「まあ、座れ……貴兄とまた会えるとはな」
校舎には似つかわしくない、かび臭い臭い。
地下にあるもう使われていない教室のひとつに、夏彦は訪れていた。
その教室には学習机も椅子もないので、正確に言うならば元教室と言うべきか。部屋の中心には古い年代ものらしい赤茶けたソファーがあり、そこに脚を組み、頬杖をついたレインが座って夏彦を見ている。
ソファーの向かいにはパイプ椅子がひとつ。
「こっちも、虎が間に入ったとはいえ、レインさんが今の俺に会ってくれるとは思っても見ませんでしたよ」
「心外だな。俺は、一度でも知り合った奴を邪険にするようなことはない」
「博愛主義者なんですか?」
「そんなんじゃない。単純に、俺は人間が好きなんだ。老若男女、善人悪人構わずな」
「なるほど……レインさんがすぐ人の懐に入るって話、何となく理由が分かりましたよ」
夏彦がパイプ椅子に座ると、レインは物憂げに視線を夏彦の目に合わせる。
「それで、記憶を失ったんだって? 貴兄ともあろう者が」
「ええ、まあ」
俺ともあろうって、記憶を失う時は失うだろ、多分。
「……貴兄が学園に波乱を巻き起こすことは、何となく想像がついていた。その波乱の生贄となることもな」
頬杖をやめ、ゆっくりとレインは体重を前にかける。
「え? そうですか?」
「そうとも。特に、俺みたいに公安会なんて学園を維持する立場からすれば、よく見えた。貴兄がこの学園を未曾有の混乱に巻き込むことくらいな。ただ、それが、貴兄の生贄のされ方が、まさかこんな記憶を失うなんて形になるとは思ってもみなかったが」
意味が分からず、夏彦が黙っていると、レインはふっと笑って、
「この学園では、誰もが何かと何かを天秤にかけて動いている。何かを失うリスクと何かを得るチャンスを天秤にかけたりとかな。時々、天秤にかける能力がない奴やかけ方を間違う奴も出てくる。けど、貴兄は違う。能力があるし、正しい天秤のかけ方も知っているのに、天秤にかけずに行動する、だろう?」
「損得勘定くらい俺だってしますよ」
「だとしたら、周りの人間から見て、その天秤があまりにも違うから見えないだけだろう。ともかく、普通なら動かないようなことで動き、止まるべきところで止まらない。その癖に能力があって、天運があり、そして人望と権力まで手に入れつつあった。貴兄は俺から見て、爆弾に他ならなかった。だから、問題はいつ爆発するかという話だ」
「爆発した結果が、これだっていうんですか?」
驚いて、夏彦は大きく手を広げる。
「冗談じゃないですよ。今、学園がこうなってるのは、俺が原因ですか? 俺、そんなに影響力ないでしょ」
「どうかな」
レインは冗談めかすように目を細めて、
「貴兄がいなければ、外の組織との関係、内部の抗争、全て今とは違った結果になっていたかもしれん」
「買い被りですよ」
「ふん、それに貴兄が生贄となるのはともかく、それが記憶喪失とは予想外だった。俺の友人の一人は、別の形で貴兄が生贄になって、貴兄と殺し合うことができるのを心待ちにしていたというのに」
「ああ、あいつね」
それだけで、夏彦には誰のことだか見当がつく。
今にも暴れたそうな気配を漂わせながら現れた死んだはずの男、あいつが公安会に所属しているというなら色々と納得できる。
「さて……それで、記憶を取り戻したいのか?」
「ええ、まあ。それで、虎にレインさんを紹介されたんですけど」
「微妙なところだな、俺の能力が使えるかは。万病の薬が、記憶喪失にも効くものか」
首をひねるレインに、
「あの、万病の薬って、一体?」
夏彦は質問しながらも、思い当たることがある。
確かに心臓を貫かれていたはずのコーカが生きていた。あれが、レインの限定能力によるものだとすれば。
「そこから説明しなきゃいけないか。俺の限定能力だ。名前は『友情之杯』。簡単に言うと、俺の血液を万病の薬に変える能力だ。生きてさえいるなら、致命傷にだってある程度効果がある」
ただし、とレインは指を差し出し、ゆっくりと振った。
「薬になるか毒になるかは、神のみぞ知る、だが」
「え」
思いもよらない言葉に、夏彦は声を漏らす。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。俺の血液は、万病の薬になるか、致死の毒になるかのどっちかなんだよ。どっちになるかは、俺にも分からない」
凄い話だ、というか。
夏彦は立ち上がる。
「いやいやいやいやいや。じゃあ、いいです。命を懸けてまで記憶を取り戻そうとは思ってないんで」
「はは、まあ、そう言うな。貴兄には、是非、俺の血を飲んでもらいたいんだ。おそらく大丈夫だろうからな」
「大丈夫って……」
一応、渋々夏彦は再び座る。
「どういうことですか?」
「俺の血は、俺の『友情之杯』は、つまり選別だ」
「選別?」
「そうだ。俺が、あまりにもあらゆる人間を好きなるから、この限定能力になった。俺は、そう思っている。つまり、真に俺が友情を持つべき人間だけを生き残らせる、そんな能力だ」
