それはまるで、淡いスポットライトがあたっているかのようだ。
あるいは、その周辺にだけヒカリゴケが生えているかのようだ。
怪物が能力名を告げた途端、彼を中心とした半径一メートル程度、その空間が淡く青白く輝く。
「本当のことを言うと」
青く淡い光に包まれたままで怪物は言う。
「夜明け前に決戦といきたかったのは、この能力が映えるから、というのもあったんだ」
「……『三千苦界』とかいう限定能力のことか」
夏彦の返しに、
「ふふ、理事長から聞いてなかったのかい?」
口だけで怪物は笑う。
「限定能力なんか僕は持っていない。君は、限定能力を改造されて自分の能力に変えたらしいけど、僕は改造される前から人じゃあなかったからね」
踊るように怪物は一歩踏み出す。
「僕の『三千苦界』は限定能力なんかじゃあない。単なる、そう、超能力みたいなものだ。多分、理事長の『それ』に近い」
すいすいと怪物は近づいてくる。
青く光る空間と一緒に。
あの、淡く光る空間に入るのはまずい。
夏彦は直感する。
「近づくなよ、プーラナ・カッサバ」
夏彦は地面のアスファルトを踏み割る。
そうして、衝撃で浮かぶアスファルトの破片を掴み取り、
「しゅっ」
全身のバネを使うようにして、それを投擲する。
だが、
「む?」
その光景に、夏彦は疑問の声をあげる。
銃弾の如きスピードで放たれた破片は、確かに真っ直ぐに怪物の胴体の中心に突き進んだ。
もちろん、それがそのまま当たるとは思っていなかった。
しかし、怪物がかわそうともしないのはどういうことか。
そして、動かない怪物を、破片の方が自ら避けていく。
「マジかよ」
夏彦は呻く。
あれは、まずい。あの空間に入るのは、確実にまずい。輝いた空間に入った途端、破片の軌道が曲がったように見える。
入りたくはない、が、怪物はすいすいと近づいてくる。
既に射程距離内。今にも、夏彦の体が輝いている空間に入る。
「ちっ」
舌打ちと共に、夏彦は後ろに跳ぶ。
だがそれ以上の速度で怪物が迫る。
覚悟するしかない。
夏彦は腹を決めて、
「しいっ」
蹴りを繰り出す。
夏彦の蹴りは、淡く光る空間を突き進み怪物の首元に向かう。
「ぐっ、あっ、やっぱり、か」
夏彦は苦痛に喚く。
めりめりと音を立てて、夏彦の蹴りはあらぬ方向へと曲がる。
脚が破壊されながら捩れていく。
当然、蹴りが怪物に命中することはない。
「くそっ」
軸足の方で、夏彦は後ろに跳ぶ。
「う、あっ」
光る空間から逃れるが、片足は滅茶苦茶に壊れたままだ。
さすがにここまで壊れては即座に再生することはない。
片足立ちするようにして、夏彦はバランスを保つ。
「ふふ」
なおも、更に近づこうとする怪物。
「このっ」
夏彦は、まだ壊れている方の脚で、もう一度蹴る。
「ぐうっ」
やはり、蹴りの軌道は逸れる。
そして、捩じ切られるかと思うほどに壊れかけの脚が更に壊れていく。
だが、ここまでは想定内だ。
「があっ」
拳を、怪物の側頭部に向かって打ち込む。
「――っ」
脚の方に目を向けていた怪物が、拳に気付いて目を向け直す。
「ぐっ」
拳の軌道もずらされ、音を立てて腕が破壊されていく。
だが、少しだけ遅かった。
既に、夏彦の拳はかろうじて怪物の側頭部に触れている。
「があああああっ!」
気合と共に、夏彦は壊れかけた腕で拳を打ち抜いた。
「ほ、う。やるな」
めしり、と音をたてて頭蓋骨を破壊された怪物は、よろよろと後退する。
目と鼻、口から血をたらたらとたらしながら怪物は微笑している。
ようやく淡く輝く空間が遠ざかる。
夏彦は壊れてしまった片手片足をもてあますように立っている。
「い、てぇ」
思わず、といった感じに夏彦は呻く。
多分、改造される前だったら気が狂いかねないような激痛。
だが、精神まで改造された夏彦は痛みを感じながらも冷静に判断する。
この壊れ方。通常だったら切断するしか方法がないような壊れ方をしてしまった手足は、おそらくまともに動くように再生するのに時間がかかる。
