その日の授業が終わると、アイリスはひょこひょこと夏彦に近寄ってくる。
「さ、さ、ソレでハ行こう、イざ、第三料理研究部へ!」
嬉しげに飛び跳ね、そのたびにポニーテールがぴょこぴょこ揺れる。
律子さん呼ばないと。
夏彦がそう思って携帯電話を取り出すと、律子からメールが入っている。
会の仕事が入って残念だけど料理研究会に行けなくなった、という内容だった。
内容は。
「うっ……」
内容を要約すればただそれだけのメールだが、実際にはかなりの長文メールだ。
『本当に残念だけど会の仕事が入っていていけません。残念ですけど会の仕事に行きます。でも本当に凄い行きたかったんです。本当です。でもどうしても仕事を抜けることができずに行けないんです。本当は夏彦君と一緒に行きたいのですが――』
いくらスクロールしてもメールが終わらない。
内容に比べて文章が長すぎる。ほぼ同じ内容が何度も繰り返されている。
「えーっと……そうだな、行くか。律子さん、ちょっと外せない用ができたから行けないだってさ」
なるべく怖いことを考えずに済むように、夏彦は切り替える。
「おヤ、そレハ残念」
アイリスは眉を寄せて、本当に残念そうな顔をする。
そうして、二人で第三料理研究部に向かう。
アイリスの案内で連れて行かれて、夏彦は驚く。
向かっている方向が想像していた方向と違ったからだ。てっきり、家庭科室にでも行くのだと思っていたら、向かう方向は校門の方向だ。
「あの、第三料理研究部の部室って、どこ?」
ついに校門をくぐるにいたって、かなり嫌な予感がしてくる。
「学園カラは部室をいたダイテないから、部室ハ外にあルヨ」
「外?」
学園外って、どういうことだ?
「具体的ニハ、寮のあタシの自室」
ひどい話だな。
夏彦は頭を抱える。
部室を与えられてないって、どういうことだよ。本当に、そんな部活動で料理をちゃんと勉強できるのか?
前途多難な気がしてきた。
「どウゾ」
と促されて、夏彦はおずおずとアイリスの部屋に入る。
女の子の部屋に入るのは初めてなので多少緊張しながら、部屋に足を踏み入れる。
せっかくだから「さすがに女の子の部屋だけあってピンクが多いな」といういかにもな印象を持ちたかったが、全然そんなことはなかった。
むしろ、夏彦の部屋と比べても殺風景だ。必要最低限のものしかない。
「な、なんて殺風景な」
思わず夏彦が口を滑らすと、
「ロボットでスカら」
とアイリスは平気な顔だ。
「さ、どうぞ座っテ」
と座布団も何もひいてないフローリングの床にそのまま座るアイリスにつられて、夏彦もその場に腰を下ろす。
そして、二人きりで向かい合って座ったまま、黙る。
「……他の部員は? 後何人来るんだ?」
沈黙に耐え切れずにそう言葉を出すと、
「あと一人、もウスぐあタシの幼馴染が来ルヨ」
「えっ、お、幼馴染?」
思わず夏彦は聞き返す。
しかも、あと一人?
「ソうだよ――アっ、入学前ノコとを話すのは、あンマりよくナインだっけ?」
「いや、そこじゃない、そこじゃない……ちなみに、幼馴染って、男?」
「うン、男だけド?」
「帰る」
夏彦は立ち上がる。
「ちょ、ちょット、突然どうシタ?」
慌ててアイリスはその手を掴んで引き止めてくる。
「いやだよ、お邪魔虫になるだろ、俺。幼馴染の男女二人きりの間に乱入とか、どういう罰ゲームだ」
「いやイや、気にしナイから、あタしは……それに、あイツとは、そんなんじゃないシ」
言いながらアイリスの頬は少し赤く染まりつつある。
絶対まんざらでもないじゃないか。
夏彦はうんざりする。
カップルののろけに付き合わせるのはやめてくれ、頼むから。
ずるずるとアイリスをひきずってドアに向かいながら、夏彦は必死で腕を振りほどこうとする。
「お前が気にしなくてもこっちが気にしるし、大体今から来るその男が気にするかもしれないだろ。というか、その男は俺を入部させることに何も言わなかったのか?」
「え? マダあいツには何も話しテないけど」
「最悪だ」
絶対、修羅場になる。
これからの展開を想像して夏彦は憂鬱になる。
少なくとも絶対に男の方はこちらに対してむかつくだろう。幼馴染との二人きりの部活に、突如として現れる見知らぬ男。嫌だ。絶対に嫌だ。
何とかして掴んでいる手を振りほどこうと、夏彦はアイリスと揉み合いになる。
そうやって二人でぐだぐだとしていると、軽いチャイムが鳴る。
