「さて、じゃあ月先生に連絡しますか」
夏彦は改めて携帯電話から月の電話番号を呼び出す。
だが、中々繋がらず、呼び出し音だけが虚しく響く。
「そう言えば」
ふと、時間つぶしのつもりで夏彦は言う。
「例の殺し屋、雨陰太郎ですか。それだけ凄腕でどこにでも潜入できるなら、見つけ出すのは至難の技ですね。狙われたら諦めた方がいいのかな」
「かもな。ただ……」
男は立ち上がると、言葉を続ける。
「これも噂の域を出ないが、奴がどんな場所にも紛れて誰にも警戒されない理由の一つに、いつでも自然体だというのがあるらしい。だからこそ、奴はあまり自分を隠すようなマネをせず、驚くほど無防備な一面があるらしい。例えば、名前だ」
「名前?」
「ああ、奴は偽名を使う際、雨陰太郎という名前をそのまま使うことさえあったらしい。無防備にも程があるとは思うけどな。さすがに学園に潜入するのにそんなマネはしていないと思うが、案外、雨陰太郎って名前を英語にしたり、逆に呼んだりとか、そんな風な適当な偽名で潜入してるんじゃあないか?」
「さすがにそんな適当なことはしないでしょう」
半笑いで夏彦が言っているうちに、
「もしもし、夏彦君ですの?」
と携帯電話が繋がる。
「あっ、月先生。どうですか、そっちは? こっちは、何とか逃げられました」
「それはよかったですわ。わたくしたちも無事ですの。それで、どこかで落ち合いますの?」
「いや、そのことなんですけどね」
夏彦はついさっきの雲水との会話を思い起こす。
「もう、このまま何とかして学園に戻ろうかと思ってるんですよ。学園で合流って話にしませんか? 月先生たちも、どっちにしろ最終的に学園に合流するつもりでしょう?」
「もちろん。でも、どうやって学園まで行くつもりですの? タクシー?」
「まあ、電車もないですし、さすがに徒歩ってわけにも行きませんからね」
「ちょっといい?」
突然、電話から聞こえる声が変わる。
緋桜のものだ。
「あ、緋桜さん」
「どこまでアタシを信用してるかは知らないけど、外務会が容易している帰還手段のひとつを紹介するわ。それを利用してもよし、しなくてもよし」
「ありがとうございます」
緋桜から詳しい情報を聞いて、夏彦はそれをメモする。
「それじゃあ、学園で」
そう言って緋桜に電話が切られる。
夏彦はメモを片手に、男に顔を向ける。
「いまいち信用できませんけど、外務会の用意してあった方法で学園に行こうと思います。いいですか?」
「わざわざ俺に許可を得るか。律儀な男だな」
男は苦笑する。
「いいさ。自力でのろのろ対処するのと、危険を承知で外務会の伝手で学園に行くの、どっちも危険度で言えば同じようなものだろうしな」
話が決まる。
「さて、で、外務会が用意してある車の場所は教えてもらったんですけど、ここからどう行けばいいんですかね」
夏彦が呟くと、
「なあ、その場所はどこだ?」
と男が訊いてくる。
電話で聞いた情報を夏彦がそのまま男に伝えると、
「ああ、大体の場所は分かった。それなら、そうだな――人通りが多い場所を選んでそこまで行くなら、こっちだ」
男はそう言ってよろよろと歩き出す。相変わらず紙のように顔色が白い。
「お願いしますよ」
夏彦も男に続く。
心の片隅で警戒しながらも、この男のさっきまでの怯え方が演技ということはないだろう、と安心している。
「ええと、こっちか」
びくびくと神経質に警戒しながらも男が進むにつれ、路地がどんどんと広くなり、人の気配もしてくる。
どうやら方向は間違っていないらしい。
「学園か」
気を紛らわせるためか、ぽつりと男が言う。
「学園についたところで、俺は助かるのかねえ」
「そりゃあ、味方はいないですけど……今は、その味方が信用できないわけでしょう?」
「まあな」
金属のケースのことを思い出したのか、男が苦い顔をする。
「とてつもなく怪しい味方に囲まれるよりは、元敵対者の巣に飛び込んだ方がまだマシなんじゃないですか?」
「はん」
自棄になったように大袈裟に頭を振り、
「どっちにしろ地獄だな」
と男が言う。
話しているうちに、大通りに出る。
