あまりにも自然体なコーカの態度に呑まれて夏彦が呆然としてしまったその間に。
夏彦の後ろ、すぐ傍まで月が近寄ってきていた。
そして、ぶらりと揺れている夏彦の右手首を掴む。
「なっ――」
その時に初めて月の存在に気づいた夏彦は声をあげ、身構えようとするが。
「我慢しますのよ」
月のその言葉と同時に、掴まれた夏彦の右手首が持ち上げられ、ごきりと肩で妙な音がする。無論、激痛も同時に襲ってくる。
「いっ……」
叫びだしたくなるのを夏彦は我慢する。
「これで大丈夫ですわ。少ししたら普通に動かせるようになりますわ」
くすくすと笑いながら月は夏彦から離れていく。
まるで、子ども同士のじゃれあいの後始末をする母親のような態度だった。
夏彦からすれば、さっきのはじゃれあいでも何でもなく、命の危険を覚えたが。
だが、そのことを面と向かって非難することはできない。向こうがじゃれあいだったのだと態度で示すのならば、それに従うしかない。
こちらからさっきのはじゃれあいじゃあなかったと指摘して、ならば仕置きを再開しようと向こうに思われるのは勘弁だ。
虎の尾を踏むようなまねはしたくない。
そんな夏彦の葛藤を、コーカも月も、まるで気にしていなかった。
雲水にいたっては、ちゃんと見ていたのかどうかすら怪しい。腕を組んだまま、壁にもたれたまま、石のような視線を何を見るでもなく正面に向けているだけだ。
夏彦とつぐみだけが、まだ緊張が抜けきらず、身構えたままでお互いをちらちらと見ている。
「さっきの君の質問に対する答えは――」
そんな夏彦とつぐみの態度を気にすることもなく。
ソファーの中で完全に体の力を抜き、リラックスした姿勢でコーカは続ける。
「少なくともデータベースに登録されている限りでは、生徒会に味覚を操作できる能力者は存在しません」
生徒会としてはとてつもなく重要な情報の一端を、コーカは簡単に明かす。
そのあまりのあっけなさに、夏彦は絶句する。
自分以外の限定能力について探りを入れれば、最悪の場合、命のやり取りになる。それほどの情報のはずじゃあなかったか。
「本当、ですか?」
そう聞き返したのはつぐみだ。
その疑問も当然だ。簡単すぎる。もちろん、訊きに来たのは夏彦とつぐみだから、訊けたことに不安を持つのはおかしな話ではあるが。
「いやあ、さすがにデータベースを見せるわけにはいきませんから、証明は難しいですが。本当ですよ」
「データベース、確認もせずに答えましたよね」
夏彦が疑問を呈する。
ノブリスネットを開くこともなく、コーカは答えた。それは見様によってはいい加減に答えたようにも見える。
「それが? 自分の会のデータくらい、全部脳髄に叩き込んでますよ」
そんなことが疑問点になるのかと呆れたような口調で、コーカは答える。
一体、生徒会には何人所属しているのか。
その所属している人間全員の限定能力を全て憶え、そしてどの能力もどう応用しても味覚を操作できる能力にはならないと瞬時に判断したというのか。
どういう頭をしているのか、と夏彦は感心するよりも呆れる。
「じゃあ、他の会についてはどうですか?」
「それについては僕は知りようがないですね」
夏彦の質問に対して、あっさりと気が抜けるような返事が返ってくる。
「他の会の会長に訊かないと分かりませんよ。教えてくれるとも思いませんけど。ねえ、雲水君?」
「少なくとも俺は印可もなしにそのようなことはせん」
石のような声で雲水は言い放つ。
「でしょうね。ほら、そういうことです」
「――生徒会長。俺にはよく分かりません。今回の件は、限定能力を使った不正です。絶対に罰さなければならないんじゃないですか?」
ずっと、これまで抱いてきた疑問を夏彦は口にする。
限定能力を使った不正。それを厳しく罰さなくてどうする。大会の進行に支障があるから大袈裟な捜査はできないと、そうするならば不等号がおかしな向きになるだろう。
「ああ、つまり、この大会と限定能力を使っての不正の追求。どちらを優先すべきかの話ですか。なるほど、確かに実害は微々たるものですが、限定能力の使用で校則を違反したという事実は重い。分かりますよ、けれど――」
そこで言葉を止め、コーカは月に顎を向ける。
月は肩をすくめて、
「説明が面倒になるとすぐ人に投げる癖、変わってませんわね――夏彦君、つぐみさん。あなたたち、生徒会がどうして、予算を一千万円以上費やしてまで料理の大会を毎年開催しているか、理解してますの?」
その質問に、夏彦とつぐみは思わずお互いの顔色を伺い、そしてお互いがそのことを全く分かっていないことを知る。
「よく理解してません。どうしてですか?」
二人を代表して、つぐみが質問する。
「あら、正直。要するに、建前ですわ。生徒会は、大多数の生徒の意見を学校に反映するために存在する。つまり、民意によって成立している。けれど、あなたたちも入学して数日で気づいたと思いますが、ここの学生は、ねえ」
「ほとんどが、学園生活にはあまり関心がないみたいですね」
話の着地点がぼんやりとだが見えてきて、夏彦は納得した口調で言う。
「そう。特に下位のクラスになればなるほど。学生の大多数が学園に興味を持たない、その時点で、生徒会という存在の意義は形骸化していますわ」
新しい校則作成、あるいは校則改正のための、そして生徒会役員の選挙のための学生投票、その投票率が五割を大きく下回っている現状、生徒会にはもはや表面的な意味しかないと。
