短刀が、月の喉に突き刺さった、はずだった。
「くっ」
だが、次の瞬間、勘でその場から跳ね避けたのは夏彦の方だ。その勘は当たり、月の反撃が夏彦の頬をかする。
何だ、一体?
飛び退いて体勢を立て直した夏彦は、何もなかったかのように短刀を構えている月を見る。
もちろん、喉には何の跡もない。
限定能力、だよな。やっぱり。そうとしか考えられない。
夏彦が思い出したのは、かつて月が暴徒に刺された時のことだった。刺されたのに、何もなかったかのように無事だったことがあった。そう、ちょうど今のように。
くそ、どうなってる?
考えるが、何も浮かばない。精神操作されているのか? けど、無条件に相手に幻覚を見せるなんて、そんな凶悪な能力がありうるか?
必死に考える夏彦に、月が緩やかな動作で近づく。
「くっ」
切り払って距離をとろうとするが、今度は月は体さばきだけでそれをかわし、夏彦の懐に入る。
「おっ」
絶体絶命だが、チャンスでもある。
視覚が惑わされているんだったら、零距離だ。
夏彦は短刀を左に片手持ちにする。
月が無言で突き出す短刀に、夏彦は自分の右手を突き出す。
右手はくれてやる。
そして、右手を突き刺そうとする短刀、その短刀を持つ月の手首を狙って、左の短刀を振り下ろす。
「――なっ!?」
あまりにも意外な、捨て身の夏彦の策に月の顔色が変わる。
突きを止め、後ろに跳ぼうとする月に、今度は逆に夏彦が迫る。肩がぶつかるほどに。
この距離なら、視覚以外で掴むことができる。
月の体温、月の呼吸音、衣擦れの音、触れている肩。
目で見るまでもなく、そこに月がいるのが分かる。
「しゅっ」
今度こそ、全力で夏彦は短刀を振る。
刀身が深く、月の胴体にめり込んだ。
「――ダメかっ」
逆に、肩に短刀が刺さったのは夏彦の方だ。
激痛に呻きながら、夏彦はその場から転がり逃げる。
「いっ、てえ」
幸い、そこまで傷は深手ではない。
しかし、それよりも精神的なダメージの方が大きい。
夏彦は短刀を構えながら、腰が引けていることを自覚する。
月は相変わらず無傷のまま短刀を構え、そして不思議そうに首を傾げる。
「今のは、完全に捉えたと思ったのですけれど。わたくしを雨陰太郎だと怪しんだことといい、夏彦君、あなたはやはり侮れませんわね」
「褒め言葉、どうも」
返答しながら、夏彦は嫌になる。
八方塞りだ。今のもダメじゃあ、どうやって攻撃を当てていいか分からない。
それでも、夏彦は諦める気にはならなかい。
勘だ。『最良選択』が、月がそこまで余裕じゃあないと教えてくれている。
平然とした表情、自然体に見える立ち姿。だが、どんなに巧妙に隠しても、そこに僅かに緊張、そして余裕のなさを感じ取っている。
「死なない程度に頑張りつつ、がんがん行くか」
自分に言い聞かすようにして、夏彦は一気に月に飛び掛る。
「っ!?」
まさか、この状況で夏彦が飛び掛ってくるとは思っていなかったのか、月がひるむ。
その月に、夏彦は短刀を振るう。
月は普通にかわす。
先をとられたために、攻撃し続ける夏彦に対して防戦一方だ。
それでも、月は必死にかわし続けている。
やっぱりか。
夏彦は冷静に考える。
どうも、あの能力はそうやたらと使えるものじゃあないらしいな。
とはいえ、このままかわし続ければ、隙を突かれて終わりだ。
だから、揺さぶる。
「えっ?」
次の夏彦の行動に、思わずといった感じで月が声をあげる。
攻めていた夏彦は、突如として距離をとる。
そして。
「なっ!?」
短刀を、思い切り月に投げつける。
それを、月はやはり能力を使用せず、体をそらしてかわす。
その月に向けて、夏彦は全速力で突撃する。
「――夏彦君」
一瞬、目と目が合って、月が奇妙に平静な顔に戻って呟く。
月が体勢を立て直す前に、突撃した夏彦の拳が月の胴体、みぞおちに向かう。
さあ、どう出る?