「あ、あいツだ。おーい、入っテー!」
叫ぶアイリス。
慌てる夏彦。
入って、じゃないだろう。どうしてこのタイミングで。
「お前ふざけんな! いいから離れろ、分かった、帰らないから、帰らないから離れろって!」
叫びながら今まで一番激しくアイリスと揉み合いになっている最中に、ドアが開く。
「……何、してんだ?」
きょとん、とした顔で男子学生が顔を覗かせる。
背が高い割に童顔の男子学生は、タッカーと名乗った。いつもにこにこと笑っている感じのいい男だ。
アイリスとは幼馴染だが、二人が共にノブリス学園に入学したのは偶然だということだった。
「俺も驚いたんだよね。入学してから、電話で久しぶりに話してたらこいつもノブリスだって聞いてね」
あはは、とタッカーは屈託なく笑う。
ちなみにアイリスはさっそくまずは一品つくってくると言って寮の調理室まで出かけているので、部屋には夏彦とタッカーだけだった。
「で、あいつが料理研究部を作りたいっていうから、協力してやったんだね。別に他に入りたい部もなかったしね」
「どうして、わざわざ二人で新しい部を作ったんだ? もともとある第一とか第二料理研究部に入部すればよかっただろ?」
根本的な疑問を夏彦は投げかける。
というか、これで「二人きりで料理を作りたかったから」という理由だったら俺はどんな顔をすればいいんだろうか。
夏彦は戦々恐々とする。
「そりゃ、アイリスが嫌がったからなんだね。見学に行ったみたいなんだけど、どうも雰囲気がよくないというか、もっと和気藹々と料理を作りたかったみたいだね」
「あー……」
ノブリス学園において、やる気のない人間はそもそもクラブに入らない。そして、やる気のある人間は、この学園においてはイコール競争心の強い人間といっても過言ではない。おそらく、それは料理研究部のような部活動でも一緒で、常に部員同士で競争を強いられるような雰囲気だったのだろう。
楽しく料理をしようという人間がそれに違和感を覚えたのは夏彦にも理解できり。
「あいつは、料理も食事も、人と一緒に楽しんだ方がいいって考え方なんでね。だから夏彦が入部してきてとても嬉しがってるね。ありがとう」
礼まで言われて、夏彦は戸惑う。
「いや……その、ぶっちゃけた話、幼馴染と二人きりで部活やってたのに、俺みたいなのが入ってきて、不満はないのか?」
「全然。そっちこそ、何も知らされずに入部させられて戸惑ってるだろうね。すまないね。アイリスは変わってるけど、友達は多いタイプなんだよね」
そりゃあ初対面の俺の食事についてくるくらいだからな、と夏彦は思う。
「ノブリス学園でも最初、沢山友達作っては第三料理研究部に誘ったらしいんだけど、詳しいことを話したら誰も入部してくれなかったんだよね。だから、多分今回は夏彦に詳しいこと言わずにつれてきたんだと思うんだよね」
「そりゃあそうだろうな。俺だって最初に、異性の幼馴染と二人でやってる部だって知らされてたら絶対来なかったぞ」
だってほとんど罰ゲームじゃないか、と夏彦は内心で付け加える。
「ところでね、夏彦」
ふ、とタッカーの顔から笑顔が消えた。真剣な顔になると、幼い印象のあった顔が一気に大人びる。
「君、司法会の夏彦だよね」
「――あんた」
どこかの会の人間か、と理解すると瞬時に『最良選択』を使用する。同時に、すぐに立ち上がり飛び退けるように体の重心を後ろにずらす。
「有名だよね、あの裁判暴動事件で。こっちにも噂は伝わってきてるんだ。改めて自己紹介するとね、俺はタッカー。外務会に所属してるね」
外務会か。
夏彦はすぐに副会長であるクロイツの顔を思い浮かべる。
「もう知ってるかもしれないけど、アイリスは会には所属してないね。真面目で優秀だけど、単純な奴だからね。学園のことをコロっと信じて、裏があるなんて思ってないね。一般の生徒で会や政治闘争には関係ないから、その点はよろしくね。俺のかわいい幼馴染を変なことに巻き込まないでね」
これまでの笑顔からは想像もつかないような真剣な顔と静かな声だ。
「――分かった」
一瞬の逡巡の後に、夏彦は答える。
逡巡の理由は、迷ったためではなく、絶対に何があっても巻き込むまいという強い決意を内心に刻んだためだ。
そんなことに巻き込むのは、自分の憧れてるエリートのすることじゃあない。
「お待タせー」
