「ちょっといいかな?」
会議が終わり、このまま寮に直帰しようかと考えつつ荷物をまとめていた夏彦に、声がかけられる。
声の主は彩音で、髪をかきあげながら屈託なく笑っている。
「はい?」
屈託なく笑ったまま、さっきの続きで攻撃してくるかもしれない。
油断せず多少身構えたままで夏彦は顔を上げる。
「夕食、まだでしょ?」
「ええ、そうですけど」
ひょっとして食事に誘われるのか、と妙な期待をした夏彦だったが、
「夏彦君と夕食を一緒にしたいって人がいるんだけど」
そう言って彩音は店の名前が書かれた紙片を差し出してくる。
「――これは」
そこに書かれている店の名前を見て、夏彦は目を見開く。
『みなかた』という名前。
夏彦でも名前を知っている、ノブリスの郊外にある有名な料亭だ。学生の身分じゃあ、到底入ることのできないような店。
「こ、ここって」
「もちろん、御代は向こう持ちなんで、安心してください。もう待っているらしいから、早く行った方がいいかな」
どうするかな、と夏彦は一瞬考えたが、罠だという気はしない。
何が待っているかは分からないが、行ってみてもいいだろう。料亭に呼び出すということは相手はかなり大物だろうし、それに。
「前から一度、料亭に行ってみたかったんですよ、ありがたく行かせてもらいます」
こう見えても、夏彦は第三料理研究部に所属している。料亭の料理自体にも興味があった。
今度、料亭の料理のことをアイリスとつぐみに教えてやるか。あの料理バカたちは、きっとうらやましがるだろうな。
そんなことを考えて夏彦はにやにやと笑う。
突然にやついた夏彦を、当然ながら彩音は気味悪そうに見ていたが。
まるで旧家の屋敷のような立派な門構えが、夕闇の中を灯篭の柔らかい光で照らし出されている。
その雰囲気だけで気圧され、夏彦は入るのを躊躇した。
本当にこれ、自分が入っていいのだろうか? 入り口で、「お客様、ドレスコードが」みたいなこと言われて止められないだろうな。学生服だし。
そんなことを思ってみたかたの門前で夏彦が中の様子を窺っていると、がらりと戸が開いて仲居らしき女性が現れる。
「失礼いたします。夏彦様でしょうか?」
「えっ、あっ、あ、そうです」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
仲居に促され、夏彦は戸惑いながらもみたかたに入り、歴史を感じさせる長い廊下を、仲居の後をついて歩く。
「こちらです」
と仲居が案内した先には、料亭の一番奥にある個室だった。襖の奥からは何の音もせず、本当に誰かが部屋の中にいるのか不安になる。
意を決して夏彦は、
「失礼します」
声をかけてから、襖を開ける。
「……来たか」
個室で、胡坐をかいていた男が顔を上げる。
着流し姿の男の顔に、夏彦は見覚えがある。いや、見覚えがあるどころの話じゃあない。学園にとって重要人物であるし、そもそも一度見たら目に焼きついて離れないような外見の持ち主だ。
真っ白い髪と髭につつまれた老人。だが同時に老人とは思えない量の筋肉で成り立っている長身。青い目と顔の彫りの深さが、その老人が西洋人であることを主張している。
「学園長……」
意識せず、夏彦の口からその言葉がもれる。
ノブリス学園の長。行政会に所属する超人的な格闘能力を持つ老人。かつてのリングネームはデミトリ・ラスプーチン。
その男が、巨体をくつろがせて個室に座っている。
「まあ、座りたまえ」
「は、はい」
夏彦は体を強張らせつつ、テーブルを挟んで学園長の正面に座る。
個室の襖は閉じられ、狭い個室には夏彦と学園長の二人きりになる。
テーブルの上には、透明な皿に山盛りに積まれた生牡蠣。夏彦が来るまでに学園長はかなりの量を食べていたらしく、皿の横には大量の牡蠣の殻が積まれている。
「養殖ものだが味はなかなかいい。牡蠣が嫌いでないならいってみろ」
「じゃあ、遠慮なく」
何もかけずに、夏彦は生牡蠣を喉に流し込むようにして食べた。口の中に入れたとたんに、濃厚な磯の味が広がる。
「……美味い」
しみじみと言って、夏彦はたちまちのうちに二個、三個と生牡蠣を平らげていく。
「いい食べっぷりだな」
感心したように言って、学園長も生牡蠣を口に運ぶ。
「酒……は君の場合は駄目か。未成年だしな。お茶でいいか?」
「あ、はい」
「ああ……おーい」
学園長が仲居を呼んで注文をする。
学園長には日本酒が、夏彦にはお茶が運ばれる。
しばらくの間、無言で二人は生牡蠣を食べ続ける。
「さて……」
かなり食べたが、それでも相当皿の中に生牡蠣は残っている。