簡単に、月のみぞおちに拳がめり込む。
まずい。
結果が出る前に、夏彦は勘で失敗を察知する。
次の瞬間、命中したはずの拳が空を切って、逆に月の袈裟斬りが夏彦の首筋を狙ってくる。
「かかった」
そして、夏彦は呟く。
そう、能力を使用されて、この捨て身の奇襲が失敗して反撃を食らう。そのことも当然、読んでいた。拳を突き出したのは左手、そして右手は既に、相手の攻撃に対処するための準備はできている。
やれる。自分ならやれるはずだ。
刹那の時間、夏彦の脳裏には学園長との特訓が蘇る。
相手が刃物で襲ってきた時の対処法。刃が己の身に触れる寸前、敵の手首を掴んで相手の力を利用して崩す。
やれるはずだ。勘だけど。けど、その勘のおかげで今まで生き残ってきたんだ。
夏彦は自分に言い聞かせる。
「――は?」
だが、月の行動はその夏彦の準備と心構えの斜め上をいく。
ぽろり、と。
月の袈裟斬りが途中で止まり、短刀が手から零れ落ちる。
その攻撃に対処しようと全神経を集中していた夏彦は、つい、地面に落ちていく短刀に視線を走らせていく。まずいとは分かっていても、無意識的に。
やばい。
無理矢理、意識の力で視線を元に戻した時には、既に。
「さよなら」
月の手刀が、夏彦の首筋にヒットしている。
多少、あがった息を整えながら、月は倒れた夏彦を見下ろしている。
あの一瞬の、無理矢理作った隙を突かなければなかったから、武器を取り出す余裕がなかった。ゆえに、月にできたのは単なる手刀を叩き込むことだけだ。
とはいえ、この時点で夏彦は気絶している。
もう、月にもとどめを刺すことは簡単だった。月は袖から細い錐を取り出し、足元に気絶している夏彦を見下ろしている。
完全に日は沈み、林は静かで、月明かりで照らされているだけだ。
「……ふう」
しばらく見下ろした後、月はゆるゆると頭を振って錐をしまう。
「殺さないんですか?」
かすれた、弱弱しい、それなのにどこか自信に満ち溢れている声がかかる。
「依頼されてないですもの」
そう答える月は少しも声に驚いておらず、まるで声が聞こえてくるのを予測していたかのようだ。
「依頼された標的は、必ず殺しますけれど」
向き直った月の前には、片手で木に寄りかかってようやく立っているといった様子のコーカが、そこにいる。
青白い顔をして、目は多少うつろ、それでも余裕のある顔は崩していない。
「確かに、心臓を刺したと思ったのですけれど」
「ええ。まあ、色々ありまして即死じゃなかったんですよ。とはいえ、どちらにしろそのままだったら死ぬのは確定だったんですが、通りがかった親切な方に助けてもらいましてね」
「調子、良さそうには見えませんわ」
「そりゃそうでしょうね。その親切な方いわく、助かったのが奇跡。いつ死んでもおかしくない状況だそうです」
「でも、そのまま助かるかもしれない?」
「五分五分だそうです」
「だったら」
月は短刀を取り出す。
「きちんと、始末しないといけませんわ」
「ええ、俺も同じ考えです。死ぬ前に済ませないといけないと思って、しんどいのにここまで追って来たんですよ」
ふらふらとしながらも、コーカは空手における正拳突きの構えをとる。
「勝てると思いますの、その状態で?」
「そちらこそ。余裕なさそうですね。相手の五感全てを操作して距離感を狂わせる、その強力な効果と引き換えに一日三回という制限を持つ『仏心鬼面』、どうやら今日の分は打ち止めらしいじゃないですか」
「本当に、夏彦君は恐ろしい相手ですわ。あれだけ迷いがあって、しかもわたくしの能力の見当がついていない状況から、ここまで持ってくるんですもの」
苦笑して、すぐに月はその笑いを消す。
「でも、死にかけのあなたにとどめを刺すくらい、能力を使用せずともできますわ」
「そうですか。でも、そんなに泣いていて戦えるんですか?」
「――え?」
その言葉があまりにも予想外だったからか、それとも心当たりがあったからか。
思わず、といったように短刀を持っていない方の手で、自らの頬を触って確認する。
もちろん、涙など流れていない。
その隙に、倒れこむようにしてコーカは懐まで踏み込んだ。
「嘘つき」
小さく口を尖らせて月が言うのと、
「『鋼鉄右腕』」
と、コーカがかすれた声で己の能力を宣言するのが、ほぼ同時。
次の瞬間、かきょ、という奇妙な音と共に、月がそれでも反射的に攻撃しようと突き出した短刀の刀身、それが粉々に砕けている。
コーカの鋼鉄と化した右拳が突き刺さり、月の体は一瞬宙に浮き、くの字に折れ曲がる。
「かはっ」
血を吐きながら、月はよたよたと2、3歩下がる。
何か、体の重要な部分が壊れたのが実感としてあった。背骨も折れているかもしれない。
死ぬ。
どこか冷静に、月はそう判断する。
「……うそ、つき。どうして、泣いてるなんて」
「僕は人の本質を見抜くのが得意なんです。知ってるでしょう? 月先生が雨陰太郎なのは分かりませんでしたけど、本質が泣き虫の子どもだってことは、ずっと前から見抜いてましたよ」
月を殴った右拳を、まるで自分の体の一部ではないかのようにコーカはまじまじと見つめる。
「……子ども? 泣き虫? ああ、それ」
ついさっき、夏彦にも同じようなことを言われたのを思い出して、血を咳き込みながら月は少し笑う。
その拍子に体のバランスを崩し、血を撒き散らしながら地面に倒れる。
「あたくし、泣き虫なのかしら?」
地面に伏せながら、月は言う。
「僕の見立てでは、子どもの頃に泣きすぎて涙が枯れちゃったパターンですよ。覚え、ありませんか?」
つらそうに息をしながら、木にもたれかかってコーカは答える。
「あたくし、子どもの頃から、泣いたことなんて――」
そこで、言葉を止めて、月は子どもの頃の一番印象に残っている記憶を思い出す。
拾い主を殺し、その血を浴びて殺し屋として真の意味で覚醒した日のことを。
「ああ、そうか」
誰に言うわけでもなく、呟く。
「頬が濡れてたのは、ひょっとして」
血を浴びたからではなくて、泣いていたからかもしれない。
「どっちでもいいか」
月は呟いて、
「さよなら、コーカ生徒会長。わたくしの知る限り、あなたは完璧に最も近い人間でしたわ。教師として鼻が高かったですわ」
そう言って、苦痛の色を見せず、眠るような顔をして、月は目を閉じる。
苦しそうに木に体重を預けていたコーカは、青白い顔でしばらく月を見ていたが、やがてふと空を見上げる。
「ははっ」
そして、死人のような顔をしながらも、明るく笑う。
「空にも、地にも月か」
木々の隙間から見える満月を見てそう言ったところで、コーカの目が不意に光を失う。
そうして、月に折り重なるようにして、コーカも倒れる。
後には、林の中で倒れた三人を、月が照らしているだけだ。
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