足を踏み出して

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退会したユーザー

#91

公開日時: 2022年1月30日(日) 22:35
文字数:1,030

 女性を見たが、今度は目が合わなかった。女性は慣れた手つきで携帯電話を操作し、自分の世界に没頭している。


 さっき目が合ったのは、きっと偶然だろう。そう割り切って横断歩道を見つめる。


 しばらくすると、コツコツと小気味の良い音が階段から聞こえてきた。その音に反応した中年女性は、階段に視線を向ける。


 上がってきたのは、白い杖をついた少女だった。高校生だといっても通じるような、あどけなさを残した少女だった。


 あどけない少女、円佳は、いつもどおりに歩道橋の中央に歩を進めた。


 いつも、リストが待っている場所。


 どれぐらい歩けばいいのか、体に染み付いている。


 癖になりつつある道程を進む円佳にとって、杖は飽くまでも保険だった。前方に障害物がないか、人がいないかを確認する保険。その保険が、久しぶりに効果をもたらす。


「あっ、ごめんなさい」


 杖が誰かの足に触れたのを感じた円佳は、深々と頭を下げ謝った。


「いいの、気にしないで」


 杖をぶつけられた中年女性は、円佳の目を見てそう答える。円佳の目は、大体の方角見ているだけで焦点が合っていない。


「ありがとうございます」


 許してもらえた円佳は、もう一度頭を下げた。


 初々しい円佳の姿を見て、中年女性は探るような言い回しを使いながらも、確信を持った口調で問いかける。


「あなた、森永円佳さん?」


 知らない声の人から自分の名を呼ばれた円佳は、相手の気分を害さない程度に後退り、襲われた時に焦らずに抵抗する心構えをした。


「恐がらせてしまって、ごめんなさい。単刀直入に言うと、私は、森永さんにリストと呼ばれている子の母親です」


「えっ? 本当ですか?」


 一瞬驚いた円佳は、少し冷静になり、あることに気がつく。


「て、すいません、本当ですよね。私と、私の友達。後、リスト本人しかリストと呼んでるのを知らないんだから」


「後、リストの母親だけ」


「あっ、そうでした。予想もできなかった展開なもので、舞い上がってしまって」


 円佳の速まった鼓動に、あまり変化は見られなかった。不審者に対するプレッシャーから来る緊張が、リストの母親と対面した緊張に変わっただけである。


「それで、リストはどうしたんですか?」


「リストは、風邪をこじらせてしまって、しばらく歩道橋に来れそうにないんです」


「それを伝える為に、わざわざ?」


「はい」


「すいませんでした。リストの電話番号を聞かなくても、リストに私の電話番号ぐらい教えておけば良かったですね。そうすれば、わざわざお母さんにご足労願わなくても良かったのに」

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