そこから生牡蠣を掴み出し、一息で食べると学園長は日本酒を呷る。
「……本題といくか、夏彦」
「俺の名前、知ってるんですね」
「まあな、それなりに有名人だ、君は」
「実感ありません」
夏彦は生牡蠣を流し込む。
「私はな、君にお願いがあって来たんだ」
「選挙管理委員会のことですか?」
このタイミングで話といったらそれしか思い浮かばない。
「鋭いな。まあ、一つはそうだ」
「一つは?」
「もうひとつ、頼みたいことがあってな。頼まれてくれるかね?」
「内容を聞かないことには、何とも」
あまりにも無茶なことは受ける気はない。とはいえ、ここで学園長に貸しを作るということはかなりのアドバンテージになる。
罠に嵌ることのないよう、『最良選択』を使用しておく。
「まあ、そうだろうな。だがその前に、君はこの学園のことをどの程度知っている?」
「この学園?」
質問の意図が分からず、夏彦は鸚鵡返しに言って目を細める。
「ああ……知らないのか。ライドウのお気に入りだと聞いていたから、てっきり何か知っているのか思っていたな」
「ライドウ先生――副会長とはお知り合いですか?」
「古い付き合いだ。あいつが学生の頃からのな。知っているか? 奴はノブリス学園の学生時代、司法会の役職なしだった。三年間ずっとな。ただ、その代わりと言ってはなんだが、奴はある派閥に属していた。会を超えた学生派閥だ。とはいえ、そんなに大袈裟なものではない。君が所属している第三料理研究部みたいなものだと想像してくれればいい」
「ああ……」
何となく想像できる。
政治的なもの、というよりも会を超えた友人同士の集まりみたいなものか。
「ただ、そこそこ有能な人間も所属していてな。そいつらが学園の秘密や闇に手を出したらしい。結果として、抗争に巻き込まれるようにしてその派閥のメンバーは死んでいった。生き残ったのはライドウと胡蝶だけだった」
「胡蝶先生が?」
意外なところで課長の名前を聞いて夏彦は驚く。
「それも知らなかったのか。本当に何も知らんな。ともかく、派閥の中でも目立たない方でな、だからこそ生き残れたのかもしれんが。だからあの二人が卒業した後、また学園に戻ってきたのには驚いた。死んだメンバーの仇でも討つつもりか、あるいは意思を継いで学園の闇を暴こうとでも思っているのか、そこまでは知らん」
「いいんですか、そんなこと簡単に話して」
それなりに付き合いのあるライドウからすら明かされなかった話を、学園長がほとんど初対面の自分に話してきたことに夏彦は戸惑う。
「構わんだろう。その気になって調べれば過去のデータベースから分かることだし、君だってこんな妙な学園に秘密や闇の十や百あるのは予想していただろう」
「まあ、それはそうですね」
答えて夏彦はずるずると生牡蠣を飲み込み、お茶で口をさっぱりとさせる。
「話が横にそれたな。ともかく、何も知らないのならそれでいい。夏彦、現在、学園で急激に力をつけている人間が三人いる。誰か分かるかね?」
「急激に力をつけているって言ったら」
夏彦の頭には、すぐに鉱物じみた男の姿が浮かぶ。
「新入生で会長になった、雲水ですか?」
「あれか」
物憂げに学園長は生牡蠣を口に運び、ため息をつく。
「奴は確かに会長になったが、それだけだ。力をつけることもなければ、力を振るうこともなかろう。奴はな、岩と一緒だ。巨大な岩は、落ちてくれば危険だし、ぶつかればこちらが怪我をする。だが、岩が自分から襲い掛かってくることなどないし、より巨大になろうとすることもない」
「ああ、そんな印象はありますね」
言い得て妙だ。
「意見が一致して嬉しい限りだ。いいか、三人のうちの一人は、君だ、夏彦。急激に力をつけた、ということで言えば君が入っていないはずがないだろう」
「俺が……」
牡蠣の殻を置いて、夏彦はぼんやりと自分の手をかえすがえす眺める。そこに答えが書かれているかのように。
「あまり、実感はありませんね」
正直な感想を言う。
「実感はなくとも、だ。上に昇ろうという意思を持ち、新入生でありながら司法会監査課課長補佐という地位にいる君は、少なくとも注目されている人物のひとりだ。さて、他の二人は分かるか? どちらも君の知り合いだが」
「知り合いですか?」
全く想像もつかない。
「テレビ番組ではないんだ。答えを焦らしても仕方あるまい。その二人というのはな、同じく新入生の二人、虎とサバキだ」
あまりにも予想外かつ馴染み深い名前の登場に、夏彦は目を丸くする。
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