「一般の学生の多数意見を反映するのが生徒会――けれど。実際に意見を持っている学生のほとんどがいずれかの会に所属しているなら、結局は生徒会なんてあってもなくてもいいもの。過去の遺物。学生の自主性の名の下に、必要のなくなった残骸」
いまや生徒会などなくとも他の会さえあれば学生の自主性は尊重されるのだと月は言う。
「だから建前の維持を。即物的ですけど、現金があれば人は寄ってくるものですわ。一千万円なんて撒き餌を使って一般の学生に無理矢理に学園のイベントに興味を持たせる。学園外、ノブリス市に住む観客にも見せつける。電波にのせて発信する。ノブリス学園の学生たちは、こんなに学園に、学園の行事に興味があると」
だから、その大切な建前を。滑稽な茶番を邪魔するなと。
月は言外にそう仄めかし、説明を終えた。
「……俺たちが知らないだけで、それは会に所属する人間の多数には、少なくとも役職者クラスには暗黙の了解だったわけですか」
だからか。
夏彦は思い出す。
明らかにやる気がなく、夏彦を止めようとしていた胡蝶。つぐみの言っていた、風紀会からの捜査上の縛り。
全て、生徒会がこの大会の進行を妨げることを決して許可しないと、そう知っていたからこそか。
「テレビまで来てるわけだし、そこで茶番を壊すまねはできないと」
誰に向かって言うでもなく、夏彦が呟く。
全ての会が連携するような大規模な捜査をするならば、捜査の方が大会よりも優先される。
だから大会を優先したい生徒会はそれに難色を示す。
そしてこんな実害の軽微な事件で生徒会と対立したくない他の会は、そもそも大規模な捜査をすることをしない。
こういうことだ。夏彦の頭の中でドミノ倒しのような図式が完成する。
「気に入りませんね。だから、犯人を見逃すと?」
不機嫌になるのはつぐみ。
主催者にとっては茶番であろうとも、人の一生懸命の行為を、料理という万民共通の幸福を壊す犯人は彼女にとっては許されざる大犯罪者なのだ。
「見逃しませんよ。大会が終わった後でなら、絶対に捕まえてつけは払わせましょう」
にこやかにコーカは言う。
「だから、大会をつつがなく進行させてくれませんかね?」
それの願いは奇妙だ。夏彦やつぐみは、お願いをされる立場ではない。コーカが大会を何がなんでも進行させるならば、それに二人は逆らえないのだから。
「つつがなく進行はもう、無理でしょ。会に所属していない審査員だって、もう異常には気づいてますよ」
あれだけ甘かったり辛かったりすれば、さすがに妙に思うはずだ。
「形だけでも大会が無事に終了すればいい、それだけです」
だがコーカは動揺しない。
「後から問題が発覚して騒ぎになるのはある程度は仕方ありませんよ。やりようによっては、その騒ぎを利用して生徒会の存在感を大きくすることだってできる」
薄く目を閉じて、コーカはそう言う。
頭の中では、大会が終わった後にどう動くか、その計算をしているのかもしれない。
「だから、大会が終わるまでは待ってください」
「俺、は――」
だからこれは懇願の形をとった強制。
俺とつぐみに、これ以上邪魔はしませんと言わせるためのものだ。
それを理解している夏彦は、言葉を詰まらせる。ここで、「嫌です、徹底的に犯人探しをします」と言える肝は持っていない。
何よりも、さっきの拳が夏彦の脳裏にちらつく。捌いた腕がいかれるほどの拳。
根本的な死への恐怖が脳髄にへばりついて、豪胆な発言ができなくなってしまっている。
なるほど、さっきのはこの布石かと夏彦は冷静な部分で感心する。
だが、どうも夏彦には気に食わない。
大会が終わったら犯人は捕らえられる。逆に言えば、大会が終わるまで、また犯人は人の料理の味を無茶苦茶にするかもしれない。
それが歯痒い。
だが、ここで反旗を翻すこともできない。
だから残る道はコーカを納得させることしかない。
大会の進行に影響が出ようとも、ここできちんと捜査をしておかなければ、料理の審査が始まるまでに手を打たなければ駄目だとコーカを納得させること。
できるか、そんなことが。
自問に対して、夏彦は答える。できるとも。
勘だ。自分にならばできると、根拠もなくそう思える。できないはずがないと、直感が叫んでいる。限定能力が勝手に発動している。夏彦の『最良選択』が。
一つだけ味を変えられた料理、味覚操作、コーカの性格、生徒会には味覚操作できる能力者がいないという主張、大会が茶番であり生徒会が残骸であること、自分が関わったかつての事件、料理とは何か、雲水が会長となった道筋、胡蝶の態度、賞金が一千万円、本戦に出場した第三料理研究部。
全て。これまで手に入れた断片の如き情報を、材料として組み合わせていく。都合のいいような形にすればいい。
仮説に次ぐ仮説。推論の上に出てくる推論。それでいい。この場で、コーカを納得させればいい。生徒会から捜査の許可を勝ち取るための話を作り上げる。
「夏彦君」
言葉の途中で黙ってしまった夏彦に、つぐみが焦って囁く。
どうしたのか、と。
夏彦は、材料を必死でかき集めている。
かちかちと、頭の中で材料を組み合わせて、崩して、歪めて。
まだ違う。もう少し。
おぼろげながら形ができた。
よし。
これでいい。
これで、いける気がする。
無理に無理を重ねて、仮説に推論を重ねてできたその武器を胸に、
「――俺は、生徒会長、やはり捜査をするべきだと思います。何よりも、あなたのために」
夏彦はそう言う。
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