事故に遭う直前に買いに行き、入手できなかったCD。入院中にカオルが買ってくれて、家に戻ったら聞きなとプレゼントしてくれた物だ。
このバンドの、ベーシストが好きだった。
音楽を聞き、楽器の良さを表現できるほど耳の肥えていない私にとって、このベーシストを好んでいる理由は腕前ではなく、容姿だった。
CDを手に入れても、ベーシストの顔は拝めない。ただ、ベースの音が流れるだけで、今の私にとって特別胸を高鳴らせる存在ではなくなっていた。
光を失ってから、学校に行かなくなった。
嫌気がさしたのではなく、行く意味がなくなってしまったからだ。
出席日数は足りているので、卒業は出来る。高卒の学歴さえ手に入れば、無理して学校に行く必要はない。
どうせ、こんな状態では大学に進学などしないのだから。
卒業式にも、出る気はなかった。卒業式に出るどころか私は、光を失ってから一歩も外に出なかった。
午後は、学校終わりに朱理を除く皆が遊びに来てくれるので退屈をしないが、午前中はすることがなく、退屈な時間が無駄に流れている。
持っているCDも聞き飽きてしまった。
平日の、午前九時から十一時の間、音楽やテレビを点けずにいると、辺りは驚くほど静かだった。
暗く、何も聞こえない中ベッドに転がっていると、感覚が麻痺してきて、空に浮かんでいるような浮遊感に襲われる。
犬の鳴き声や、ご近所さんの話し声が聞こえる度に浮遊感はなくなり、ベッドに叩きつけられ、再び無音になり、浮遊し、犬が鳴き、叩きつけられる。その感覚が好きになれなかった。
浮遊しないように何か口ずさもうとすると、無意識に出てくるのは詩ではなく劇の台詞だった。
何度も読み直しても中々覚えられなかったので、自分の台詞をノートに書き写し必死に覚えた台詞。それが今では九九の二の段を言うようにスラスラと出てくる。
未練がましい人間だ。私にはもう不要なのに。
午後になり、朱理を除く皆が遊びに来てくれた。
皆はここで集まっても、気を遣っているのだろう、劇の話を一切しなかった。
私がキャストから外れ、役者不足で劇は中止になったのか、それとも、脚本を変えて劇を行うのか、それすら私は知らない。
台詞を口ずさむほど未練があるが、今の私にとって劇はもう無縁のものになっているので、行うのか中止になったのかは大して気にならない。
気になるのは。
「朱理は、どうしてる?」
「元気にやってるよ」
いつもどおりの問いに、いつもどおりの返事。元気でやっているというのは、前までの状態と変わらない、現状維持の状態なのだろうか?
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