いつもの男。記憶の中のスーツの男が脳裏に映る。
溶ける意識の中で男が言う。
「殺し合いを断った割に、随分遠慮なく蹴るじゃあないか。確実に致命傷を与えるレベルの蹴りだ」
「正当防衛だ。それに、俺の蹴りはあんなものじゃなかった」
夏彦は反論する。
「全力で蹴ったからといって、あんな馬鹿げた威力が出るものか。俺は筋力を強化するような能力じゃあないんだぞ」
「言っただろう、もう人間ではないと。身体能力の方も上がっている」
「そうか」
暗く染まった意識の空間で、夏彦は妙にさっぱりとした声で相槌を打つ。
「まあ、それならそれでいい。どっちにしろ、相打ちってことだな。残念だったな、あんたの思い通りにならなくて」
夏彦にしては珍しく、嘲りの色を滲ませながら続けると、
「何を言っている」
男の声には、純粋な呆れがある。
「もう人間ではない、と言っただろう。これくらいで死ぬものか。お前も、怪物も」
「どぅああああっ!」
奇妙な叫び声で意識が覚醒する。
その叫びが、自分の出したことだというのに夏彦が気付くには数瞬かかった。
喉に何かが詰まったような不快感。その不快感のある喉から勝手に搾り出されている叫び声だ。
痛み。死ぬほどの痛み。気が狂いそうなほどの痛み。
なのに、意識が冷静なままで保たれている。
不思議な感覚だった。普通なら、こんなレベルの痛みを感じたら何も考えられないだろうに。
みしみしと。
音をたてて、自分の首が勝手に元に戻ろうとしているのが夏彦にも分かった。無茶苦茶だった視界が、ゆっくりと通常のものに戻ろうとしている。
それが、痛い。痛くてたまらない。
「ぐっう!」
気合を入れて、夏彦は両手を使って無理矢理に首を元の向きに戻す。
ばきりと完全に何かが壊れる音と、鮮烈な痛み。
だが、それだけで、視界は完全に元に戻り、喉の不快感も消える。
完全に首の骨が折れたはずなのに、夏彦は生きている。おまけに、もう痛みはなく、軽く首を動かすことすらできた。
「ごほっ」
何かが喉に張り付いたような感覚がして、夏彦が吐き出すと血の塊が口から飛び出す。
だが、それで全て終わりだ。
まるで、さっきの一撃がなかったかのような、何もダメージなど受けていないような状態になっている。
夏彦はそんな自分の状態に、変わってしまった自分の身体と精神に戸惑って、自らの両手を凝視する。
一方、怪物もまた、何事もなかったかのようにその場に立っている。
口の端から血を一筋たらしているが、それだけ。
「どうしたんだい、妙な顔をして」
背筋が冷えるような、古い人形の目で怪物が言う。
「いや、何……」
夏彦はどう答えたものか迷ってから、
「自分が、人間じゃなくなったことを痛感してるだけだよ」
「ふふ」
怪物が含み笑うのと同時に、夏彦はのけぞる。
鼻先をかするようにして、何かが目に見えない速度で通過する。
「へえ、今のを避けるか。投げナイフ、かわされたことなかったんだけどな」
「勘だ。反射神経や動体視力じゃあ、絶対に避けられなかった」
「なるほど。噂通りというわけだね」
「どんな噂だ?」
「力づくで、聞き出してみたらどうかな」
ゆらり、と怪物が近づいてくる。
夏彦は警戒する。
さっきの一撃で分かった。怪物は、こちらを軽々と破壊するほどの膂力を持っている。
いや、しかし、それはこちらも同じか。それに、破壊されたくらいじゃあ、こっちも相手も死なない。
ふと夏彦は不安になる。
この勝負は、どうやったら終わる?
