「お疲れ様です」
と言いながら夏彦は監査課のドアを開ける。
雲水の言う通り、選挙で大忙しらしく、監査課の人間は半数が部屋におらず、残った半数も鬼気迫る様子で電話をしていたり事務作業に勤しんでいる。
「うげっ」
夏彦はデスクに戻り、そこに山積みになった書類を見て顔をしかめる。
立ったまま書類をぱらぱらとめくり、とりあえずそのまま判子を押して承認すればいいものにつぎつぎと判を押していく。
そうして、押し終わった書類を抱えて、そのまま課長のもとへと向かう。
胡蝶としては珍しいことに、課長のデスクにちゃんと姿がある。
「おー……小旅行からお帰りなさい」
胡蝶は今にも居眠りしそうな目をしている。
「とんだ小旅行でしたよ。土産もなしです」
「こっちは……あふぅ、選挙で人手が足りずにてんてこ舞いよ。そっちも大変だったみたいだけどねー。ああ、それで、それ書類?」
「はい、とりあえずすぐいけるやつです。これだけ提出して、残りは後日。先に、今回の報告書出すように言われてるんで」
さりげなく、夏彦は釣り針を仕掛ける。
さあ、どう出る?
「今回の報告書、ねえ」
相変わらず眠そうな胡蝶の目に、一瞬だけ鈍い光が宿る。
「ねえ、夏彦課長補佐」
「はい?」
「昼ごはんは食べた?」
「いえ……」
「これから、私食事にするから、一緒にどう? 副会長も一緒に、ねえ」
「なるほど」
驚くほど直球にきたな。確かに、今更取り繕ったところで透けて見える話ではあるけど。
呆れ半分、感心半分で夏彦は答える。
「いいですね、じゃあ、学食に行きましょうか。報告書はそれからにしましょう」
「せっかく副会長を誘うんだから、もっといいとこにしましょ」
いたずらっぽく胡蝶が笑う。
そうして、胡蝶の車に乗り、着いたところは夏彦にも最早馴染み深い場所だった。
この歴史を感じる檜の門構えは、つい最近虎と一緒に入ったばかりだ。
「ここですか……確かにいいところですけど」
「高給取りじゃないとなかなか来れない料亭よね。私も一度来たことがあるだけ。もっとも、夏彦君は頻繁に利用してみるみたいだけどね。入学してから、もう二回は入ってるんでしょ?」
胡蝶の冗談に夏彦は無言で肩をすくめて答える。
確かに、最近は密談しようと思うとすぐにこの料亭に来ている気がする。
「ライドウ――副会長は先に入ってるらしいから、行きましょうか」
胡蝶に促され、夏彦はみなかたに入る。仲居の案内で個室に通されると、そこにはいつも通りの細身のスーツを、しかしネクタイを緩め多少リラックスした様子で着こなしているライドウの姿がある。
「着ましたか、夏彦君も胡蝶も、どうぞ、座って。適当にコースを頼んでおきましたよ」
「うん、ありがと……ああ、眠い」
「失礼します」
胡蝶と夏彦は席に座る。
「さて、夏彦君、大変だったみたいですね」
おしぼりで手を拭きながら、ライドウは切り出す。
「ええ、まあ。それで、お二人はどんな風に大変だったかをお知りになりたいんですか? それなら、すぐに報告書にまとめて提出しますけど」
ジャブのつもりで夏彦が言うと、横に座っている胡蝶が噴き出す。
「ふふっ」
「ほら、胡蝶に笑われていますよ。もう、こんな場所でそんなまだるっこしいやり取りをしても意味ないでしょう。どうせ会長から僕たちに注意するように言われているはずですし、それなのにここに来ること自体、君の考えが透けて見えますよ」
図星なので、夏彦は黙ってお茶を飲む。
ちょうどそこで、料理が運ばれて来る。
三人はしばらく無言で箸を動かしていたが、
「要するに、君は何か僕たちから聞きだしたい情報がある。そして、それと引き換えにする情報を、僕たちが知りたいと思われる情報を持っている。そういうことでしょう? ギブアンドテイクです。情報交換と行きましょう」
「そうですね――」
確かに、ライドウの言葉は理にかなっている。
理にかなっているが、しかし夏彦はそこで少し間を置いてから、
「その前に、ひとつ、質問をいいですか?」
「ほう、どうぞ」
「動機は、何です?」
「ん?」
虚を突かれたのか、ライドウは驚いた顔をして、同じような顔をしている胡蝶と顔を見合わせる。
「動機って、いうのは?」
「今回の件について、ライドウ先生たちが情報を知りたい動機です。どうしてですか?」
この質問に対する受け答えで、今回の件に関して二人がどの程度真剣か、覚悟があるのか、そして裏切らないかを見極める。
夏彦はそのつもりだった。
「どうしてって――」
答えたのは胡蝶だ。
「会長から、私たちの過去については知っているんじゃない? テキストについても」
「ええ。でも、それは単なる事実で、動機じゃあないでしょう。俺が知りたいのは、動機です」
「テキストの重要さは分かっているから、それを手にして上に昇りたいというのが六割」
今度はライドウが答える。
「残りの四割は、かつての同志のテキストを奪い返して、せめてもの弔いにしたいっていう、勝手な思い込み、自己満足。つまりは、個人的理由だ。これで満足ですか?」
ひんやりとするライドウの目が夏彦を捉える。
冷たい、だが嘘のない目だ。
夏彦は直感で判断する。
「ところで」
ふ、と氷が融けるように目を柔らかくして、ライドウが言う。
「君の方の動機は何ですか? 今回の件を、会長の意向に逆らってまで調査しようという動機は?」
「あー、それ、私も知りたいわねえ」
胡蝶が頬杖をつき、目を夏彦に向ける。
「俺ですか」
答えは、既に夏彦の中で出ている。
「俺も同じようなものです。立身出世と、後は――」
男の死に際の顔。約束。
「個人的理由です」
