最初は、尾行していた。
だが、今や律子は走っている。離れて歩く男子生徒を追って。
気づかれないように尾行しよう、などという夏彦が持っていた意識はもはや全くない。尾行しているうちにその考えは消えてしまった。
何故ならば、律子は直感的に分かってしまったからだ。
今、先を行く男子生徒が、自分を呼んでいることを。誘っていることを。
男子生徒は、そのまま第九校舎の方へと進む。
一般の生徒はほとんど向かわない第九校舎。特別危険クラスの連中が風紀会によって閉じ込められている『牢獄』だ。
あの男子生徒はやはり特別危険クラスの生徒か。
律子は納得して、そうして足を速める。どこにあの男子生徒が向かっているのかは知らない。けれど、あの男子生徒を目的地に着かせてはいけない気がする。
あの男子生徒の目的というものが、ろくなものであるはずがないからだ。
吊り上った目。人を射殺すような眼光。
男子生徒は突然立ち止まると、律子の方を振り向く。
そうして嘲るような笑いを浮かべて、男子生徒は突如として全力で走り出す。
よからぬことをたくらんでいるのは明白だ。
止めなければならない。
それが、風紀会に所属した自分の指名だと、律子は考えている。
律子は、幼い頃から口べただった。人を前にすると緊張して言葉が出ないのだ。また黙っていると人に緊張感を与えるような外見だったため、人からは敬遠された。
両親とすらうまくコミュニケーションがとれず、一人悩んだ律子は喋る練習と準備をするようになり、それが文章を読み上げているような喋り方の原因となって、余計に敬遠された。
そんな中、小学生となった彼女が衝撃を受けたのはある少年漫画だった。
その少年漫画の中では、喧嘩をしていた少年同士が友達になっていた。殴り合いが、一種のコミュニケーションとして成立していた。
これだ、と律子は思ったのだ。
格闘技を習いたい、という律子の突然の申し出に両親は困惑した。元から、少々何を考えているのか分からない子どもだったが、もうここに至ってはまるで理解できない。
結果として、近くにある古い剣術道場に通わせることになった。そこには僅かながら律子と同年代の子どももいて、その方が律子の教育にもいいだろう、という両親の判断だった。
格闘技ではないが、剣術の道場に通えるようになった律子は狂喜した。そうして、これでコミュニケーションを行えると無邪気に信じた。
良質のコミュニケーションのため、必死で稽古をして、そうして誰よりも練習試合を繰り返した。防具の上からとはいえ、全てをぶつけるつもりで竹刀を相手に振った。
普段の無口で人に緊張感を強いる佇まいと、常軌を逸した剣術への取り組み姿勢。
それは律子を畏怖の対象にして、人々により敬遠させた。
律子は、剣術ではあんなにコミュニケーションをとっているのにどうして仲良くなれないのだろう、と首を傾げた。
状況が変わったのは中学に入った頃。
律子が学校の部活でも剣道部に入り、顧問の先生と互角に打ち合っていた頃だった。
ある日、部活の帰り、日の暮れた中を帰る律子と数人の同じ剣道部員。駅で電車を待っている間に、同じように電車を待っていた別の中学の男子学生たち、それもかなりたちの悪い学生たちに、要するに不良に絡まれたのだ。おそらく、私物である竹刀、木刀を持って帰るところだった律子が目立ったためだろう。
そんなもの振り回して強いのかよ、と絡んできた男子生徒たちを。
律子は木刀で半死半生の状態になるまで打ちのめした。そこまでした理由は、単純に怖かったからだ。因縁をつけてくる男子生徒たちが、防具をつけていない状態が、そして暴力が。
そうして、冷静になって、半死半生の男子生徒たちと、怯える部員を見て。自分の暴力に何よりも恐怖した。
結局、その事件が元になって律子は剣道部を辞めた。
その事件以降、律子は自宅の庭で木刀をひたすら振るようになった。自室で正座をして精神統一もするようになった。
心技体ともに強くなりたかったからだ。何があろうとも余裕をもてるくらい強ければ、何があろうとも怯えないくらい強ければ、もうあんなことは起きない。
律子は、自らの暴力を律しようと決心した。
そして、剣術をコミュニケーションの道具とすることをやめ、自らの口で人に思いを伝えるように努力した。結果として、うまく喋れないながらも人に自分の気持ちを自分の言葉で伝えられるレベルにはなった。
一方で、律子は学校であろうとどこであろうと、過剰な暴力を振るう人間を絶対に許さないようになった。自らが暴力の恐ろしさを実感していたからこそ、許せなかった。
