雪村は廊下を歩いていた。片手には書類の束がしっかりと抱えられている。
「ふう……」
緊張を抑えるため、深呼吸をしながら。
やがて、あるドアの前で雪村は立ち止まる。
「はあ……」
もう一度、深呼吸。
この奥にある男と会うのは、雪村にとって死ぬほど緊張するイベントだった。
自分が背後から襲いかかろうかと気を迷わせたことを見抜かれて以来、全てを見透かされているような気さえする。
ドアをノックする。
そのドアには、監査課の課長補佐室と札がかかっている。
「どうぞ」
すぐに声が返ってきて、雪村はドアを開けて部屋に入る。
「ああ、雪村さん。頼んでおいた書類ですか?」
「はい、どうぞ」
雪村は手にしていた書類を手渡し、そのまま見るともなしに目の前の男を見る。
机で書類を読み始めた司法会監査課課長補佐、夏彦を。
まるでテンプレートのように決まりきった一幕だ。
雪村がこの部屋に書類を届けるたびに、一言一句違わず、夏彦も雪村も同じ台詞を言って同じ動作をしている。
それなのに、雪村は慣れない。やはり緊張する。
ごくり、と唾を飲みながら、雪村は夏彦を観察する。
一週間前にまた大きな怪我をしたらしく、生傷が増えている。足を撃たれたせいでまだ痛むらしく、机の横には杖が立てかけられている。
また修羅場を潜った、というだけではない。
つい先日あった選挙管理委員に関する会議、そこで夏彦は司法会から出す委員数をどの会よりも一番多くするという実績を出している。
正直なところ、会長と副会長が内通者だったという負い目があるだけに、今回の選挙では司法会からの管理委員数は他の会と同数すら厳しいだろうというのが大方の予想だった。夏彦課長補佐は貧乏くじをひかされた、とも。
だが、先の事件による内通者の大量死亡、その混乱を利用し、更にいかなる手段によってか生徒会、そして行政会からの支持をとりつけることによって、夏彦は会議を司法会に有利なうちに終わらせてしまったのだ。
ぽっと出の、人気と話題だけの、客寄せパンダ。
もう、そんな風に夏彦のことを言う人間は出ないだろうと雪村は確信している。
間違いなく、司法会監査課課長補佐として相応しい能力の持ち主、いやそれ以上だと、夏彦は自分自身で証明したのだ。
「はい、オーケーです」
全ての書類を読み終え、サインした夏彦はとんとんと書類の束を整える。
どこまでも夏彦は自然体で、他の役職者が持っているような威圧感がない。それがむしろ、雪村にとっては不気味だった。
「そういえば、頼んでおいた外務会の戸籍に関する外部工作、どうなってます?」
ふと夏彦は視線を上げて、そう訊いてくる。
「ああ、その進捗状況でしたら、ここに」
慌てて雪村は別の資料を差し出す。
夏彦はそれを受け取ると、ふむふむとその資料を読みながら、
「そうだ、確か向こうの担当が雪村さんのご友人でしたよね。どうですか、その辺りは?」
顔を上げず、場を繋ぐための世間話といったていで言う。
まさか課長補佐と世間話をすると思ってもみなかった雪村は戸惑い、
「どう、と言われましても……今のところ、特に問題はありません。業務も、友人関係も」
そこまで言って、前回夏彦に言われたことを思い出してはっとする。
「あっ、も、もちろん、友人だからってそちらを業務より優先することはしません」
慌てて付け加える。
「ん……?」
雪村の言葉を受けて、夏彦はきょとんとした顔をする。
そんな顔をされると思っていなかった雪村は更に慌てて、言葉を付け足していく。
「い、いえ、だからっ、その、友情と業務を両立させられない時は、業務を優先するってことで、いえ、当然のことで言うまでもないことなんですけど、そのっ」
「――ああ!」
言えば言うほど追い詰められていく雪村を尻目に、夏彦はようやく合点がいったという顔で手をぽんと叩く。
「そうか、俺が言ったんですっけ、前回。この世界では、友情を犠牲にしないといけないことばかりだとかなんとか」
「え、ええ……」
「ああ、それでか。いや、雪村さんが突然妙なこと言い出したなと思ってびっくりしましたよ」
からからと笑い、そして夏彦は不意に真剣な表情になる。
「でも、雪村さん。俺は別に、間違ったことを言ったとは思ってませんよ。実際、会に入って仕事していくうちに、友達と敵対したり、あるいは利用したり裏切ったりすることは別に珍しいことじゃあありませんからね。でしょう?」
「……ええ」
それには、全く同感だったので雪村は頷く。
「ただ、別に友達の方を優先したっていいと思いますけどね。会を敵に回すかもしれないと覚悟するなら」
さらり、と夏彦はぞっとするような補足をする。
「い、いやあ……」
何と答えていいか分からず、雪村は引きつった笑いを浮かべてお茶を濁す。
「まあ、それでも」
そこで、夏彦はここにいない誰かを思い起こすような目をして、意味ありげな笑顔を作る。
「それでも、残る友情もあると思いますけどね」
「え?」
いつも自然体の夏彦には似つかわしくない、いやに感情的な口調に雪村は驚く。
その口調は、感謝するようでもあり、祈るようでもあった。
「犠牲にしてもなお、犠牲にしきれない友情ですよ。敵対しても利用し合っても裏切っても、それでも残るものが、まあ、少しくらいはあるんじゃないですか? じゃないと、こんな仕事、やってられないでしょう」
一年生で監査課課長補佐まで昇りつめた人間のものとは思えない、気弱ともとれる言葉に、
「はあ……」
と、呆気に取られる雪村。
その雪村に向かって、
「雪村さんも、友達は大切にした方がいいですよ。こんな仕事しててもなお続く友達は、特に」
そう言って、夏彦は屈託なく笑い、また業務に戻った。机の上にあるファイルを広げて読み始める。
「お疲れ様でした。もう、結構ですよ」
「……あ、し、失礼します」
我に返った雪村は部屋を出て、ドアを閉めて、それから急いで部屋から離れる。
そうして、ある程度距離をとってから、ようやく足を止めて。
さっきのは一体何だったんだろう、と首を捻る。
まるで、いきなり心の深い部分を無防備にぶつけてこられたような。
それとも、全部芝居で、こっちの反応を試していたのか。
何にせよ、と雪村は思う。
やっぱり、うちの課長補佐って変わった人だなあ。
と、しみじみと嘆息する。
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