夏彦は幼い子どもになっている。
幼い夏彦は相変わらず本ばかり読む。偉人の話、英雄譚、そんなものばかりを好んで。
ずば抜けた能力、確固たる意志、そして高い理想。自分には到底持ち得ないものばかりだと思い、だからこそそれを持っている人たちの話に憧れる。
いつもそんな本ばかり読んでいる夏彦に、ある日母親が何気なく語りかけてくる。
「夏彦はきっと立派な人になるわね」
おそらく母親としては深い意味はないのだろう。野球を頑張る子どもに「将来は野球選手だ」と言うのと同じくらいの感覚に過ぎない、本当に何の気なしの言葉。
だが、それに夏彦は驚きを覚える。
自分は、何かしているわけじゃあない。ただ、立派な人に憧れて、その本を読んでいるだけだ。それなのに、立派な人になれるのか?
その疑問を夏彦が子どもながら何とか言葉にすると、母親は微笑む。
「でも、そういう立派な人になりたいって思っているから、本を読んでいるんでしょう? なりたいって思ってれば、きっとなりたいものになれるわよ。でも、もちろん勉強とスポーツも頑張らなきゃ立派な人になれないわよ?」
優しい口調でそう言う。
大抵の母親が幼い息子、娘に教えるような、よくある夢物語。
だが、それは夏彦に衝撃を与える。
憧れているだけで、その憧れそのものに近づけるのか?
だとしたら、それは何て素晴らしいことなんだろうか。
まだ幼い夏彦は、心に決める。
自分が大した人間じゃあないとは、子どもながら薄々分かっている。能力も、心も、とても憧れているような大人物に足りるようなものじゃあない。
でも、近づけるのなら、せめて、せめて憧れることだけは続けよう。
ずっと、この憧れだけは持ち続けていようと。
「――おっ」
そこで、車が揺れて、夏彦は目を覚ます。
目覚めた夏彦は幼い子どもではなく、ノブリス学園の学生だ。当然ながら。
「ん、ああ」
慌てて手で涎を拭う。
夜は明けていた。
「あら、起きましたの? こんな状況で居眠りなんて、度胸ありますわね。疲れが溜まっているのも分かりますけれど」
隣に座っている月が呆れる。
外務会によって用意された自動車、その後部座席で夏彦はついさっきまで寝てしまっていた。
例の中古車店で車に乗り込んだところまでは憶えているが、それ以降の記憶がない。どうやら夏彦は自分で思った以上に気を張っていたらしく、緊張の糸が切れると同時に眠ってしまったらしい。
くすくすと笑いながら、助手席に座っている緋桜が振り返る。
「この車、見た目は普通のワゴンタイプの軽自動車ですけど、中身は結構改造してるからね。窓だって防弾だし。安心していいとは思うけど、それにしたって肝が太いねえ」
「逆ですよ。神経細いから、車乗るまでに精根使い果たしちゃっただけです……ん?」
言いながら夏彦は異物感を覚えて、ポケットに手を突っ込む。
「これか……」
木彫りの犬が出てくる。
夏彦は何となく、その犬を弄る。
「何それ?」
きょとんとした緋桜に、
「パズルです」
夏彦は簡潔に答える。
さっきからいくら夏彦たちが会話していても、運転手はミラー越しに目を向けることすらしない。そういう風に訓練されているようだ。ただ、黙々と運転し続けている。
気づけば、車窓の外の景色は、どこか見慣れたものに変わっている。
「ここ、もう学園の近くですか?」
木彫りの犬を弄りながら夏彦が確認する。
「ああら、そっか、ゲート通った時寝てたんだっけ? もうノブリスに入ってるわよ。学園まであと五分ってところ」
「そうですか」
犬の首を回す手を止めず、夏彦は上を向いて目を閉じる。
「戻って、来ましたか」
どちらかと言えば、ここからが本番だ。外務会ではなく司法会に所属している俺にとっては、特に。
夏彦は気合を入れなおす。
「そうだ、俺が寝てる間に、外務会と取引相手の組織との話ってついたんですか?」
重要なことを思い出して夏彦は目を開ける。
外務会に所属している緋桜なら、当事者としてその情報を入手しているはずだ。
だが、夏彦の質問に緋桜は顔をしかめ、月も気まずそうな顔をする。
「ああら、そのさ、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、うちに確認したところ、どうも相手側はちゃんと例のテキストを用意したって話らしいよ」
「え? だって……ああ」
夏彦はすぐにどういうことか思い当たり、犬の足をくるくると回す。
「死人に口なしですか」
「そういうことですわね。向こうの主張としては、現場の担当者が偽者と摩り替えたんじゃあないのか、ということらしいですわ。襲撃も、取引をうやむやにして自分がそのテキストを手に入れるためにその裏切り者が仕組んだ、と」
「で、その襲撃で裏切り者も死んじゃったってわけですね」
顔色の悪かった男、その男がテキストが偽物だったと分かった時の取り乱した様子、そして死んでいく様を夏彦は思い出す。
「本当にそうだったら間抜けな話ですけど、それを外務会は信じたわけですか?」
「それが、そうなのよ。それで話がついちゃったんだってさ」
信じられない、という顔をして緋桜が肩をすくめる。
その気持ちは夏彦にも理解できる。
証拠もなしにそんなお粗末な言い訳が通るなら、何でもありだ。
「外務会の上の方、何か隠してるんでしょうね」
「そりゃそうでしょ。ま、でも、そこらへんにまで首突っ込む気はないわよ」
緋桜は顔を前に戻すと、大きく伸びをする。
