幼少の頃から受けた特殊な訓練の数々。
彼自身の持つ性質と能力。
それらが雨陰太郎を、より完全な殺し屋に変えていった。
どれだけ警戒している人間にも、するりと近づく。どんなに疑り深い人間にも、こいつだけは大丈夫だといつの間にか思わせてしまう。
ある依頼でノブリス学園に潜んだ時も、彼は依頼を完全に遂行した。もちろん、入り込むまでは依頼主の力を借り、莫大な金、人脈、暴力を駆使しなければならなかった。
だが一度入り込めば、そこに馴染むのは彼にとっては簡単なことだった。
そうして、潜み、殺し、そして学園から脱出する段になって気づいた。
このまま、学園にいた方がもっと仕事をしていけるのではないか?
自分の能力を持ってさえ、この学園に潜入するのにあれだけの労力をかけた。とすれば、他の人間が学園に潜入するのはかなり難しいに違いない。
いや、実際にはある組織が、かなり大掛かりな手を使って次々と工作員を送り込み、また学園内に内通者を作り出しているのは知っていた。
だが、それはその組織があまりにも巨大な組織だからできることであり、そして当然ながら入った連中は皆、その組織の人間だ。
自分がフリーランスの殺し屋として学園に残れば、その需要は計り知れないだろう。
なにせ、ノブリス学園には後ろ暗い手を使ってでも何とか自分の意を通したい連中で溢れている。もちろん、外から学園に対して何かアクションを起こしたい連中も大勢いる。
ここでなら、沢山仕事ができるぞ、と思い、雨陰太郎は学園に残ることにした。
普通ならば、殺し屋が一箇所に落ち着くなど論外だ。長く残れば残るほど、そしてそこで仕事をすればするほど、正体がばれる可能性は大きくなり、危険も増える。
だが、雨陰太郎は普通の殺し屋ではなく、人に警戒心を与えないことでは卓越した殺し屋だった。
結局、彼はノブリス学園に居つくことになる。
そうして何年も学園の中で過ごしていて、彼はふと不思議になることがある。
自分は金に興味がない。人を殺すの自体が好きなわけでもない。
多分、山奥にでも篭って静かに暮らして死のうと思えば、それができるくらいの蓄えもある。
だというのに、自分はどうしてより仕事ができるように学園に入り込み、そこで生活しているのか。
その時思い出すのは、初めて人を殺した時のこと。育ての親を殺して、その血を浴びた時のことだ。
頬を塗らす返り血を感じながら、歯車がはまったような気がした。
自分はそういうものなのだと、奇妙な満足を覚えた。
育ての親にずっと技術を仕込まれ、心を壊され続けた日々では感じなかった感覚だ。
だから、人に依頼されて人を殺すことが自分の本質だと気づいた。そのように育てられたし、自分がそういうものになるのは当たり前だ。
だから、きっと、自分はこれからも人から依頼されて人を殺し続けていくのだろう。より、それをし易い環境に身を置いて。
そう思いながら、雨陰太郎は学園に身を潜めている。
「お、珍しイ」
というのが、久々にあったアイリスの一言目だった。
夏彦は書類関係を全て胡蝶に提出。昼食をとってから視察という名目で生徒会役員候補が色々な場所で演説をしているのを見て回る。
誰もが自分がいかに学園に貢献できるのか、するつもりなのか、学生のために自分が何をしていくのかを熱心にアピールしていた。
そして面白いことに、自分のアピールだけでなく、誰もがネガティブキャンペーンをしていた。他の候補者何人かが、いかに相応しくないか、あるいはスキャンダルがあるといったことを仄めかしていた。
資料と見比べてみれば、それはつまり会長派の候補者が副会長派を批判しているのであり、逆に副会長派が会長派を批判しているのでもある。
今回の選挙戦は、完全に生徒会長派と副会長派の政治闘争となっているらしかった。
興味深くそれを見ているうちに、終業のチャイムが鳴って、そういえば最近は全然授業に出ていないな、と気づく。
まあ授業に出ないことはこの学園ではそこまで問題ではない。ただ、授業にも出ていないし勉強もしていないことはまずい。
次のクラス入れ替え試験で泣きを見るかもしれないな、と夏彦はぞっとする。
選挙や例の襲撃事件があるから、というのもあるが、とにかく役職者になってから忙しすぎる。逆に、他の役職者は全員こんな多忙の中、成績を大して下げもせずに頑張っているということだから本当に尊敬する。
ともあれ、そうして夏彦は久しぶりに第三料理研究部に顔を出したのだった。
「ほら、選挙があるから、忙しくてさ」
「ああ、手伝イシテるんでショ? 大変ヨね」
わざとらしいロボット口調を懐かしく思いながら、
「ところで、まだ他の連中は来てないの?」
部室には夏彦とアイリスしかいない。
直接関係がないとはいえ、会に所属しているからにはやはり選挙の影響で忙しいのかもしれない。
「ウン、忙しイから秋山さんと律子サンはお休みダって。虎君とつぐみちゃんはもうスグ来ると思うヨ」
