だまされた、というのが夏彦の第一印象だった。
渡されたメモの時刻、場所にいった途端に鉄バットをフルスイングされれば、誰だってそう思うだろう。
夏彦はそれをバックステップでかわし、カウンターを男の顎に綺麗に決める。
ものも言わず、崩れ落ちる男。
ビルの内部だった。
まだ夕方だというのに、閑散としているビルに入り、その15階。虎に行ってくれと頼まれた階に着いた途端に、ジャージ姿の若い男が突然金属バットで襲ってきた。
この男で終わりではない。
同じ階にいる、何人もの男が次々に襲いかかってくる。まるで戦場だ。
男達は服装もばらばらで、年齢も同い年くらいに見える奴から四十代くらいの奴までいる。目つきが悪いこと以外には、特に共通点はない。
「おらっ、てめぇっ」
「ああ、こらぁ」
怒声をあげて、男達が襲い掛かってくる。
夏彦は無言で、その男達を叩き伏せていく。
そのうち、この階で暴れているのが自分達だけじゃないことに気づく。
どうも、夏彦がこの階にあがる前から、戦場状態になっていたらしい。この階にいる連中は、どうやら誰かと戦闘中で、夏彦も新しい乱入者だと思われて襲われている。
その証拠に、曲がり角の向こう側からも怒号と悲鳴が聞こえてくる。
「……何だろうな」
呟いて、夏彦は安全靴で蹴りかかってくる男の足をキャッチ、そのまま投げて壁と天井に叩きつける。
「ぎっ」
呻いて、男がまた一人沈む。
「どれどれ」
一体、何が起こっているのか。
どういうつもりで虎がこの場所に向かわせたのか、確認しないと。
掴みかかってくる男を二人同時に叩きのめして、曲がり角をひょいと覗き込んだ夏彦の目に、真っ直ぐ吹っ飛んでくる男の背中が映った。
「うわっ」
慌てて夏彦は顔を引っ込める。
飛んできた男はそのままビルの壁にぶつかって、
「ぐうう」
と妙な声を出して夏彦の背後で蹲って動かなくなった。
「危ないな、ったく」
文句を言いながらもう一度顔を覗かせると。
そこでは、男達が一斉に誰かに掴みかかっていた。だが、その誰かはそれをものともせず、服についたゴミでもとるように男達をちぎっては投げ飛ばしている。
見る見るうちに、立っている男は減っていく。
「あれ」
そこでようやく、男達にしがみつかれている誰かの顔が見えた。
夏彦にも見覚えのある顔だったので、
「秋山さん」
と夏彦は声をかける。
「ほいっ……あ、あれ、夏彦君じゃないっすか」
最後の一人をバックドロップしながら、秋山が目を丸くする。
全身筋肉の大男である秋山は、目鼻の辺りに多少疲れを見せるものの、その肉体には一切の緩みも見られなかった。
「どうしたんすか、こんなことで」
「いや、そっちこそ」
「こっちは仕事っすよ。こいつら、この機会に学園を潰そうと動いてた奴らっす。ほら、夏彦君も巻き込まれた外務会の取引の襲撃事件。あの襲撃事件の実働部隊がこいつらっすよ」
「ああ、あれか」
確か、外の組織の一派が雇った連中が襲撃したって話だったが。
こいつらが、その雇われってことか。
「あれ? けど、もう外の組織がこいつらに依頼するような余裕ないんじゃないか?」
「そっすよ。そうじゃなくて、依頼を受けてノブリス学園のことを知ったこいつらが、学園が傾いているのを見て、欲を出して自分が学園を乗っ取ろうと動いてたんすよ」
「ああ、そういうことか」
「で、そっちはどうしてここに?」
気軽に話しながらも、秋山の目の奥は冷たく鋭い。
当然か。
夏彦はわずかに体を固くする。
もう夏彦は会の関係者ではない。無関係の人間がこんな場にいきなり現れれば、当然警戒するか。
「虎に言われて」
隠しても仕方がない、と判断して夏彦は正直に答えた。
たとえ、それによって余計に疑わしく思われても、だ。
「ああ」
だから、それを聞いて秋山が腑に落ちたような顔をしたのは意外だった。
「虎かあ」
「何か?」
「いや、今、人手が足りなくて、虎に援軍頼んでたんすよ、できればって話で」
「ああ、それで」
俺が向かわされたわけか、と夏彦は納得する。
「さて、こっちの方はあらかた片付いたみたいっすね。援軍に行きますか」
「援軍? まだ、誰かいるんですか?」
夏彦の疑問に、
「人手が足りないからって、二人だけっすよ。俺と、律子。ほら、向こうから、物騒な音が聞こえてくるっすよ」
言われて耳を澄ませると、確かにそこら辺で倒れている男達の呻き声の他に、風切り音と悲鳴がどこからか聞こえてくる。
「ああ、あれ、律子さん?」
「そうそう。最近、疲れのせいか気性が荒くて、ちょっと怖いんすよね」
ちょっと怖いことを言う秋山と一緒に、夏彦は騒ぎの方へと向かう。
そこでは、武器を持った男達が、棒立ちになっていた。
棒立ちになって、震えていた。
男達は怯え、震え、呆然と立ち尽くしていた。
鋭い目をした少女が、一人。
男達の間を駆け回っていた。
風のように、というよりも暴風のように。
少女の手には、長い刀が握られていた。『斬捨御免』で召還された日本刀だ。
律子は、刀を凄まじい速度で振りながら、ビルの中を飛び回っていた。
刀の光がきらめく度に、男達の絶叫と共に血が飛ぶ。
「うわっ、こりゃ、援軍どころじゃないっすね」
若干引きながら秋山が言う。
「そうですね……あっ、最後の一人が斬られた」
最後の男は、手に持っている鉄パイプごと斬られて、その場できりきりと回ってから倒れた。
どいつも死んではいないようだが、それにしても容赦がない。
律子さんってこんなに凶暴な人だったっけ?