「集中していないな」
軽く声をかけられた時には、既に拳が夏彦の目前にきている。
絶対にかわせないであろうタイミング、速度のそれを、夏彦はバックステップと同時に体を捻じってかわす。
「あそこからかわすか」
少し呆れたような怪物の声。
「勘がいいんだよ」
呟くように答えながら、その身体の捻じりを利用するように夏彦はカウンターで胴回し回転蹴りを放つ。
その蹴りが怪物の肩に命中し、肩の骨が砕かれる。
「ふふっ、痛いな」
奇妙にも怪物は笑い、
「たまらないな、全く」
呟くうちに、砕けたはずの肩が再生して、怪物は普通に両腕を広げて夏彦につかみかかってくる。
「――カッサバ」
初めて、夏彦は怪物の名を呼んだ。
同時に、心臓に目掛けて、前蹴り。
「ぐ」
くしゃり、と体ごと心臓が潰れたような感触。
体をくの字に曲げて、怪物は吹っ飛ぶ。
「がっは……ふふ」
それでも、血を吐きながら、なんでもないような顔をして怪物は即座に起き上がる。
「どうするつもりだ。どうやって、決着をつける?」
とうとう、夏彦は敵である怪物に決着のつけ方を訊いてしまう。
「つれないな。せっかく、楽しくじゃれているのに、さっさと終わらせようだなんて」
怪物は笑い、夏彦に飛び掛ってくる。
「じゃあ、とりあえず俺は逃げる」
夏彦は宣言して、くるりと怪物に背を向ける。
「――?」
本当に逃げ出すのかと疑ったのか、一瞬、気勢を削がれて戸惑う怪物の気配を夏彦は背中に感じる。
ただ一瞬の隙。だがそれで充分だ。
次の瞬間、夏彦は背を向けたまま身を屈めて、全身の力を溜める。
「むっ」
ようやく、何が起こるか気がついた怪物が回避しようとするが、既に空中で飛びかかろうとしている動きは止められない。
「学園長、直伝だ」
そう言って、夏彦はそのまま溜めていた力を全て解放した。
全身全霊をかけた、全力の鉄山靠。
「ぐ」
夏彦の背中に体を打たれた怪物は、そのまま空中高く打ち上げられた。
ふわり、と怪物の体が宙を浮く。
まるで映画のワンシーンだ。いかに全力で体当たりしようとも、普通なこんなに人間が飛ぶことなんてありえないだろう。
改造されているからこそ、だった。
「じゃあな」
夏彦が声をかける。
空中の怪物が夏彦に目を向ける。
宙高く舞い上がっていた怪物の体が、放物線を描き、落下し始める。
ただしそれは屋上へ、ではない。怪物の体は既に手すりの向こう側にある。
「君は」
怪物が、何かを言いかける。
だがその言葉が終わらないうちに、怪物の体は凄まじい速度で遥か下方にある地面へと落下していく。
「どうせ死なないんだろ、それくらいじゃあ」
地面への激突を見ようともせず、夏彦は呟く。
「けど、時間稼ぎにはなる。逃げさせてもらう」
走って階段に向かおうとする夏彦の頭に、男の声が響く。
「無駄だ」
「うるさいな」
いくら走っても、息切れしない。
しかも、その走るスピードも驚異的だ。おそらく、原付が全開で走っているのとほとんど変わらないスピードで走り続けている。
夏彦はあっという間に学園を駆け抜ける。
そのまま、街に出る。
「ノブリスの外に出るつもりか?」
頭の中で男の声が問う。
「やめておけ。確かに今のお前ならばこの街を抜け出すことも可能だろう。だが、抜け出してどこに行く?」
「実家に帰るよ」
走りながら、夏彦はぶっきらぼうに答える。
「ほう、それもよかろう。だが、お前を受け入れてくれるかな? 親が、社会が、人間が」
「別に。大人しくしといたら、お前に改造されたってことなんて分からないだろ」
跳ぶように街を走り抜けつつ、夏彦は吐き捨てる。
「お前は老いない。お前は死なない。病にもならず、大抵の傷は瞬時に再生する。隠し通せるか、お前に」
「不老不死かよ」
戸惑いを込めて、夏彦は呟く。
あの『御前』が求めていたそれが、こうも簡単に。
「そうだ。お前は隠れられない。化け物扱いされるか、あるいはモルモットになるか、もしくはその両方だ」
「なるほど。じゃあ、家には帰らない。全国を隠れて逃げ続ける」
半分自棄になって夏彦は言う。
「ほう」
脳内の男の声が笑いを含んだものになる。
「どうやって金を稼ぐ? 目立たないように隠れながら、ずっと旅を続けるつもりか? いつまでだ? お前は老いない。永遠に逃げ続けるつもりか?」
「うるさいな。大体、老いないって何だよ。そんなこと、信じられない」
現実離れしている。
夏彦は男の言葉を否定するように首を振る。
「そうか? お前のお得意の直感で判断しろ。お前の居場所は、最早この世界にない」
「うるさい」
「証明しろ」
「うるさい」
「証明して、人を超えろ。そこにお前の進む道がある。その他には道はない」
「うるさい」
「来るぞ、もう一人のイレギュラーが」
「――何?」
頭の内からの声に聞き返したのとほぼ同時に、夏彦は胴体がばらばらになるような衝撃を背中から受ける。
「ぐっ」
凄まじい速度で、全力で走っていた夏彦はバランスを崩し、そのまま道路に激突。まるで車に撥ねられたように二回転、三回転する。
回転するたびに、体のあちらこちらが地面にぶつかり、体が壊れる音が聞こえる。
首の骨も折れたかもしれない。
だが、最早夏彦はそんなものでは死なない。
すぐに起き上がった夏彦の目に、藍色の世界を背中にこちらを向いている怪物の姿が映る。
「よかった」
怪物は心底ほっとした顔をしている。
「夜が明ける前に追いつけて。でも、屋上じゃなくてこんな路上というのは、少し興ざめだな。せっかく、最終決戦に相応しい場所と時間を選んだのに」
「こっちだって、お前みたいなのがラスボスってのに驚いているよ」
既に再生しつつある体の壊れた部位を気にしながら、夏彦はゆっくり身構える。
「普通、ラスボスっていうのは、一番最初からちらちら話が出たりとか、因縁があったりするんじゃないのかよ」
「ふふ、まあ、そう言わないでくれよ」
怪物は、拍手に応えるように両手を広げ高く挙げる。
「ラスボスらしく、本気で行くから」
「本気で?」
「力を使わせてもらうよ」
そう言って、怪物は
「『三千苦界』」
朗々と能力の名を告げた。
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