厄介ごとばっかりだ。
そう思いながら夏彦は廊下を重い足取りで歩く。
足の重さの原因は、これから行く場所だ。夏彦にはこれから向かう場所の主に対して、苦手意識がある。具体的に何かをされたわけではないが、直接会うとそれだけで圧倒されて萎縮してしまう。
もっとも、おそらく夏彦に限ったことではなくて、あの男を相手に萎縮せずにいられる人間がどれほどいるのか疑問だが。
ため息とともに夏彦が辿り着いた先には、司法会本部と書かれた扉がある。一瞬の躊躇の後、夏彦はノックをする。
「どうぞ」
無味乾燥の声が返ってきて、夏彦はドアを開ける。
「何用だ?」
顔を向けることもせず、書類に目をやったままでそう言い放ったのは司法会会長、雲水だ。
鋼のようにも見える筋肉質の体、素肌に直接羽織ったジャケット、そして顔の右半分の火傷と右目の眼帯。
見た目の異様さはもちろんだが、それをも超える存在感自体の異様さに夏彦は圧倒される。
巨大な岩に人が神性を感じるように、大きく不動な何かに人は本能的に圧倒される。
雲水がまさにそれだった。理屈ではなく、この男は大きくそして不変不動だと感じさせられる。
「申請です」
同じ部屋にいる、というだけで息苦しく感じる夏彦はさっさと話を切り上げようと、手に持った書類を雲水に渡す。
「学園外活動許可? 外務会の活動監査か。了承しよう」
一目見ただけで内容を理解した雲水は、即座に判を押す。
「どうも」
書類を受け取り出て行こうとする夏彦を、
「少し待て」
と雲水が呼び止める。
「はい?」
「その話、外務会から直接持ってこられたのか?」
「いえ……確かに直接個人的に話を通されはしましたが、この依頼自体は会に対する正式なもののはずですよ」
どうしてそんなことを訊くのか分からず、夏彦は怪訝な顔で答える。
「これか。確かに正式に依頼が出ているな」
すぐに棚から目当てのファイルを取り出すと、雲水はそこから一枚の書類を引っ張り出す。
「すると監査依頼の話自体は胡蝶は当然知っているか。副会長はどうだろうな、監査の話を個別に全て把握しているとは思えないが、だが胡蝶から連絡がいっていると思った方がいいか。楽観大敵。常に最悪を想定せねば」
雲水の呟きに、夏彦は引っかかる。
「この話、胡蝶課長やライドウ副会長が知っていると何か問題でも?」
「問題? 問題などない。ある事象を、問題と感じる人間がいるだけだ。俺にとって、これは問題でも何でもない。色即是空。何もない。だが空即是色。何もないことに意味を見出す人間もいる。そんな人間にとってはこれは問題だろう」
話が分からない。
夏彦は雲水の言葉の真意が分からず、曖昧に首を傾げる。
「会長という座についている以上、義務は果たす。規矩を守るのは当然として、大局を見て精進することも必要だ。己の所属している会を優位にするのもまた、会長の義務。俗な話ではあるがな。凡俗極まって悟入することもあろう」
「ええと、つまり?」
「この件と胡蝶、ライドウとの関係に疑惑を抱く連中もいるということだ。いらぬ弱みを見せるのも面白くはない」
「だから、今回の件って――」
待てよ。
そこまで言って夏彦は気づく。
ライドウと胡蝶。この二人の関係について、学園長から教えられたことがあった。
古くからの知り合いだと。かつて、同じ派閥に属していたと。学園の闇に迫りすぎたために、胡蝶とライドウを残して壊滅させられた派閥。
だとしたら。
「そのテキスト、郷土研究部のメモって呼ばれているんでしたね」
「ああ」
雲水は無骨に頷く。
「郷土研究部は、ライドウと胡蝶がかつて所属していた部だ。実際は、会を超えた野心家の若手による派閥だったらしいが」
「つまり、今回のテキストはライドウ副会長と胡蝶課長にとっては、かつての同士の形見だと?」
「それ以上だ。己の野心の残り火だ。ゆえに、そこに特別な強い感情を持っていたとしてもおかしくはない。少なくとも、他の会の連中はそう警戒するだろう」
ようやく話が分かった夏彦は、ほうと息を吐く。
「なるほど。それでようやく会長の懸念が分かりましたよ。で、どうするんですか?」
「何もせん」
雲水は簡潔に答える。
「今更情報をあの二人に隠そうとするのも無理だ。精々、あの二人が妙な動きをしようとしないよう注意しておくくらいだ」
「まあ、そうでしょうね」
実際、あの二人は何もしていないのだ。こちらから不自然に動くわけにもいかないだろう。
「お前はお前で、己の職分を全うすればよい。ただ、そこで二人に注意を割いてもらえれば幸いだ」
「直接の上司の課長じゃなくて、ホウ、レン、ソウを直接会長にしっかりしろってことですか?」
「見事な見解だ」
話は終わった、とばかりに雲水は書類作業に戻る。
「ああ、それと」
書類に目を向けたまま、雲水は何かを指で弾き飛ばしてくる。
「うおっ」
慌ててキャッチして夏彦がおそるおそるその何かを確認すると、そこには銀色に光る五百円硬貨があった。
「何ですか、これ?」
「ここの屋上に自動販売機がある。そこでジュースでも買って飲め。二人でな」
「は?」
また意味の分からないことを、と思いながら夏彦が部屋を出るためドアを開けると、
「どうもですの」
和服姿の小さな女の子が立っている。
いや、見た目は小さな女の子だが、実際には夏彦よりも年上の教師だ。
「月先生……」
名前を呼んだきり、夏彦は何と言っていいか絶句して、それから。
「あの、屋上で、ジュースでも飲みません?」
と、雲水に言われたことをそのまま提案する。
強い日差しに、夏彦は屋上に来たことを早くも後悔し出す。
