夏彦は、目の前の光景に瞬時に反応できない。
「おっ」
夏彦が無意識のうちに声をあげ、足に力を入れようとしたところで、大倉の拳が胴に突き刺さる。
「ぐ」
瞬間、夏彦は間近で大倉の顔を見る。
血だらけで、白目を剥いている顔。おそらく完全に意識はない。
もはや、本能のようなもので暴れているだけだろう。
ふわり、と夏彦の体が浮く。
胴体にはいった攻撃、その衝撃で夏彦の体が宙に浮いている。
痛みは感じなかった。ただ、肋骨があげるみしみしという音が、身体の内部で響いた。
まさか息を吹き返してくるとは。相手は死にぞこないとはいえ、これはまずいか。虎もいるから、実質的には二対一か。
宙に浮いたまま、口からこぽりと血をこぼしながら夏彦は冷静だ。
身体を宙に浮かすほどの攻撃、確かに凄まじい。しかし、この感触、おそらく腕は折れている。折れている腕でこんな攻撃をしてくることが脅威だが。
ずちゃり、と夏彦の足が床につくと同時に大倉が二撃目を繰り出す。
「あああああ」
大倉の叫び。叫ぶことすら体に無理をしているのか、叫びと一緒に血が流れ出る。
獣のような叫びと共に、大倉が拳を振り下ろす。
折れた手足、いかれた身体、失われた意識、それにも関わらず、相変わらず大倉は脅威だ。
暴力の天才。化け物。そんな表現でも生易しい。人間と思っていたのが間違いだ。大型の肉食獣とでも思っていればよかった。獅子を相手に、素手で挑む奴はいない。拳銃を持っていたって怪しい。猟銃や機関銃、できるなら重火器ぐらい欲しいところだ。
振り下ろされた拳を夏彦は避けようとする。
だが、避けきれない。
虎の言葉を借りれば、もともと常人とは違う殴り方であるうえに、体が無茶苦茶な状態のため、攻撃の軌道が更に不規則なものになっている。回避するための「読み」が全く通用しない。
拳が夏彦の側頭部をかする。
「おっあ」
ぐにゃり、と大倉の姿が歪んだ。
限界を超えて大倉の体が滅茶苦茶になったか、と夏彦は思ったが、すぐに違うことに気づく。
これは、俺の視界が歪んでいるだけか。
がくり、と勝手に片膝が落ちて床に着く。
夏彦は大倉を見上げる形になった。その見上げた先の大倉の姿は、ぐにゃぐにゃともう原型をとどめていない。
どうする?
ふと、夏彦は意識の隅で虎のことを気にする。
奴は乱入して来ないのか?
来ないだろうな、とすぐに結論が出る。こんな暴走した機械みたいな状態の大倉に近づいたら、虎も一緒に殴られるだけだ。今の大倉に、相手を選ぶ能力があるとは思えない。
だとすればこいつだけに意識を集中すればいいのか。
「くっ」
視界が歪み体にも力が入らないまま、夏彦は完全に勘だけを頼りに斜め前に飛んで転がった。
今度は右肩をなにかがかする。おそらく蹴り。
びりびりと衝撃が走り、右腕が痙攣する。
だが、かわせる。
そのまま転がり続けると、どんと何かにぶつかった。
死体か。
起き上がって大倉に向き直る。大倉からは何とか距離をとれていた。視界の歪みも戻りつつある。体に力を入れる。ちゃんと、動く。いける。
だがどうすべきか。
向こうが満身創痍とはいえ、こちらも大分ダメージを負っている。はっきり言って、勝てる気がしない。
虎の話が事実なら、大倉は放っておけば回復していく可能性がある。時間が経てば不利になるか。いや、待て。虎の話が、事実なら、だ。
夏彦は限定能力のことを失念していたと気づく。
そうだ、虎の限定能力は『虚言八百』。嘘を信じさせる能力。
もし、あいつが時間稼ぎに喋っていた本当らしきことが、全て嘘だったらどうする? いや、だが勘では奴の話が嘘だなんて感じなかった。俺の強化された勘と奴の限定能力、どちらが優先されたかという話か?