夏彦は疑問に思いながら、
「あのー、律子さん」
声をかけた。
「――!」
声に反応して振り向いた律子の顔は、返り血を浴びていた。
だが、それにもまして夏彦を驚かせたのは、その顔だった。
刀を持った時の律子の目が鋭いことは知っていた。
だが、改めてまじまじと見た律子の目は鋭い上に血走っており、疲労のためか目の下に薄っすらとあるクマと合わせて、まるで殺人鬼のようにも見える。
律子は夏彦と目を合わせると、動きを止める。
「あのー、律子、さん?」
振り返ってから反応がないので、夏彦は少し呼びかけるようにする。
と、唐突に。
「う、うう……」
鋭かった律子の目が丸くなり、そして潤み出す。
泣く寸前のように目をうるうるとさせた律子は、顔を赤くして震える。
「ちょ、ちょっと」
さすがに心配になった夏彦は慌てて近寄るが、それと同時に無言で律子が夏彦に向かって飛び掛ってくる。
結果として、律子の頭が思い切り夏彦のみぞおちに入った。
「ぐえっ」
「う、ぐうううう、な、な、夏彦くぅん……」
苦しんでいる夏彦をそっちのけで、律子は夏彦の胸で泣き出す。
「ぐぇ、ぐぅ……うううぅうう」
しばらく経っても、律子は夏彦に抱きついたまま泣きじゃくっている。
「ああ、よしよし」
と、夏彦は仕方なく律子の頭をずっと撫でている。
「まあ、最近、色々とハードワークだったし、気が張ってたんすかねえ」
「なるほど……服が血で汚れちゃったなあ」
文句を言いつつ夏彦は辺りを見回して、
「にしても、こいつらどうするんですか?」
「ああ、ほっといていいっすよ。俺たちの役目は先駆けなんで。どうせ、もうすぐ本体が、こいつらの確保とかはやってくれるんで。このビル出るっすよ」
「凄まじく乱暴な作戦ですね」
呆れる夏彦に、
「そう思うっすよ。でも、人手が足りないし、立案部も多分、混乱してわけが分かってないんすよ」
苦笑しながら秋山が答える。
「なるほど、じゃあ、律子さん」
と声をかけたところで夏彦は気づく。
律子はいつの間にか、泣き疲れて寝ている。
「やれやれ」
夏彦は律子を背負い、秋山と一緒にエレベーターに乗る。
「お父さんみたいっすね」
降下中のエレベーターで、秋山がくすくす笑う。
「年下ですよ、俺は」
「ま、律子は繊細っすからね。最近の混乱した状況で、かなり追い詰められてたんすねえ、きっと。久しぶりに心を許せる夏彦君を見て、一気に感情のタガが外れたんすよ」
エレベーターが一階について、夏彦と秋山はビルの外に出る。
「これからもお願いするっすよ、危なっかしい奴っすから、律子は」
ビルから遠ざかる中で、秋山が言う。
律子を背負った夏彦は、少しだけ考えてから、
「別に、俺だけじゃなくてもいいでしょう」
「いやいや、一番心許してるのは夏彦君っしょ」
「……夏彦くぅん」
反応するように、背負われている律子が寝言で夏彦の名を呟く。
「ほら」
「たまたまでしょ」
一歩一歩、踏みしめるように歩きながら夏彦は言う。
「色々あって、たまたま一番踏み込んだのが俺だから、今のところ俺に心を許してくれてるだけですよ」
「うーん、そっすかねぇ」
「実際、料理研究部とかで、楽しそうにしてたじゃないですか。そのうち、他の人にも心を許して、友達もできて、何も心配いりませんよ」
「けど、実際、夏彦君の顔見た途端、こうなったじゃないすか」
不満げに反論する秋山に、
「状況が状況だし、秋山さんとも余裕がなくて仕事の話しかしてなかったんじゃないですか?」
「うっ、た、確かに……」
「他愛ない世間話ができる相手がいれば、よかったんじゃないですかね」
「あー、そこらへん、俺がちゃんとケアしてやればよかったっすかね」
「あと、余裕がなくても、無理矢理にでも料理研究部とかに引っ張って行って、皆で食事するとか。そういうことしてればいいと思いますよ。俺に依存することもなくなりますし」
「はっはっは、やっぱり、こんなにべったりされるのは、夏彦君的にはきついっすか」
面白げに笑う秋山に対して、
「いえ」
と言葉少なに夏彦は答えて、一度、背中で眠る律子の顔を振り返って見る。
目じりに涙の跡を残した律子は、子どものように眠っている。
「悪くはないです。多分、秋山さんが思っているよりは、悪くはないです」
こんな顔をして寝ている少女が、正義のために剣を振ると考えると、何か不思議な気持ちだった。
「尊敬している人に頼られるのは、悪くないですよ」
「えっ、尊敬してるんすか? 律子を?」
驚いた秋山に、
「もちろん。秋山さんもですよ」
「マジっすか、照れるっすねえ」
本当に照れて、少し顔を赤くする秋山に、
「律子さんのこと、本当にお願いしますよ」
夏彦が言うと、
「何だか、遺言みたいっすねえ」
「まあ、お互い、いつ死ぬか分からない状況ですから」
「本当にそうっすねえ」
うんうん、と真剣に頷く秋山に、
「本当、お願いしますよ」
微笑しながら夏彦はもう一度言う。
そうして、三人は学園へと帰る。
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