「もう夏ですね、あっつい」
愚痴りながら夏彦は缶コーヒーを買って、
「はい、ブラックのアイスです」
「どうも」
ぺこりと頭を下げて月はそれを受け取る。
「それで、俺に用ですか?」
こんな日差しの中を長々と喋りたくないのもあって、夏彦はすぐに切り出す。
「ええ。お願いがあって来ましたの」
またかよ、と思いつつ夏彦は缶コーヒーをすする。
「お願いとか頼まれごとが最近多いんですけど、多分ご期待には沿えないと思いますよ。今、手一杯ですから」
正直にそう言うと、
「あらあら、これは司法会の麒麟児、夏彦君の言葉とも思えませんわ」
と月は嫣然と微笑む。
「いやでも実際、やることで一杯ですよ」
「分かってますわ。選挙に合わせて、外務会のテキスト探索の監査がありますものね」
む、と夏彦は思わず缶コーヒーから口を離す。
「そこまで話、伝わってますか」
「当然ですわ。これでも実質的には生徒会のナンバー3ですわよ」
くすくすと袖で口元を隠しつつ月は笑って、
「それについて、お願いがあるんですの。うちの副会長のことで」
「――ああ」
クロイツとの会話が夏彦の脳裏を横切る。
「例のテキストを、生徒会副会長が強引な手段で狙うかもしれないって話ですか?」
「ええ、そうですの。そのことで、もし副会長の影を感じたら、是非わたくしに報告して欲しいんですの」
「月先生に?」
さっき、会長には直接自分に報告しろと言われたばかりだが。
まさか、他の会から、報告してくれと頼まれるとは。
どう考えていいのか、夏彦は悩む。
少し困惑している夏彦の様子を見て取ったのか、
「監査していて得た情報を全て教えて欲しいと言っているのではないですの、あくまでうちの副会長が関わっている疑惑が出た場合、それを報告してほしいんですの。いわば協力ですわ。同じ会のわたくしの方が、副会長を調べるには適しているはずですの」
「つまり、俺が怪しいところを報告すればそっちが勝手に調べてくれると?」
「ええ、もちろんその結果はお知らせしますわ」
なるほど、とコーヒーを口に含みながら夏彦は納得する。
別におかしな話じゃあない。ただ、少し引っかかるところがあるとすれば。
「どうして、それがあなたなんですか?」
「え?」
「生徒会顧問のあなたがこの話を持ってくるのがよく分からないんですよ。そういう役職だってわけでもないし、生徒会長からこの話がくるのなら分かるんですけど……どうも、感触からして、月先生が個人的に動いているんじゃないですか、この話?」
直感も交えて夏彦が指摘すると、
「やはりあなたに誤魔化しは効きませんわね。仰るとおり、この話はわたくしの独断ですわ。会長は何も知りません」
ふっと体から力を抜き、月はそう呟く。
「やっぱり、でも、どうして?」
「コーカは、会長はこの件で特に他の会と協力してまで手を打とうとは考えていませんわ。それは、彼の持つ自信のため。彼の自信は武器であり、長所であり、そして彼の弱みでもありますわ」
「自信過剰だって言うんですか? 俺は、そうは思いませんけど」
確かにコーカは常に自信に満ち溢れているが、夏彦の見たところ、その全てには実力という裏づけが充分にあるように思えた。
「どれだけ知略を尽くしても、どれほど力があろうとも、どんなに万全の体制をとろうとも、不慮の事故や予想だにしない展開というのはありえますわ」
つつ、と月は自らの唇を撫でる。
「会長は、それも含めて、その上で自分は全てをうまく捌けると信じているのですわ。それは悪いことではないですけれど、正しくもない。どんなことが起ころうとも勝ち続ける人間なんて、この世にはいない。でしょう?」
「それは、確かに」
「でもあの人はそれが分かっていない。いえ、分かっていながら、それでも認めたくないのですわ。有能な人間は勝つ。それを真理だと思いたがっている……なんですの?」
途中から、ぽかんと口を開けたまま夏彦が自分を眺めていることに気づいて、月は怪訝な顔をする。
「いや、随分、生徒会長のことを分かっているな、と思って」
「彼が入学してきた時からの付き合いですわ。最初、わたくしが担任でしたのよ。だから、ちょっとした親心みたいなものもありますわ」
「親心、ねえ」
目の前にいる女子中学生みたいな見た目の人には一番似合わない言葉だな、と夏彦は思う。
「ともかく、だから心配ですの。生徒会長が自信を抱いたまま倒れていくんじゃあないかと。特に、今回の選挙については色々と嫌な噂も聞きますし」
「ああ、雨陰太郎ですっけ」
「あら、知ってましたの?」
意外だ、という顔をして月がコーヒーを一口飲む。
「どこまで本当かは別にして、副会長が殺し屋を雇うという噂が流れるほど今回の選挙がきな臭いのは確かですわ。親代わりとしては、心配ですの」
「親代わりって」
夏彦は苦笑してしまう。
「そこまで言いますか?」
「あら、ご存知じゃあないんですの?」
だが月は目を丸くして、
「生徒会長は、ご両親を亡くされてますのよ」
「――へえ」
思わず夏彦の口から漏れたのは、そんな言葉だった。
同情の言葉でも気まずさを誤魔化す言葉でもなく。
ただ、単純に意外だった。
何故なら。
「あの生徒会長に、そんな背景があるなんて意外ですね。この世の陽の部分を全部集めたような人だと思ってました」
「それ、彼が聞いたら喜びますわ」
くすくすと笑うと、
「コーヒーごちそうさま」
優雅に一礼すると、月は屋上を去っていく。
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