上級生であろうと教師であろうとヤクザであろうと、誰であれ過剰な暴力を振るうものには注意した。そして逆上して襲い掛かってくるものは容赦なく打ち据えた。もちろん、手加減はしてだ。
それでも、手加減されている限り、何度やられても注意されても暴力を振るい、あるいは復讐のために律子に襲い掛かってくる奴らもいた。
暴力を振るうことに何の抵抗も疑問もなく、それをする連中。自らの凶暴性を抑えることができない連中。獣のような奴らだ。
そんな奴らに対しては、律子は再起不能にするつもりで木刀を振るった。それで自分が捕まっても、それでもいいと思っていたのだ。ここで中途半端なことをすればまたこの相手は誰かに理不尽で過剰な暴力を振るうし、下手をしたら律子の家族に対して復讐をするかもしれない。だから徹底的にやる。
過剰な暴力を理不尽に振るう者たちを正す、そして正せないものは暴力を振るえないようにする。それが自分の使命だといつしか律子は思っていた。
そんな律子が、命を落とさず、警察にも捕まることなく生きてこれたのは奇跡だろう。とはいえ、両親は律子に対して怯えていたし、どの学校も律子を受け入れたがらなかった。
両親から離れて、なおかつ自分の居場所となりえる場所はどこか。
探した結果、律子にはノブリス学園しかなかったのだ。
これまで律子が目にしてきた、理不尽に過剰な暴力を振るうことを躊躇わずそのことに何も思わない怪物。男子生徒もその類だと律子は確信していた。
律子は男子生徒の後を追った。男子生徒は、第九校舎の横を通り、裏門から学園を出て行く。
「……裏門?」
律子は訝しがる。
特別危険クラスは隔離されている。また特別危険クラスのみ、出席義務がある。全て、風紀会が彼らを監視、管理するためだ。
そのためには風紀会は人手が必要だ。だから特別危険クラスの中で比較的御しやすく腕も立つ学生を風紀会員に入会させ、そして彼らに特別危険クラスを監視、管理させる。一種の自治をさせるのだ。
それは寮でも同じで、特別危険クラスの学生は同一の男子寮、女子寮に住むことになり、そこも風紀会によって管理されている。
もっとも、特別危険クラスの学生が学園外、そして寮外で勝手に振舞うことを完全に監視、管理することはできない。だからこそ、そんなマネをしてもすぐに捕まって死ぬほどつらいペナルティを受けるだけなのだと、入学式で風紀会は『洗礼』を受けさせるのだ。
さて、とはいうものの特別危険クラスの学生をなるべく他の学生とは関わらせたくない、というのが学園の意思だ。
だから、ノブリス学園の第九校舎の傍には、裏門と言われる校門がある。その門の先には特別危険クラスの寮しか存在しない。それによって、通学帰宅の際に少しでも特別危険クラスの学生とそれ以外の学生の接触を減らそうとしているのだ。
つまり、さっき男子生徒が通った門の先には、寮しかない。そしてその寮は、風紀会の監視、管理の元にある。
悪巧みをするには、もっとも適さない場所のひとつなのに、どうして?
律子は疑問に思いながらも、裏門を通って追う。
男子生徒は、男子寮と女子寮のちょうど中間地点、管理棟へと向かう。
――管理棟!?
ことここに至って、律子は完全に混乱する。
管理棟は、風紀会の人間が持ち回りで男子寮と女子寮の監視、管理を行うためのものだ。そこに、奴が向かう?
男子生徒を追って、律子は管理棟に飛び込む。
「くっ!」
管理棟に備え付けてあるエレベーターの扉が、律子の目の前でちょうど閉まるところだった。男子生徒の嘲り笑いが扉の奥に消える。
階段を駆け上がる。
途中、同じ風紀会の顔見知りとすれ違った。助けを求めようか、と律子は一瞬悩んだが、簡潔に伝える自信がない。
それに、あの男子生徒はまだ何をしたわけでもないのだ。怪しいと思われている舞子と一緒にいたこと、そして律子があの男子生徒から獣じみた気配を感じていること、この二つだ。はっきり言って律子に大義名分はない。
大義名分がない、どころか、取調官としての律子はとんでもない規則違反をしている。なにせ、取調べの対象を現場検証として連れ出した挙句、二手に分かれてしまっているのだから。
誰も頼れない、と律子は結論付ける。少なくとも、あの男子生徒が明らかな校則違反をするまでは。
それにしてもあの男子生徒は何者だろうか? この管理棟は風紀会以外は基本的に立ち入り禁止。もし、誰かに見咎められて身分照会でもされたら、と不安に思わないのだろうか?