さすがに夜の3時に近くなり、繁華街とはいえ人通りは多少は少ない。とはいえ、あくまで多少だ。真夜中とは思えないくらいの人通りはある。
これなら敵も襲撃しにくいだろう、と夏彦は少し安堵する。
とはいえ、ホテルでの一件もある。第三者が大勢いるからといって警戒を怠るわけにはいかない。
「よし、ここまで来たらあとは簡単だ。こっちだ」
一方の男は、ようやくまともな道を歩けるようになって安心したのか、歩くスピードをアップさせる。
「この先の中古車店、そこが外務会の協力者ってことでいいんだな?」
ずんずんと歩く男が確認してくる。
「ええ、そうらしいですね。運転手付きで車を手配してくれるらしいですけど……」
「ここを曲がれば、すぐだな」
言って男が道を右に曲がる。
そこで酔っ払いらしきだらしない着こなしをしたスーツの集団とぶつかりそうになる。
「あー飲み過ぎた、やっぱチャンポンはやばいわ」
「ワインと焼酎ってやりすぎっすよ」
酔っ払い同士は会話に夢中で夏彦たちに気づいていない。
「うおっ」
気が急いて、早足で歩いていた男はその集団に正面衝突しそうになり、慌てて立ち止まって避ける。
夏彦は余裕をもってその集団を避ける。
だが。
「っ!?」
不意に嫌な予感がして、夏彦はその場から更に飛び退く。
「……あん?」
「あー……この時間なら、ほら、あそこだ、あのバーまだやってるんじゃない?」
「無理っすよ、もう三時っすよ。それよりカラオケ行きましょうよ」
だが、何も起こらず、むしろ急に跳んだ夏彦を不審そうに見つめながら、酔っ払いらしき集団は去っていく。
気のせいか、と夏彦はほうと息を吐いて、
「……え?」
そうして、目的の中古車店がすぐそこだというのに狭い路地に入ろうとする男を見て驚く。
どういうつもりだ?
「ちょ、ちょっと」
慌てて男を追って、夏彦も路地に入り、
「ちょ……え?」
そして、路地の壁にもたれながら、男がずるずると崩れ落ちるのを目にする。
もたれた壁には、赤く血のあとがついている。
「おっ、ちょっ」
呻き声と叫び声の中間のような声をあげながら、夏彦は倒れた男に駆け寄る。
男の腹部に、深くナイフが沈み込んでいる。傷口から血があふれ出している。
「ちょっと、しっかり、今、救急車を」
くそ、さっきのサラリーマンか。
目の前でみすみす男が刺されるのを見逃したことを、夏彦は歯噛みして悔しがりながら携帯電話を取り出す。
「……よせ」
だが、男がそれを遮る。
白い顔色だが、表情は奇妙なほどに静かだ。
「深いし、ナイフを捻られた。どうせ助からない」
億劫そうに手を挙げて、ぱたぱたと横に振る。
「そんなことより、早く、逃げろ。もう、例の中古車店まですぐだ。さっきの奴ら、仲間を連れて戻ってくるかもしれないぞ」
つうっ、と喋る男の口の端から血が流れる。
「そんな弱気にならないで……ああ、そうだ、まずは応急処置を」
夏彦はかがんで、男のネクタイを取ってシャツのボタンを外していく。それから、傷口をネクタイで縛っていく。
「よせって」
男は弱弱しく苦笑する。
「いい、幕の引き方だ……考えようにとってはな。妙な、組織に入って、色々と後ろ暗いことをして……それで」
血の混じった咳をしながら、男は続ける。
「それで……上に切られて、まあ、この後、どこに逃げようが、ろくな、人生、残ってないさ」
「しっかり。誰だって、生きていれば後ろ暗いことのひとつやふたつやりますって。大きい理想を実現させようとするなら、特に」
夏彦が携帯電話を改めて取り出すと
「くくっ」
血をこぼしながら男は笑って携帯電話を持った夏彦の手を握り押さえて、
「本当に、馬鹿だな、お前。世界がお前みたいだけな人間だと思うなよ。でかい理想なんて、俺は……」
そこで、ふと気づいたように、
「そうだ、お前……夏彦、だっけ、ああ、人の影響、受け易いとか、言ってたな」
夏彦の手を握っている、その男の握力がどんどんとなくなっていくのを夏彦は感じる。
まるで、生命が抜け出すのをそのまま表しているようだ。
「あれだ、今回の件、どうなってるか、見届けてくれ。ケジメって、やつだ」