アイリスが喋りながら体を揺らし、その度に赤いポニーテールも揺れる。
「ああ、虎が来るのは知ってたけど、そうか、秋山さんと律子さんは休みか」
虎が来ることは昨日の時点で打ち合わせていたので夏彦も知っていた。というよりも、来なかったら部に来る意味が皆無、は言い過ぎでも、ちょっと薄くなる。虎に公安会のメンバーを紹介してもらう、というのが今日の主な目的であるし。
「おっ、珍しい顔が」
そこに、ドアを開けてつぐみが入ってくる。夏彦の顔を見て目を丸くしている。
「忙しいんじゃなかったの?」
「忙しいけど、やっぱり皆の顔を見たくなって」
白々しい嘘を言うと、
「ふうん」
とつぐみは呆れたように手をひらひらと振る。
それとは対照的に、
「おオ……」
アイリスはそう言ったきり絶句する。目が少し潤んでいる。
夏彦には、どうもアイリスが感激しているように見えて、こんな簡単に騙されていいのかと少し心配になる。
「うぃーす」
ちょうどそのタイミングで虎がやる気のない挨拶と共に部室に入ってくる。両手にはぱんぱんのビニール袋を持っている。
「今日、鍋しようぜ、鍋。これ提案じゃなくて決定事項な。材料買ってきちゃったしよ」
その言葉に、夏彦とアイリス、つぐみは三人で顔を見合わせてから、おそるおそる夏彦は虎に顔を向けて、
「鍋って言った?」
聞き間違いではないかという一縷の望みをかけて質問する。
「そう、鍋。出汁は粉末のかつおだしのやつ買ったから、これでいこうぜ」
「もうすぐ夏だって言うのに、鍋?」
「いいじゃねえか別に」
「いや、いいけど、どうして鍋?」
「俺が食いたくなったから」
会話しても無駄だ、と夏彦は諦める。それはアイリスとつぐみも同じらしく、虎と夏彦の問答を聞きながら苦笑している。
そうして、その日の料理は鍋に決まった。
暑い中、全員で汗だくになりながら鍋をつつく。
「夏彦君、顔色悪いから、沢山野菜食べた方がいいわよ」
汗でずり落ちる眼鏡を直しながら、つぐみが言う。そういう割につぐみはさっきから鶏肉ばかり食べている。
筋肉をつけようと思っているのかもしれない。風紀会は荒事が多そうだから、それも重要だろう。
「確かニチョっと顔色悪イカも」
しらたきをすすってまじまじと夏彦の顔を見るのはアイリスだ。
「ああ、まあ、そりゃあね」
寝不足プラス精神的疲労プラスまだ直りきっていないこれまでに刻まれた大怪我、という三重苦だ。体調がおかしくならないわけがない。
とはいえ皆の前で、特に会に入っていないアイリスの前でそんなことを言うわけにもいかず、夏彦は言葉を濁す。
アドバイス通りにたっぷりの野菜、そしてつくねを頬張っていると、
「いやあ、暑いな、しかし」
と汗を噴き出しながら虎が当然のことを言う。
「良いことを教えてやろう。夏間近にもなって鍋を食べると、暑くなるんだ」
「冬にアイスクリーム食べると寒くなるのも知ってるぜ」
夏彦と虎があまりにも下らない会話をしているうちに、鍋の中身はどんどん減っていく。
「鍋? と思ったけど、こういうのもいいわね」
つぐみは意外な健啖ぶりを発揮し、ぱかぱかと肉を平らげていく。
「ソウね。部長としテハもっと料理ッポイ料理の方がイイケド」
アイリスの言葉は夏彦にもよく分かる。確かに鍋って、適当にやっても美味しいイメージがある。料理の技術とかがそこまで重要じゃあないような。
「何言ってんだ、料理の原点みたいなもんだろ、鍋って。多分、縄文時代とか、でかい土器でいろいろなものを煮て皆でそれつついてたりしてたんだぜ」
とても特別優良クラスに所属しているとは思えない、あやふやな歴史観で虎が語り出す。
「それに何かで聞いたけど、一緒に食事するってのは、気を許している証拠なんだってよ。だとしたら、こうやって一つの鍋を皆で食うのって、究極系なんじゃねえの? 料理の原点にして食事の究極系、それが鍋だ。分かるか? 多分、全く理解し遭えない人間同士でも鍋を食えば家族同然になるぜ」
極論を語りながら次々と豆腐を吸い込む虎。
「そんな馬鹿な」
常識人のつぐみがからかうように目を細めて三白眼で虎を睨む。
「ウウン、説得力がアるワ」
本気で言っているのか、アイリスは頷いている。
よく考えたら以前からアイリスが言っている「大勢で食事を食べるのが楽しい」理論とかなり共通している。自説の共感者が現れたと思っているのかもしれない。
「一緒に飯食ったら仲間、そんで一緒に鍋を食ったらソウルメイトだ」
虎の持論は続く。
そんな部の仲間のやりとりを眺めながら夏彦は白ねぎを箸でつまみ、
こんなのんびりしてていのか。
と不安になる。
居心地がよすぎるな。
夏彦は困りながらも笑えてきて、にやにやしながらねぎを口に入れる。
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