「うん」
その後、カオルは何も言わずに、自分の指先を見つめながら考え込んだ。
円佳も、カオルに声をかけず、重苦しい空気を紛らすように髪をいじるしか出来なかった。
言葉を発しず、大した動きもしない、風さえ起こらない静けさの中で時が進む。
視界からの情報がない円佳にとって、この静けさは永遠のように思えた。
静寂を打ち破ったのは、静かで力強いカオルの声だった。
「もう一度聞くよ。私、リストちゃんに会ったら駄目かな?」
「分からない」
カオルの問い、願いに、円佳は曖昧な返事しか出来なかった。
「分からない?」
「うん、ごめん」
「謝らなくていいよ。私も、正直どうすればいいか分からないんだ。
会えたとしても、どうすればいいか分からない。直接会えば何か良い案が出るんじゃないかって、根拠のない希望を持ってるだけだから」
そう言って、カオルは悔しそうに言葉を吐き捨てる。
「くそっ! 無力だ。会えば何とかしてあげられると思ってたのに、虐待を受けてるって分かった途端に尻込みなんて」
「カオル…」
「今は、もう少しだけこのままでいよう。このまま、現状を保っていよう。情けないけど、それしか出来ない」
「そうだね」
「安心して、円佳。私が絶対に、リストちゃんを良い方向に導いて見せるから。ただ、今は少しでいいから考える時間がほしいの。円佳だって知ってるでしょ、私の座右の銘を」
「今を楽しむ」
「そう、今を生きる為には、過去を引き摺らないのが大切。楽しかった過去を思い出に、辛かった過去を糧にする。それが出来た時、今を楽しめる。
絶対に、私の力でリストちゃんをそう考えられるようにしてみせるから」
力強く宣言すると、カオルの口調は急に明るくなり『今を楽しみましょ』と他愛ない会話を始めた。
切り替えの早いカオルに驚きながらも、円佳は釣られるように明るい口調で会話を始めた。
九月二十四日
円佳は、デスクチェアを揺らしながら、いらだちを感じさせるため息をついた。
今日は、一言も物語を吹き込めていない。
今日だけではない。ここの所、物語がまったく進展していないのだ。
歩道橋でリストに話をせがまれるたびに、まだ考えていないと告げるのが申し訳なかった。スランプの原因がリストにあると悟られないように、おどけながら『スランプにはまっちゃった』と誤魔化す日々が続いている。
デスクチェアから立ち上がり、物語を考えるのを諦め携帯をテーブルに置いた。
はぁ~
物語を考えていない時でも、ため息の数が増えていた。ため息の数だけ幸せが逃げていくと聞いたことがあるが、ため息をつかないと胸で感じるモヤモヤに体が支配されてしまうような気がしてならない。
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