真っ白い顔の男が、目だけをぎらぎらさせて夏彦を覗き込む。
「なあ、ほら、約束、したら、お前、守ってくれそうだもんな、約束してくれよ、俺が、どうして切られたのか、今回の件、黒幕誰なのか、調べてくれよ」
「――ええ、約束、しますよ」
夏彦は目を逸らさず、逆に男を見つめ返す。
「約束します」
もう一度、言う。
「お前に、約束されたなら、安心だな――頼むぞ、ケジメ、つけてくれ、このままじゃあ、よ」
そこで、血を噴き出しながら男は無理矢理体を少し起こして、
「あれだ、いわゆる、死んでも死に切れないから、な」
力尽きたように、そこまで言って男はまた体を倒す。
「……ちょっと、まだ俺、名前も聞いてないんですけど」
言いながら夏彦は脈をとる。
もう、心臓は動いていない。
念のために呼吸も確かめるが、やはり息もしていない。
死んだか。
夏彦は、何となくその場で男の死に顔を見ている。
ついさっき会ったばかりだし、別に味方ですらない。どちらかと言えば、ずっと敵側だった人物だ。
なのに、どうして、そんな人間が死んだだけで、こうも妙な喪失感があるんだろうか。
自分が分からず、夏彦は戸惑う、
「――おっと」
殺気を感じて、立ち上がると同時に体を逸らす。
夏彦の頬をかすめて、銃弾が飛んでくる。
「外したぞ、おい」
「くそっ、運のいい野郎だな」
振り返ってみれば、さっきの酔っ払いの集団が更に数人の目つきの悪い男を引き連れて、路地に入ってきているところだった。
数人は、既に拳銃をこちらに向けている。
「まずいな」
呟く。
死ぬな、このままじゃあ。
逃げるか、と思っていると。
「ばあん」
集団が一気に吹き飛ぶ。
「なっ」
「うおっ」
「ばあん、ばあん」
乱射。
男たちが全員吹き飛んで動かなくなると、ゆっくりと見知った顔が路地に入ってくる。
「……緋桜さん、月先生」
「ああら、その人、死んじゃったの?」
倒れている男の顔を見て、緋桜は困ったような顔をする。
「名前、聞く前に死んじゃったわね」
「夏彦君が無事だったのは不幸中の幸いですわ」
そう言ってから、月は目を閉じて男に対して黙祷する。
「……お二人は、どうしてここに?」
「アタシたち、ここの近くにある別の脱出手段の方を使おうと思ってたんだけど、そっちが駄目になってたのよ、まあ、連絡系統とかも混乱してたから仕方ないけど。それで、どうせだからこっちで夏彦たちと一緒に帰ろうかなって思ってさ」
「ええ、店内で待って、電話でもかけてみようかと思ったところで緋桜さんが突然『様子がおかしい』と仰るやいなや店を飛び出していきまして。驚きましたわ」
「へへ、アタシは夜目が効くし、視力も両方3.0はあるからね。店の中からでも、路地の方がごたついてるのは分かったのよ」
真夜中、店から1キロ以上ある路地の暗がりの異変に気がつくというのは明らかに常人を逸している。
とはいえ、夏彦としてはもうそれくらいで驚く気力はなくしている。
「なるほど」
と相槌を打つだけだ。
「さて、ちょっと気が引けますけど、こいつらはそのままにしてさっさと学園に帰りますか」
緋桜が言う。
「え? 警察とか、呼ばないんですか?」
「大丈夫ですの。店を出る時、店主の方に匿名で通報していただくようにお願いしましたわ。むしろ、早くこの場から離れないと警察に捕まりますの」
月の説明を聞いて、夏彦は慌てる。
「じゃ、じゃあ早く離れないと」
「そうですわね」
「んじゃ、店に戻ってから、我が懐かしのノブリス学園に帰るとしますか」
まるで猫のように俊敏に、言うが早いか緋桜はそのまま路地を飛び出す。
「ああ、ちょっと」
月もそれを追う。
夏彦は彼女たちに続いて路地を出ようとして、その寸前でふと振り返る。
路地の上に転がっている動かない男たち。その先にある、腹をナイフで刺されて死んでいる、顔色の悪い男の死に顔にもう一度視線を向ける。
「ケジメの件、約束しますよ」
最期、男に掴まれた手をゆっくりと男に向けて伸ばして、夏彦はそう言う。
そして、今度こそ、路地を出て行く。
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