すっかり夜とはいえ、まだ一般の武道館には熱心な生徒等が残って練習している可能性もある。
武道館に残るような人間が、もしも学園長が稽古をつけている姿を見かければ、きっと食い入るようにして観察するに違いない。何せ、伝説なのだ。
ということで前回と同じく、貸切で使える小さな武道館に夏彦と学園長は移動する。
「相手を打ち倒す、というよりも捕縛、護身が君の主体のスタイルだろう?」
何度か打ち、打たれをした後、息も乱していない学園長は言ってくる。
「そ……そうですね。お、俺は、体自体は鍛えても別に拳足鍛えたりしてませんし……」
対する夏彦は息も絶え絶えだ。
「ふむ。そうすると、相手を取り押さえようとした際の超密着戦で、これが使えるかもしれんな」
そう言うと学園長は無造作にひょいと夏彦に拳を押し当ててくる。あまりにも何気ない動きだったために、夏彦は無防備にそれを受けてしまう。
「ちょ、ちょっと」
「いくぞ」
学園長の宣言と同時に、夏彦の体に衝撃がはしる。殴られたのとは違う、体の内部が震えるような感覚。
意識しないうちに、よろよろと夏彦は後ずさっている。
「今の、あれですか、ひょっとして」
明らかに拳からの攻撃だった。だが、その拳は体に密着した状態だった。つまり、漫画とかで見たことのあるあれだ。
夏彦は予想する。
「寸勁ですか」
「よく分かったな。そうだ、ワンインチパンチとも言う。密着した状態から打てる打撃だ。ただ、当然ながら、殴れるなら普通に殴った方がよく効くからそちらを選択しろよ。あくまで、超密着戦から効果的にダメージを与えたい時にでも使えばいい」
「なるほど……」
そうして学園長に手取り足取り教えてもらって、しばらくの間集中的に寸勁の練習をする。重心移動、身体の内部の動き、そして呼吸法。
説明を受けた限りでは複雑なはずで『最良選択』で強化した勘をもってしても、習得にはかなり時間がかかると夏彦は予想していた。
だが。
「よし、今の動きだ」
数十回の練習の後、夏彦は寸勁を成功させてしまう。
自分のことながらあまりにもあっさりと習得したことに納得できず、思わず首を傾げていると、
「思ったより簡単にできたという顔だな。外から見たら別にそう不思議でもないがね」
「え?」
「重心移動や呼吸法は全ての武道の基本中の基本だ。いや、というよりも、体を動かす際の基本だな。効率よく体を動かすにはどうすればいいか、その基本だと思えばいい。だからこそ極めるのは難しいがな。君の場合、その基本がその歳にしては驚くほど完成していた。寸勁のような技術の習得が早かろうとも不思議はない」
「なる、ほど」
その言葉で夏彦は理解できる。
武術の稽古時に限らず、体を動かしていた時全てにおいて、その基本を強化した勘によってずっと洗練し続けていたわけか。全てのものに共通する基本中の基本だからこそ、意識することもなく気づくこともないままに。
「とはいえ、こんな速度で習得するとは少々予想より早かったが……そうだ、拳足を鍛えていないと言ったな、それならひとつアドバイスだ」
「はい」
「環境を利用しろ。拳を石のように鍛えていないのなら、石を使って攻撃すればいい。それだけのことだ。一番利用し易いのは、地面だな」
「ああ」
あまりにも当然のアドバイスなので、夏彦は脱力する。
「地面に投げつけたり、そういうことですか?」
「そうだ。踏みつけ攻撃もいいな」
「踏みつけですか?」
「ああ。単純に聞こえるかもしれんがな、なかなかえげつない攻撃だぞ。地面に倒した相手を思い切り踏みつけてみろ」
「衝撃が逃げる場所がありませんものね」
思わず想像して、夏彦は苦い顔をする。
「特に、地面が固いと、それがそのまま凶器になる。例えばコンクリートの地面に倒した敵の顔を思い切り踏みつけるとしよう。それは踏みつける力で後頭部をコンクリートの塊で殴りつけるのと同じだ」
「殺人的ですね」
「ああ、だが、それをしなければいけない場面も存在する。こんな世界にいる限り、否定できまい」
「もちろん。実際、殺しましたしね」
あっさりと夏彦が言う。だが平然とした顔とは裏腹に、両手がきつく握りしめられている。いや、無意識に握りしめてしまう。
「傷は癒えたか?」
「傷? 友人を殺した傷ですか?」
「ああ」
「もともと、傷なんてついてませんよ」
夏彦はにやりと不敵に笑うが、
「両手、力を入れすぎて白くなっているぞ。だが、こういう時に器を大きく振舞おうとするのは役職者としては相応しい。上に立つ者の義務を理解しているな」
見通され、にやりと学園長に笑い返される。
夏彦は黙って首を振る。
どうやら、まだまだ腹芸の面でも青二才らしい。