「疲れたから何日か休み請求して、そんで終わり。今回のことは忘れるわ。ああら、あと、これを提出しないといけないけど」
汚い紙のようなものを緋桜はひらひらと揺らす。
「……ああ、ダミーのテキストですの?」
その正体に月が気づく。
「そうそう、これ。証拠だから提出しないと」
「それ、ダミーだって言ったの、緋桜さんですよね? 内容を読んだのも緋桜さんだけだし」
夏彦が含みを持たせると、
「ああら、アタシ疑われてるの? ま、でもそうか、確かに夏彦の言うことももっともね。えっと、とりあえず、じゃあ、読む?」
そう言って緋桜は紙の束を投げてくる。
「おっと」
慌てて受け取り、夏彦は目を走らせる。
「……確かに、ざっと見た感じ、あまり大したことは書いてないみたいですね。これが実際に古いメモなのかどうかも、鑑識に回せばすぐに分かるでしょうけど」
そこで夏彦はじろりとミラー越しに緋桜の目を睨む。
「これ、すり替えたりしてませんよね?」
「ああら、そこまで疑う? いやはや、優秀な監査課課長補佐ねえ、抜け目ないわ……しっかし、それ言われるとアタシとしても反論の仕様がないのよね。証拠なんてないし」
「いいえ」
夏彦が思いもよらないことに、月がそこで口を開く。
「その紙、あの時ケースに入っていたものに違いないですわ。わたくしがつけた印、確かについていますもの」
「えっ、うそっ」
慌てて身を乗り出すように緋桜が紙の束を夏彦から奪い取り、目を皿のようにしてかえすがえす見直す。
「……全然分からな……あっ、これ!? この、爪でつけたっぽい×印」
「ご名答ですわ」
「いつの間に……って、アタシがケースから取り出した時よね。全く、油断も隙もないわ」
呆れたような言葉を、感心したように発する緋桜。
夏彦も感心する。
多分、ケースから取り出したテキストを緋桜がないよう確認していたあのタイミングだ。あの時点で、万が一のすり替えのことを警戒して密かにこんな技をしかけていたことになる。
やっぱり、役職はどいつもこいつも一筋縄ではいかないな。
改めて夏彦は実感して、何故か少し嬉しくなる。
「でも、これでアタシの疑いは晴れたわよね?」
幾分安堵したように緋桜が言うので、
「緋桜さんと月先生がグルじゃあない限りは」
と夏彦は補足する。
「あっきれた。そこまで疑う?」
お手上げ、とばかりに緋桜は両手を上に挙げて、月はくすくすと笑い出す。
車はついに、ノブリス学園の校門を潜る。
「ご苦労」
車を降りて二人と別れた夏彦が顛末を口頭で報告したところ、会長である雲水の返答はそれが第一声だ。
しばらく、無言で二人は互いの目を見る。雲水は無感情に、夏彦は少し居心地悪そうに。
「あの」
痺れを切らしたように、夏彦が口を開く。
「それだけですか?」
「ああ」
雲水の顔には波一つ立たない。
「通常業務に戻れ。選挙の真っ最中だ。人手が足りない」
「今回の件の監査はどうするんですか? これ以上調査せずに報告書を作っても、ロクなものできませんよ」
「委細承知。その上で言っている」
「外務会は、そりゃいいですよ。監査が適当だからって外務会が文句言うわけはないでしょう」
夏彦は訳が分からず、少々乱暴な言葉で食い下がる。
「けど、他の会から絶対に文句が出ますよ。外務会の監査をもっと厳しくしろって」
「心配無用。この件に関しては、全ての会が早期解決を望んでいる」
それを聞いて、夏彦はかすかに眉をひそめる。
「なるほど。平たく言えば、さっさと有耶無耶にしろってことですね。けど、どうして? 今回の件、何があるんです?」
今度は、落ち着いた静かな声で夏彦は問う。
「それを、答えると思うか?」
「いえ、訊いてみただけです」
夏彦としても、鉱物じみた会長から話を聞きだそうとは思っていない。
「了解しました。とりあえず、報告書を作って提出します」
「選挙の件も頼む。人手が足りないのは紛いない真実なのでな」
結局最後まで表情を変えることなく、雲水が言う。
「分かりました」
会長室を出て、緊張から解放された夏彦は息を吐く。
さて、どうするか。
夏彦は悩む。
このまま適当に報告書を作る、というのは性に合わないし、男との死に際の約束を破ることになる。
とはいえ、今回の件は全ての会が有耶無耶にすることを同意しているなら、一体誰にどう情報を引き出せばいいのか。
今回の件に関して、情報を持っていてなおかつ会の意向に背いてまでこの件の調査に協力してくれそうな人間。
「そんなの、いるかよ」
廊下を歩きながら夏彦は独りごちる。
だが、すぐに足を止める。
「いや、いるか」
少なくとも、その可能性がある人物ならいる。
夏彦は再び足を動かす。
「古傷えぐるみたいで、気は進まないけど……」
しかし、突破口がそこしか見つからないのだから仕方がない。
今回の件に関して会の意向に反して首を突っ込みそうだと、そもそも雲水が警告した人間が二人いた。
ライドウと胡蝶。
この二人なら、条件に当てはまる。調査のとっかかりになる可能性はある。
「もっとも――」
最悪の場合を想定して、夏彦は暗澹なる気分になる。
「あの二人が襲撃の黒幕じゃあない限りは、だな」
贅沢は言っていられない。
溜まっているであろう仕事の確認と同時に胡蝶に話を持ちかけるため、夏彦は自分のデスクに急ぐ。
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