薄暗い廊下を、一人の少女が歩いている。
雪村という、ノブリス学園の二年生だった。所属は司法会、監査課。
監査課は、他の会の問題に関わっていく課であるため、厳しい課であると同時に他の会との人脈を作っての出世コースの課でもある。
雪村は、二年生でこの課に配属されたことに満足していた。一年生で配属される者もいるのはいるが、それは毎年一人か二人の、特例中の特例。
ともかく、自分は特別ではないにしても、特別ではないなりにエリートコースを歩んでいる。
雪村はそう信じていた。
その思いが揺らいだのはいつだろうか。
雲水という男が、新入生にも関わらず司法会会長となった時だったか。
いや違う、と雪村は自分で否定する。
彼は、特別だ。何度か会ったことがあるが、会っただけで圧倒される。彼は人間ではなく、とてつもなく巨大な岩か、大地そのものだ。世界が、気まぐれで生み出してしまった人間外のもの。
特例中の特例、そのまた更に特例だ。それと自分を比べて、自分がエリートコースを歩いているのかと疑問を抱くようなことはしない。
だから、きっと、このドアの奥にいる男が原因だ。
雪村は立ち止まり、ドアをノックする。
そのドアには、監査課の課長補佐室と札がかかっている。
「どうぞ」
すぐに声が返ってきて、雪村はドアを開けて部屋に入る。
「ああ、雪村さん。頼んでおいた書類ですか?」
「はい、どうぞ」
雪村は手にしていた書類を手渡し、そのまま見るともなしに目の前の男を見る。
机で書類を読み始めた司法会監査課課長補佐、夏彦を。
普通の男だった。特徴がない、いや顔にいくつもの生傷があるのが特徴といえば特徴か。まだ治りきっていないらしい。
会の役職者ともなれば、癖のある人間が多い。
雪村の知る限りでも、役職者はくせ者揃いだった。
司法会の会長の雲水は前述の通りだし、監査課課長の胡蝶はやる気のかけらも見せない、いつも眠そうにしている女だ。司法会副会長のライドウは一見柔らかい物腰の付き合いやすい男に見えるが、決して本心を見せることのない油断ならない男だ。逆に、生徒会の会長のコーカは自分の限定能力も含めて全てをさらけ出し、そしてそれでも構わないという強烈なまでの自信家だ。学園長は見た目からして普通じゃない、と主張している。
それらに比べて、夏彦は圧倒的に普通だった。
仕事も、ごく普通にこなしていく。だから、部下からは一緒に仕事をしやすいと好評だ。同じく部下である雪村にしても、その評価に違いはない。一年生という立場から、年上が部下になっていることに対する気後れや気まずさを、ところどころに感じるところもまた、いかにも一般人的だ。超越者ではない。
だが、だからこそ。
そこまで普通なのに、一年生で監査課課長補佐になった夏彦という男のことが、雪村には分からない。ある意味で、雲水のような完全な異端者よりも夏彦の方が恐ろしかった。
夏彦が課長補佐に就任した当初は、一年生でその地位になったということで周りから隠れた反発もあった。
だが、夏彦はそれを業績で押さえつけた。ごく普通に仕事をこなしながら、それでもいくつかの危険な事件、重大な事件については積極的に動き、自分の手で解決することで、年上の部下をいやおうなく従わせることに成功した。
ブルーカンパニー事件、第四校舎銃撃事件、風紀会連続暴行事件。就任してからの一ヵ月ちょっとの間に、夏彦は三つの大事件を優れた手腕で解決してきた。無数の傷を負いながら。
ごくごく普通の、この男が。
「ふむ……ふむ」
書類に目を走らせながら、夏彦は頷いている。
このあまりにも凡庸な態度、様子。
それが、「俺ほど普通の人間でも、この場所まで昇ることができる」と主張しているようで、雪村は居心地悪く感じる。
「相変わらず行政会と風紀会は仲が悪いなあ……この件の担当、サバキで大丈夫なんですか?」
「は、はい……サバキ君は新入生だけど優秀ですし、行政会、風紀会、どちらにもかなり強力なコネを持っていますから。この件に関しては適任かと」
「そうですね。俺から見ても、俺より優秀ですしね……了解しました。じゃあ、このようにお願いします。ああ、そうだ。雪村さん」
「はい?」
「例の外務会の戸籍に関する外部工作、あれの監査は雪村さんが担当するんですよね?」
「はい、そうですけど」
「向こうの担当、記録を見ると雪村さんと入学時のクラスが一緒ですね。部活動も被っている。ひょっとして、ご友人ですか?」