だが、その価値はあった。あの空間。あの空間に入ったものは、軌道をずらされ、破壊されるようだ。だが、それは能力者である怪物の意識があってこそ。
怪物の意識の外から攻撃すれば、その攻撃は通る。
とはいえ、気付かれた瞬間にすぐに軌道はずらされ始めたが。
「いい目だ、考察しているね、僕の能力を」
そんな夏彦の心を読むように、怪物が笑う。
既に、砕かれた側頭部は再生し始めている。
いくらなんでも、早すぎる。
夏彦は愕然とする。
怪物の再生速度は、明らかに夏彦のそれを上回っていた。
「多分、君の考察通りだ。別に隠すようなことじゃあないし、知っても対抗できるようなものでもないから、教えよう。僕の『三千苦界』は、範囲内にある全てを自由に動かせる。それを利用して、今みたいに人の体を引きちぎることだってできる。なかなか、いいだろう?」
「無茶苦茶だな。限定能力の範疇じゃあない。一人だけ、強力すぎる」
「だから言ったじゃあないか。僕のは、限定能力じゃあないって」
とうとう、怪物の後頭部は完全に再生した。
一方の夏彦の手足は、見た感じはどうにか治ってきているが、まともに動くにはまだまだ時間がかかりそうだ。
まずいな。
夏彦は舌打ちしたいのを耐える。
「さて、正念場だな」
男の声がする。理事長の声が。おそらくは、俺の頭の中だけで。幻聴か。
「あの能力で、脳を粉々にされれば、さすがに人間をやめたお前も再生できない。死が訪れる」
「逆に言うと、脳を粉々にされないと死にはしないってことか。つくづく、人間じゃあないんだな、俺は」
諦めの色を滲ませながら夏彦は言う。
傍から見れば独り言だ。
「そしてそれは敵も同じだ。怪物も、脳を粉々にしなければ殺すことはできない」
「殺す気はない」
「証明しろ」
「やかましいな」
「理事長との会話ばかりしないでくれよ、妬けるな」
怪物がにこやかに言いながら、何の気負いもなく距離を詰める。
「……くそ」
小さく、夏彦は悪態をつく。
作戦が何も思いつかないし、そもそも。
『最良選択』が、打つ手がないと教えてくれていた。何をしても、勝てないと。
それでも、諦めて死ぬわけにはいかない。
歯を食いしばって、夏彦は怪物を迎え撃つ。
だが、やはり、『最良選択』の通り。
ことごとく無駄に終わる。
無事な方の拳。軌道が逸らされ、破壊される。
その拳を囮にしての蹴り。だが、もうそんな手は通用しない。避けられ、そして脚も捻じられる。
苦痛に呻く夏彦の胴体に怪物の拳。簡単に夏彦の体は宙に浮き、内臓が裂け、背骨がいかれる。
苦悶の叫びと血を吐く夏彦。その夏彦の頭も、既に輝く空間の内部にある。めりめりと、自分の頭蓋骨が砕けていく音を夏彦は聴く。
そして、脳が破壊されていくという実感。
叫びながら夏彦は体を捻じりながら飛んで、何とか頭を怪物の能力範囲から外に出す。
その代わりに無防備になった夏彦に向かって、怪物の蹴りが飛ぶ。
肩に命中。肩の骨は砕ける。
能力で腕が捩じ切られそうになる。
叫びながらの反撃。蹴り。逸らされ、破壊される。
それでも、夏彦は諦めなかった。
全力で思考し、全力で集中し、全力で抗った。
人間ならば致死量の血を吐きながら、人間ならば何度も発狂するほどの苦痛を味わいながら、人間ならば既に致命の傷を負って。
それでも跳び、避け、拳を突き出し、蹴りを放ち、噛み付きさえしようとする。
獣のように、血に塗れ、満身創痍のままに夏彦は叫んで暴れる。
「それで、どう思う?」
夜明け前のファミレス。
もう、店員が立ったまま眠りかけている店内に、客が二人。
一人は、虎。相変わらずの不敵な笑みを浮かべている。
もう一人は、つぐみ。眼鏡の奥の目は、憂いを秘めている。
「どうって?」
物憂げにつぐみは髪をかき上げた。
「あいつのことだよ、夏彦。様子おかしいだろ、最近」
「そうね」
