた腕は油のおかげでするりと抜ける。
その隙を突くようにして夏彦は顎に掌底。
これもすべってしまったが、それでもダメージはあったようで大倉は一歩下がる。
お互いに決定打を欠く戦い。
夏彦と大倉は油に塗れ、何度も床に転んで更に体は油塗れになる。
その状態で、殴り、蹴り、掴み、それを抜け。
ダメージを蓄積させ、血を流しながらも相手を打ち倒せず、戦い続ける。
たかだが数十秒だと思うが、数時間にも思える、苦痛の時間。
「くそっ、がぁっ」
その時は唐突に来る。
夏彦がずっと、耐え続けながら待ち望んだ瞬間。
大倉が床を滑って転び、仰向けになった大倉の頭がちょうど夏彦の足元にくる。
この時を、ずっと待っていた。
夏彦は瞬時に呼吸を整え、すっと腰を落とす。
「終わりだ、大倉」
そして夏彦はゆっくりと手のひらを、大倉の額に押し付けるようにする。
これなら、滑ることはない。
「何の」
何のつもりだ、と大倉は訊きたかったのだろう。
攻撃とは思えない動作だ。そう疑問に思うのは無理もない。
だが大倉が言い終わるよりも前に、夏彦は動く。
これは学園長から学んできたのとは少々状況が違う、応用編だ。
だが、自分ならできるはずだ。
確信を胸に、『最良選択』で強化された勘で、これまでの経験から最良の動きを、重心移動を、身体の内部操作を、そして呼吸法を引き出す。
寸勁。
叩くというよりも押すイメージで、それを上から下に向けて、大倉の額に叩き込む。
これなら、滑らない。
これ自体に威力はほぼない。
だが。
「がっ!?」
寸勁によって、大倉の後頭部が床に打ち付けられる。
「コンクリート製の床……充分な凶器だろ」
夏彦は言う。
地面を利用しろ、と学園長の声が聞こえた気がする。
「でめえあ!」
恐るべきことにまだ意識がある。喚きながら、大倉は体をよじって逃げようと、そして腕を払いのけて額に押し付けられている手のひらを外そうとする。
だが額を押されてうまく逃げ出せず、腕を払いのけようにも油で滑ってしまう。
「なるべく死ぬなよ」
声をかけてから、夏彦は一気に連続して攻撃する。
寸勁。
寸勁。
寸勁。
その度に大倉の後頭部は鈍い音を立てて床に打ち付けられ。
そして。
「がっ……」
大倉の後頭部にあたったタイルが砕け散るのと、大倉が体をびくりと痙攣させ、そして白目を剥くのがほぼ同時だった。
「は、あ……」
息を吐きながら、大倉の全身からは力が抜けていき、やがてだらりと床に倒れて動かなくなる。
「……ふう」
油と汗、そして血にまみれた夏彦は、ゆっくりと立ち上がる。
「疲れた」
座り込みたいのを我慢して、夏彦は大倉から離れて工場のトタン壁にもたれる。
さて、どうするか? 悪いけど律子さんや秋山さんには少しの間まだ気絶しておいてもらって、先に虎を調べるか。とはいえ、今のうちに手配はしておいた方がいいな。
夏彦はそう考えて、油塗れの手で四苦八苦しながら携帯電話で司法会の保健担当に緊急出動の要請と、現在場所を伝える。
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