「――ああ」
もうそこまで見抜かれているか、と動揺しながらも、それを表に出さないように努めながら、
「確かに、友人です。けれど、業務に私情を挟むつもりはありません」
「それなら結構です」
夏彦の両目が、ひんやりとした光を帯びる。
「この世界、友情を犠牲にしなければならいことなんて腐るほどありますからね、嫌なもんですよ。俺も友達を殺しましたし」
さらりと、とんでもないことを言って夏彦は書類に印を押してから、雪村に返してくる。
「確かに」
雪村が軽く会釈すると、夏彦は立ち上がる。
「面倒だけど大事な用事がこれからあるんで、部屋閉めますね」
「大事な用って、生徒会の選挙ですか?」
去年のことを思い出して雪村は言う。
この時期には、卒業してしまった生徒会の役員の穴を埋めるための新役員の選挙が行われる。例年では、全ての会がその選挙に関わっていたはずだった。
生徒会の選挙とは、つまり学園の自主性の象徴。実際問題がどうであれ、形式的には学園全体で総力を挙げて尊重、遂行するべきものだ。
雪村の言葉に、夏彦はしかめっ面でため息と共に、
「ええ。選挙管理委員会の方に、監査課からも何人か送らなきゃいけないので……雪村さん、できれば今担当の事件を速やかに片付けて、こっちにまわってもらえないですか? 適任だと思うんですよね」
「分かりました。できるだけ早急に監査が済むように働きかけます」
「頼みますよ」
そうして、雪村と夏彦は二人連れ立って部屋を出る。
部屋の鍵をかけている夏彦の背中を見て、雪村はふと妙なことを考える。
今、後ろから襲い掛かったらどうなるだろうか?
それは下らない単なる思い付きだが、頭の内側に張り付いたように離れなかった。
他の怪物とは違う、ごく普通の男。今、この無防備な背中に襲い掛かったら、しのげないんじゃないだろうか。
ごく普通でありながら僅かな期間に監査課課長補佐まで昇りつめた麒麟児。その男が、今、何かの気まぐれで自分が襲い掛かれば死ぬ。
その妄想に雪村は捕らわれ、頭の片隅で「本当にそうしてみようか」と危険な考えがちらつく。
自分でも意識していないままに、夏彦に向かって、体重を前にかけている。いつでも飛び出せるように。
「――本当に、襲ってくる気ですか?」
だが、その雪村の妄想は、背中を向けたままの夏彦の静かな声で霧散する。代わりに、圧倒的な恐怖が襲う。
「えっ……」
思わず声を出した。雪村にはそれしかできない。
「……ああ、冗談ですか、安心しました」
そう言って、鍵をかけ終わった夏彦は顔を雪村に向けた。その顔には、恐怖と安堵。襲われかけて、それが冗談だと分かった、一般的な人間の表情が浮かんでいる。
一般人そのもの。だからこそ、不釣り合い。
「な、何で――」
混乱した雪村は、自分が何と言おうとしたのかもよく分かっていなかった。
何で分かったのか、何でそんなことを言うのか、それを訊きたかったのだろうか。それとも、どうにかしてシラを切るつもりだったのか。
だが、そのあやふやな質問に、
「勘です」
あっさりと一言で答えて、まだ足が地面に張り付いたように動けない雪村を置いて、夏彦は廊下を歩いていく。
夏彦の姿が消えても、しばらくの間雪村は動けない。
「……はは」
ようやく雪村の口から出たのは、乾いた笑い。自嘲の笑いだ。
雪村は痛感した。
たとえどれだけ平凡に、凡庸に見えようとも。やはり、役職者にまで昇る人間は誰もが普通ではない――自分とは違う、怪物なのだと。
これから、夏彦は選挙管理委員会についての合同役職者会議に参加する。
そのことを考えて、雪村は直接関係ないというのにぞっとするものを感じる。
つまり、各会の怪物たちが一同に介して話し合う、ということだ。間違ってもそんなものに参加したくない。そう考える時点で、自分には役職者になる資格がない、ということなのだろう。
雪村はそう結論付ける。
結局、怪物でなければ会で上に昇ることはできない。
そこまで考えて、雪村は本物の怪物のことを思い出して首を振る。
そうだ、今年はそれだけじゃあなく、本物の怪物までいる。自分たちが監査した特別隔離クラスでの殺し合い、その唯一の生き残りが。
今年は、とんでもない年になりそうだ。
雪村はそう思い、出世しなくてもいいから無事に過ごせるようにと祈る。
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