「勝てると思うか? ま、何と戦ってるか知らねえけどよ」
「勝つんじゃないの? 今までだって、勝ち続けて、出世したわけでしょ」
「そうかな。だって、あいつ、死相出てるぜ、今回」
虎の言葉に、つぐみは黙る。
彼女自身、それを感じていたのかもしれない。
「……それで? そんなことを話すために、私をここに呼び出したの?」
「ああ、違う違う。そっちもこっちもそんなに暇じゃねえだろ」
虎は、ぐいと顔をつぐみに寄せた。
「一つ、密談があってな。どうだ? 会を越えて、同盟といかないか?」
「え?」
つぐみはようやく憂いを秘めた表情を崩し、驚きに目を丸くする。
「こんな混乱してる状況だからこそ、だ。のし上がるチャンスだぜ」
「どうかしら? そもそも、学園が存続するかどうかも微妙じゃない」
「まあな。けど、リスクがなきゃチャンスってのはないもんだぜ」
「結局、美味しいところは全部夏彦君が持っていくかもしれないわよ? 今までだって、そうだったじゃない」
つぐみのセリフに、虎はどこか寂しそうに笑って、
「今回はどうかな。言っただろ、死相が出てるってよ」
そうして、夏彦は動きを止める。
結局、精も根も尽き果て、両手両足が完全に破壊され、夏彦がついに動くのをやめて地面に転がるまでにかかった時間は、5分間だった。
怪物と夏彦との戦力差を考えれば、そこまでもったのが不思議なくらいだ。
「……あ」
夏彦は、倒れたまま、口を開けて声にもならない空気を、血と共に吐き出す。
右腕は、ほとんど肘で千切れかけていた。指も手の甲も、全て骨が折れ、無茶苦茶に捩れている。
左腕は捩れ方は多少はマシだが、それでも壊れていることに違いはない。おまけに、肩が砕かれ、骨がところどころから突き出している。
両足は、ともに曲がってはいけない方向に曲がり、太股の辺りから骨が折れているのが外から一目で分かる状態だ。
胴体も無事ではない。幼稚園児が作った粘土細工の人形のように腰の辺りは捩れているし、肋骨は砕かれて心臓と肺に突き刺さっている。背骨も折れているらしい。
そして、頭にも当然ながらダメージがある。
左目は駄目になっている。右目だけが、血涙を流しながら虚しく怪物を睨んでいた。
「が……あ」
口からは意味不明な呻き声。
喉を壊されているし、そもそも。
今の夏彦には、何か言葉をつくることができなかった。
脳の一部を破壊されたらしかった。
考えがまとまらない。
夏彦は、今自分がどういう状況で、何をしているのかも曖昧だ。
ただ、何となく惰性で近づいてくる怪物を右目で睨み、意味もなく血と呻きを吐いている。
さすがにここまで徹底的に破壊されれば、再生能力も落ちるらしい。さっきから夏彦の体はほとんど再生していない。
何も分からない。
唯一、夏彦の脳裏を過ぎるのは、ただひたすらに疲れている、ということだけだ。
そう、疲れていた。
もう終わりでいいか。
夏彦の頭の片隅で、そんな声があがる。
終わり? 何を?
その自分の脳の片隅の呟きの意味すら、今の夏彦はよく分からない。
ただただ、疲労だけがある。苦痛すら、もはやない。
「頑張ったね」
近づいてくる怪物は、呼吸を乱すこともなく、傷一つ負っていない。
傷が回復したのではない。
あの5分間に、一撃も夏彦の攻撃は怪物に当たることがなかった。ただ、それだけのことだ。
「終わりだ」
怪物が呟いて、近づいてくる。
淡く輝く空間が、ゆっくりと倒れた夏彦を飲み込もうとする。
意味もなく、夏彦の右目はそれを見上げる。
ふと、視界の端で、夏彦は光を捉える。
ああ、夜明けか。
何故か、そんなことだけ夏彦は思う。
夏彦の思考はまとまらない。
疲れた。
よく分からないが、ともかく、疲れた。
夜明けか。
夜明け。
終わり、か。
そうして、夏彦の意識は拡散する。
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