律子は疑問に思い、そうしてすぐに答えを出す。
答えとして考えられるのは二つ。
あの男子生徒はそんなことを考えもしないか。
そして。
もう一つは、あの男子生徒は風紀会の所属だということだ。
だが、そうなると新しい疑問が浮かぶ。
エレベーターは昇り続ける。
階段を駆け上がりながら、律子はどうやら男子生徒は屋上に行くつもりだろうと予想がつく。
屋上は基本的に誰もいない。
最上階まで駆け上がった律子は、屋上への扉が半開きなのを確認する。
あそこか。
躊躇いなく、律子は屋上に飛び込む。
「――ようこそ」
あの男子生徒が、屋上の中央で、律子を待ち構えていた。
「律子さんだろ、噂は聞いてるよ。刀を使う、風紀会期待の執行人らしいな」
余裕をもって、嬲るように男子生徒は言う。
「……あなたは?」
「俺か? 俺は久々津、久々津信二だ。本名だ、ノブリスネームなんてしょうもないもんじゃない、使ったことねえよ、ノブリスネームなんて。つうか、俺からしてみりゃどいつもこいつも不思議だよ、学校の言われるがまま、会とやらの言われるがまま……俺には信じられねぇな。自分よりも頭の悪い、弱い連中の言うことなんてどうして聞く必要がある?」
久々津はそう言って吊り上っている目を細める。美しい顔が嘲りに歪む。
「……あなた、風紀会?」
対して律子は、表情を崩さず、冷徹に対峙している。
「ああ、俺? 俺は風紀会だぜ、確かに。じゃねえと、気軽にこんなとここれないだろ」
「どうして――誰が一体、あなたを風紀会に」
特別危険クラスから風紀会に入った人間が問題を起こすのは例年のことだ。だからこそ、風紀会は特別危険クラスからの入会希望者をある程度の審査の上で入会の是非を判断する。それでもろくでもない奴が入会してしまうのだが。
いくらなんでも、ここまで危険な雰囲気を出している、隠そうともしていない男を、ノブリスネームを使うことすら拒否するほどに校則を拒否する男を、誰が入会させたのか。
「あ? ああ、くく、そうか、疑問だろうな――俺を入会させたのも、トレーナーもあいつだ、ネズミだよ」
そういうことか。
律子はようやく腑に落ちる。
人事官でもあるネズミなら、この男を無理矢理に入会させることだって可能か。
「あなたたち、一体、何をするつもりですか?」
ネズミや舞子といった元々の会の人間。
秀雄や黒木、そして久々津といった新入生。
彼らは手を組んで、何をするつもりなのか。
「――さあ?」
だが、久々津は首を傾げる。
「誰がどんな役割を持たされてるのか、何のために何をするのか、そんなことは知らない」
久々津は、ゆっくりと後ろに下がる。
「俺が頼まれたのは、混沌を作り出すことだ。できるだけ学園を混乱させること。ただそれだけだ。まあ、その以外は頼まれたってやるつもりはないけどなあ」
律子は、久々津の下がっていく先、屋上の床に何か細長いものが置かれていることに気がついた。
「殴りたい奴は殴る。斬りたい奴は斬る。殺したい奴は殺す。俺はそれをするだけだ」
久々津はその細長いものを拾い上げる。
「結果、学園が混乱してもっとやりたいようにやれるようになるなら、それは俺の望むところだ」
久々津が拾い上げたものは、律子にもなじみの深いものだった。
日本刀。それも、二本。
「今、俺はあんたを斬りたいんだよ、律子さん」
久々津は日本刀を両手にそれぞれ一本ずつ持って、ぶらりとぶら下げる。
ぶら下げられた日本刀はどちらも脇差や短刀ではなく、両手でも慣れないものなら扱うのが難しい太刀だ。
「管理棟の屋上――ここは俺の知る限り、一番誰にも邪魔が入らない場所だ。どうだ、俺と存分に斬りあう度胸はあるか?」
ないだろう、と言いたそうに久々津は笑う。
「――是非もなし」
短く、律子は答えると、
「――『斬捨御免』」
日本刀を出現させる。
目を細めて喜びを隠さずに久々津は、
「――それがあんたの限定能力か。噂には聞いていたが、まるで手品だな。便利なもんだ、日本刀を呼び出すなんて」
そう言って一歩前に踏み出す。
「俺の限定能力、名前だけは教えてやる。『魚歌水心』だ」
さあ遊ぼうぜ、と久々津は律子の懐まで一歩で踏み込む。
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