そこに、相変わらずの妙なイントネーションな言葉とともに、アイリスが鍋を持って部屋に入ってくる。
結構いい匂いがする。
甘辛い、醤油ベースの匂いだ。小腹がすいているのもあって、その匂いで自分の胃が刺激されるのが分かる。
段取りが分かっているらしく、タッカーは立ち上がると食器棚らしき家具から皿や箸を取り出し、てきぱきと並べる。
「これコレ、自信作ヨ」
そう言いながらアイリスがちょっとずつ皿に配り入れたのは、なすびの煮付けだった。なすびが、薄い豚のバラ肉とともに煮られて黒っぽくなっている。
「ほー、これが……」
夏彦は唸る。
普通に美味そうだ。アイリスは伊達に料理研究部なわけではないらしい。
「それじゃ食べるかね」
「うン。どウゾ召し上がレ。でも、夏彦君はチャんとグルメレポーターやってね」
「えっ」
普通に食べさせてくれないのか。
まあいい。
「いただきます」
そう言ってなすびを口に入れる。
「ふむ……」
もにゅもにゅ、という柔らかい食感を楽しむ。
「どウドう?」
「そうだな、まず柔らかいな。かなり柔らかい。そして、煮物にする表現としては似つかわしくないかもしれないが、ジューシーだ。口の中で旨味を含んだ汁があふれ出てくる。そして、醤油を含んだ煮汁で煮付けられたための黒っぽい見た目、その見た目からは濃い味付けを想像するけど、実際はそんなこともなくてむしろ甘辛さは控え目だな」
かちかちになるまで煮込まれた薄いばら肉を夏彦は箸で取り上げる。
「むしろ、味の主役はこっちだな。といっても、この肉自体がうまいわけじゃあない。見た目通り、この薄い豚バラの三枚肉はずっと煮られてぱさぱさのかちかちだ。けど、その分、肉の味、旨味がしっかりと出て、それが細かく切れ目を入れられたなすびに染みこんでいる。だから、なすびを食べると、甘辛さとなすび本来の味と一緒にしっかりとした肉の味も染み出してきて、野菜を食べているとは思えないような満足感が得られる」
そうして次々となすびを口の中に放り込む。
「うーん、この煮物だけを食べるならこれくらいの味付けがベストだろうね。いくらでも食べられる。逆に、ご飯のおかずとしては、もっと味が濃くてもいいな」
皿は空になった。
「ごちそうさま……こんなのでいいか?」
「凄いね」
タッカーは素直に感心している。
これは、成長してるんだな、おそらく。
夏彦は自身のことながら、ここまでスムーズにグルメレポーターっぽいことを言えたことに戸惑い、そう結論を出す。
これまで、無茶振りのようにグルメレポーターごっこをさせられたことで慣れて、そういう文章を組み立てるセンス――というより勘が成長したのだ。おまけに、さっきのタッカーの発言のせいで『最良選択』を使用したままだから勘は強化されている。
この能力、こういうことにも使えるのか。
今更だが、ライドウが便利な能力だと言った意味を実感する。
「さスガ、料理コンテストの予備審査員でスネ」
「え、そうなの? 凄いね」
「いや……」
予備審査員って凄いのか、と疑問に思いながら、
「アイリスは出場するんだろ、そっちの方が凄いと思うけど」
「出場は希望すレバ誰でもできルもん、そんなに凄クはないヨ」
「そうだね。アイリス、出場するからには頑張ろうね」
タッカーがにっこりとアイリスに微笑みかける。
頑張ろうね、という言い回しに夏彦は若干の違和感をもつ。
頑張ってね、じゃなくて頑張ろうねってことは――
「出場するのって、アイリスだけなのか?」
「んアわけないでショ。タッカーもデルよ」
やっぱりか、と夏彦は納得する。
「というか、一人じゃ出場できないね。タッグ戦だから」
「あ、そうなの?」
そんな基本的なことを今更知ったくせに予備審査員も何もないもんだな。
我がことながら夏彦は呆れる。
そして、「明日、しっかりと大会について情報収集しよう」と決心する。
大体、まだ大会については知らないことが多い。どうして賞金に一千万円も出るのかも不思議だ。
だけど、とりあえず今日は。
「さて、じゃあ次は僕が作ってくるね。夏彦、ちゃんと感想きかせてね」
煮物を食べ終えたタッカーが立ち上がる。
とりあえず今日は、この二人の料理を味わうことに集中するか。
そう決めて、夏彦はタッカーの作る料理に心躍らせる。
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