「はあ」
まだ、夏彦はぴんと来ずに、生返事をする。
「貴兄はおそらく選ばれる。死ぬことはない」
「そうですか?」
「もちろん。生き延びる人間だ、貴兄は。そうだろう? エリートの鑑だ」
エリート、か。
夏彦の心に、とげのようにその言葉が刺さる。
言われてみれば、さっきからこの誘いに乗るべきじゃあないという気はしない。夏彦の『最良選択』が反応していない。
「何だか、言われると死なない気がしてきましたね」
それに、なりよりも。
夏彦は、自分がどうして記憶を取り戻したいのか、その理由が少しだけ分かる。さっきの言葉で。
エリートになりたかった。エリートになろうと何度も死にかけて、友達と殺し合い、あるいは殺して、そうして、少しずつ近づいているつもりだった。
それが、切り開いてきた道が、知らないうちに消えた。その理由が、知りたいのかもしれない。
「そうだろう? さあ、乾杯といこう」
レインは床に無造作に転がっていたワインボトルと、二つのグラスを取り上げる。
「本当なら赤ワインがいいんだろうが、残念ながらぶどうジュースだ」
そうして、ワインボトルから赤い液体をグラスに並々と注ぐ。
「さて」
レインは人差し指を噛み切ると、その指をグラスの上で停止させる。
ぽたり、と一滴、レインの血液がジュースに落ちて、混じって消える。
「乾杯だ」
その杯を渡し、レインも自らグラスを持つ。
「はあ、それじゃあ」
受け取った夏彦は、そのグラスをレインのグラスにぶつける。
からん、と軽い音がして、レインはジュースを呷る。
「……ん? 貴兄、飲まないのか?」
「いや、ちょっと」
やはり、死ぬかもしれないなんて聞かされると飲むのに抵抗がある。
夏彦はグラスを手に躊躇する。
ただ、飲んでも大丈夫だと、勘が教えてくれている。今まで、自分を生き残らせてくれた、望んだエリートへと近づかせてくれた勘が。
ええい、ままよ。今更、何が怖い。人を殺してしまった俺が。
「……ふっ」
気合を入れなおし、夏彦も一気にグラスを呷る。
飲む。
ただのぶどうジュースの味だ。
一秒、二秒。
「……あれ?」
飲み終えても、何も起こらない。
「レインさん、何も起こりませんけど……」
「毒にならなかった、ということだ。よかったじゃあないか」
動じずにそう言ってもう一口グラスを傾けるレイン。
「いやいや、そういう問題じゃなーー」
薄暗い部屋だった。
目の前にある、木製の椅子に座っているのは、地味な色のスーツを着た男で、その向こう側には窓があり、薄ぼんやりとしか光が差し込んできている。
逆光のせいで男の顔は影になって見えない。
「絶望について話をしよう」
椅子に座っている男の声は落ち着いた低いものだった。社会的地位と経済力のある男、そして人に命令にすることに慣れている。そんな印象を夏彦は受けた。
「絶望?」
「そうだ、絶望だ。どんな時に人は絶望すると思う?」
「そりゃあ、希望がなくなる時、でしょ」
「トートロジーだ。言葉を説明してどうする。まあ、いい。答えを教えよう。それは、自分の望まない未来が、確実になった時だ。いいか、確実になった時、というのが重要だ。どんなに先行きが暗くとも、不確定ならば希望はある。だが、確実にそれが、忌避すべき未来が来ると分かってしまった時、人は絶望する」
「……で、それで?」
夏彦は面倒くさそうに続きを促す。
「つまり絶望の話だ。私は絶望している。そのことをまず知れ」
「悪いですけど、あんたの絶望なんて知ったこっちゃないですよ。どうして俺をこんな場所に連れてきたか、それを訊いているんですけど」
「その答えを今言っただろう? 私が絶望しているからだ」
「あんたは、一体……」
「私? 私が誰なのか、お前は知っているだろう?」
「知らない、あんたなんて、俺は……」
「知識や五感に頼るな。第三の目で見ろ。お前にも分かりやすく言えば勘だ。ほら、私が誰だか分かるだろう?」
「俺は……」
「お前に頼みがある。いや、頼みというのは違うか。これは通告だ。お前には他に道はない。それを知らせるだけだ」
「どうして、俺が……」
「お前は選ばれた。いや、お前が選んだのだ。もう、この道しかない」
そして、男は声を強くして、
「証明しろ」
「おい、大丈夫か? 急にぼおっとして」
レインの心配そうな声に、夏彦は我に返る。
「あ、ああ……大丈夫です」
「ふ、気が緩んだか。まあ、命を懸けたわけだものな」
「その結果がこれですけど」
夏彦は強張った顔で何とか苦笑して、
「さて、それじゃあ、帰ります」
椅子から立ち上がる。
「ん? 授業は出ないのか?」
「さっきの緊張で、精根使い果たしましたよ」
「ふふん、貴兄にしては情けないな」
「俺なんてこんなもんですよ」
動揺で震えている手足を無理矢理に動かして、夏彦は教室を出る。
自分の震えが、レインにばれることのないように。この記憶は、誰も話すべきではないと、直感が叫んでいた。
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