ただ、俺の場合は割合がライドウ先生とは逆ですけどね。
密かに夏彦は付け加える。
「なるほどね……さて、それでは、まずは夏彦君から、今回の事件について、報告書に書けないことも含めて、教えてもらいましょうか」
「はい」
夏彦は、今回の取引に関連したことを包み隠さず話す。何故か死んだ人間に全てが擦り付けられているのも、それを外務会、そして他の会もよしとしていることを。
「なるほど、大変でしたね」
聞き終わったライドウの第一声はそんな平凡なものだった。
「ご感想は?」
「別に目新しい情報はありませんでしたね。学園にいても、僕の立場ならそれくらいのことは耳に入ってきますから。もちろん、生の声を聞けた、そして情報が間違っていなかったという点では価値がありますよ」
「そうね……実際に現場にいる夏彦君の情報とこっちの情報が一緒ってことは……そういうことなんでしょうね」
満腹になったからか、うつらうつらと胡蝶は頭を揺らしている。
「それじゃあ、そちらも話してください。一体どういうわけで、取引相手の言い訳にもならない言い訳を外務会、というよりも学園全体が認めるんですか?」
「理由は外務会ですね」
あっさりと、ライドウは答える。
「今回の事件、基本的に外のことだから、外務会がオーケーしてしまうと、他の会としては口を出しづらいところがありますから。どういう訳か、今回の件に関して外務会が有耶無耶にして終わらせたいらしい、僕に言えるのはそれくらいですね」
「馬鹿な」
思わず夏彦は右眉を上げ、嘲りの表情を作る。
「だったら外務会は対外事案でやりたい放題じゃあないですか。それをさせないために他の会があるんだし、もっと言うなら監査課なんてそれの防止のための課でしょう?」
「はは、それはそうなんですけどね……まあ、言ってもいいでしょう。これは、極秘でお願いします。司法会では今のところ会長と僕しかしらない、胡蝶すら知らない情報です」
「んあっ、私?」
眠りかけていたらしく、名前を呼ばれた胡蝶が慌てて顔をあげる。
「今回の外務会の動き、当然他の会は異を唱えようとしたようです。けれど、その動きは止められました。公安会によって」
「公安会?」
意外な会が話に挙がり、夏彦は驚く。横を見れば胡蝶も目を丸くしている。目が覚めたようだ。
なるほど、確かに課長も知らない情報だったらしいな、と夏彦は納得する。
「公安会が? そうだったの?」
「そうだよ。胡蝶は知らないだろうけどね。各会のトップしか知らない情報だよ」
夏彦に対するものとは違う、砕けた口調でライドウは胡蝶に答える。
「はっきり言ってしまえば、現場で死に掛けた君には不愉快でしょうが、今回の件は各会にとってあまり重要な件ではない、ということです。だから、当事者である外務会が終わらせようとしているのに、公安会に刃向かってまで調査しようという人間はいない」
「ライドウ先生や課長のように、個人的な思い入れがある人間以外は、ってことですか?」
「ええ。そう、僕たちや夏彦君のようにね」
値踏みするようにライドウが目を細める。
一応、筋が通っているようには思えるが、しかし。
夏彦は引っかかるが、突っ込んで質問するか否か躊躇する。
ここでは限定能力が使える。直感に従うことにするか。
「本当にそのテキストが学園の重要な機密について書かれたものなら、他の会も何とか手に入れようとするんじゃないですか?」
「あははっ、テキスト、ねえ」
突如として、夏彦の隣に座っていた胡蝶が笑い出す。
「ふふっ」
釣られたようにライドウも笑う。
何が面白いのか分からず夏彦が戸惑っていると、
「郷土研究部のメモがそこまで話題になるとはね。ああ、夏彦君がどういう風に聞いたのかは分かりませんが、僕たちの所属していた郷土研究部、そこの僕なんかとは違う優秀な人たちが学園を調査して、それをメモしていたのは本当です。郷土研究部がトラブルに巻き込まれて崩壊、そこのメンバーが僕たち以外亡くなったのも、そしてそのメモが消えたのも。けど、そのメモに学園の重大な機密が書かれていたなんて話、正直なところ信用度としては都市伝説レベルですよ」
「そんな大それたメモじゃあないって言うんですか?」
夏彦は半信半疑だ。
そんなメモを外の組織がずっと厳重に保管するだろうか、そして外務会が取引の対象にするだろうか。
「いえ、実際、今の僕たちでも知らないような学園の情報がひとつやふたつくらいは書かれているとは思いますし、それが外に流出したままというのはまずいでしょう」
丁寧にライドウは説明する。
「それはまずいでしょうが、そのテキストの情報を手に入れれば強大な力になる、というのはどうでしょうね。誰も信じていないんじゃないですか? 部員が死亡したのも、権力闘争の末の同士討ちにいくつかの事故が重なったくらいにしか思ってないでしょう」
「私たち以外はね」
意味ありげに胡蝶は目配せをする。
「ええ。僕たちは、部のメンバーのうち誰かの調査が触れてはいけない部分にまで及んで、だから消されたのだと信じています」
ライドウは苦笑して、
「だから夏彦君がメモのことをそこまで評価して重大に考えてくれているのは、正直なところ僕にとっては嬉しくもありますよ」
その言葉に嘘はない、と夏彦は直感する。
ライドウの内に秘めた、強固な信念とも言えるものを感じる。
「それほど信頼してたんですね、部の仲間の能力を」
ぽつりと夏彦が呟くと、
「信頼しているんですよ、今も」
目を逸らして、少し恥ずかしそうにライドウは訂正する。
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