シャワーを浴びて、夏彦と学園長は帰宅することになる。
夏彦は学園長の長年使っているものらしいランドクルーザーの助手席に座る。
「それじゃあ、お願いします」
「ああ」
重低音のエンジン音を響かせながら、車が出発する。
「おっ」
嬉しそうにも聞こえる驚きの声を学園長があげる。
「どうしたんですか?」
「ほら、あれだ」
学園長が顎で示す先、車のガラスの向こうに小さく、立って微動だにせずじっとこちらを見ている人影があった。
大倉だ。
「さすがに、私と一緒に車にいるところを襲う気はないらしいが……それにしてもこの時間まで待ち伏せか、執念深いな」
「全くですね」
言いながら、夏彦は背筋が冷たくなるのを感じる。
今までじっと待っていたというのに、その待ち伏せが無駄になった大倉の心境はいかほどか。おそらく、明日中に多少乱暴だとしても実力行使に出てくるだろう。
「学園長、すいませんが、なるべくあいつに俺の寮がばれないようにお願いします」
「ああ、心配いらんだろう。奴もこの車を追いかけてくる気はなさそうだ」
その後は二人ともしばらく無言で、夏彦は沈黙の中、車窓から流れる景色を眺めていた。
「妙な街だ、と思わんか?」
ぽつりと学園長が言う。
「ノブリスですか? そりゃあ、妙な学園が核になってできてる街ですからね」
「ふん、学園長の私が言うのも何だが、ノブリス学園は酷く奇妙な学園だ。自主自立を題目にほとんど治外法権、外の事情を中に持ち込むことも、逆も禁止される」
「その通りですね……あ、そうだ、教師の方々とかのご家族はどうなっているんですか?」
学生やまだ若い教師ならともかく、学園長くらいの歳の人間になれば孫くらいいそうだ。
「昇り竜の如く駆け上がっても、まだ闇を知らんか」
独り言を呟くように学園長は言う。
「え?」
「いや、学園の関係者で家族のいる者は、申請すれば家族をノブリスに住ませることはできる。いくらか制限はつけられるがね。だが、それをする者はほとんどいない。大抵は家族がいても単身赴任だよ」
「どうしてです?」
「その質問をするから、闇を知らないと言われる」
学園長は車の外の粘つくような闇を見ている。
「この学園で会に入り、上を目指そうとするものが、他の連中の手の届く範囲に家族を置くはずないだろう。弱点を晒すようなマネはせんさ」
「弱点、ですか?」
「そうとも。いいか、もう役職者なら、上を目指し下から追われる立場なら、覚えておけ。この場所では、弱点と見れば情け容赦なく突いてくる連中で溢れている」
何となく無言になり、そのまま車は沈黙のうちに夏彦の寮の前で止まる。
「ありがとうございました」
「おい」
礼を言い車を降りようする夏彦に体を向けて、学園長は呼び止める。
「入学時の資料があるから、学園の運営側、つまり行政会には学生の個人情報が全て分かっている。ノブリスネームだのなんだのと言ったところで、行政会が本気で動けば、それこそ学生の家族等を人質に取ることすら可能だ」
「ああ、確かに、言われて見れば、そうですね」
いきなりの話がどう繋がるか分からず、夏彦は混乱する。
だが頭のどこかで、学園長がひどく重要なことを話している気がする。
「不公平だと思わんか? 行政会だけが、情報の面で確実に有利になっている。あるいはノブリスという街について、戸籍の問題を考えなかったか? 寮に住むには転入届をノブリスの役所に出さなくてはいけないだろう? その他の情報についても、役所に、つまり国や市町村に届けなければならないものは学園関係で腐るほどある。そんな状態で、学園内部の情報をどうやって外に漏れないようにできる? 街の役所勤めの人間を一人抱きこめば、学園の情報の大半が手に入るんじゃないか?」
役所の人間を抱きこむ。
まったく夏彦の発想の埒外だった。学園内で、会同士の抗争でどうやって勝っていくか、そればかりに気をとられていたためか、そういう広い視点での発想が全く出てこなかった。
だが。
「……それを行政会の学園長が司法会の俺に言うってことは、役所の人間を実際に抱きこもうとしても抱きこめない、もしくは抱きこんでも意味がないんでしょう?」
「どうかな?」
体をひねったまま、楽しげに学園長は顎をなでる。
「どうして、俺にこんな話を?」
「ヒントだ。できるだけ頑張って欲しくてな」
軽く笑ってそう言うと、学園長は前を向く。
「何せ、久しぶりの弟子だからな」
その言葉を最後に、学園長はもう語ることはなく、車が発進する。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!