いや、何か。何かがおかしい。
「もう終わりだな」
瞬時のうちに様々なことが頭をよぎった夏彦の耳に、虎の声が入ってくる。
終わり? いや、終わってたまるか。
夏彦は立ち上がり、自分から大倉への距離を詰める。
「があっる」
血と共に吼えながら、大倉は夏彦を迎撃しようと蹴りを出す。
「ちっ」
避けず、防御しながら夏彦は前に出る。
今の大倉の攻撃なら耐え切れる。ここは、一撃でも多く大倉に攻撃を入れないと。
そして、夏彦のガードの上から大倉の攻撃が炸裂する。
「ぐぐうっ……」
その衝撃を防御して耐え切る。痛めた肋骨に響いて、それまで受けた全身の傷の痛みが一気に吹き出る。
それら全てをかみ殺して、夏彦は前に出た。攻撃範囲内。
「しっ!」
明らかに折れかけて、曲がってはいけないレベルに曲がりかけている大倉の首。それに向かって拳を突き出す。
「がっあ」
だが、大倉はそれに反応して、避けるでも防ぐでもなく、
「なっ!?」
その夏彦の拳に向かって、正面衝突させるように拳をぶつけてくる。
「ぐっ」
ぐしゃり、と音がして、信じられない激痛。
目の前で自分の拳が砕けるのを、夏彦は見る。
向こうの拳もダメージを受けただろうが、元々向こうの拳はいかれてる。拳だけでなく身体全体が。
差し引きでは、こっちが損か。
「ははっ」
横から、虎の耳障りな笑い声が聞こえる。
痛みで視界が赤く染まったが、夏彦は退かない。痛みも奥歯で噛み殺す。
ここだ。ここで一撃入れれば、終わりなんだ。
夏彦は今度は蹴りを首に向かって放つ。
「ぎっ」
それを大倉は肩で受け、血を吐きながらそのまま突進してくる。
強烈なタックル。
夏彦の息が止まった。動きも止まる。
そして、拳。大倉の殺人的ともいえる拳が迫る。
動けない。避けられない。防げない。
死。
くそ、もう駄目か。
死を意識した瞬間、これまでのことが走馬灯のように蘇る。時系列もばらばらに、断片的に。
入学。三人のクラスメイト。ライドウ。料理大会。稽古。限定能力。同意書。ナイフ。刀。屋上。タッカー。胡蝶。アイリス。料理について指導してくるアイリスとつぐみ。
途切れ途切れの映像が、断片的に頭に浮かぶ。
大倉の暴力。学園長との密談。律子と秋山。生牡蠣。虎との会話。つぐみとの約束。廃工場。沢山の死体の山。虎の笑い。血を吐きながら、ゾンビのように吼えて向かってくる大倉。
「ぐおっ」
走馬灯は中断され、背骨ががりがりと音を立てる。
大倉の拳は、夏彦の横腹にめり込んでいた。そのまま夏彦は吹っ飛ぶ。
「ぐううぅ」
苦痛と衝撃、そしてダメージで、夏彦はしばらく起き上がれない。追い討ちには絶好の機会。
「ぐっう……」
だが、殴った方の大倉も無理をしたのか、その場でたたら踏んで、数秒をよろめいてしまう。
「……ら、ラッキー、だな。終わるかと、思ってた」
血を吐き呟きながら、夏彦はその隙に体を起こす。
もう一撃食らったら、多分立ち上がれない。
そう思いながら、夏彦は構えをとる。
その顔は血を吐きながらも、自信に溢れている。
さっきの走馬灯のおかげで、これまで感じていた違和感を総ざらいできた。おかげで、何がおかしかったのか、これからどうすればいいのか分かった。
「しかし、俺も鈍いな。こんな死ぬ寸前にならないと気がつかないなんて」
口の血を拭うと、夏彦は目前にまで迫ってきている大倉を見る。
「大倉さん、今のあんたじゃあ、もう俺には勝てない。動くのをやめて、大人しく休んでいてもらえませんか?」
「ああっがっ」
呻き、叫び、血を吐きながら大倉は止まらない。
言葉が届いているのかすら怪しい。
やれやれ、と夏彦は喋るのをやめる。
「さっきから一方的だな。そろそろ反撃しろよ、夏彦」
にやつきながら虎が言葉を吐く。
確かに、今の大倉は隙だらけに見える。今の俺なら、殺せる。
そう思いつつも、夏彦は動かない。大倉が近づくのを待つ。
がくがくと体を揺らしながら進む大倉が、ついに夏彦の目前に立つ。
「虎」
夏彦は今にも襲ってきそうな大倉を見ながら、虎に呼びかける。
「あ? 何だ?」
自分に話しかけてくるわけないと油断していたのか、意識の隙を突かれたかのように、虎は無防備にきょとんとした声で返事をする。
「タネは割れた。もう、その手は通用しない」
「――ほう」
夏彦の言葉に、虎は笑みを消して真顔に戻る。
「見せてみろよ」
虎のその言葉と同時に、
「がっ」
血と叫び声を吐き出し、大倉が崩壊寸前の体を躍らせて、夏彦に襲い掛かってくる。
夏彦は『最良選択』を全開で使用、全ての集中力を勘につぎ込む。
「来い」
小さく、自分自身に言い聞かせるように夏彦は呟いて、構え直す。
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