僕:山風亘平 火星の平凡なサラリーマン
『子猫』を拾うってことはどういうことか。
それは僕にとってまったく想像を超えたことだった。だって、そもそもセンターに選ばれるような人間ではなかったし、拾うこととセンターから割り当てられることの意味も全く違う。
それに、『子猫』がどういうものか、僕はまだ何も知らなかった。
医者に覚悟を聞かれたって、僕は正直に何も答えられなかった。ただ、ジーナになんとか元気になってほしい、それだけは理解していた。
そんな僕を見かねて、医者は僕の肩をとんとんとなぐさめるように叩いた。
僕は『シャデルナ』の女主人に、
「助けてくれてありがとう」
と言った。『シャデルナ』の女主人は、僕を黒いコートのままハグした。
僕は胸が詰まって、もういちどこう言った。
「ありがとうございます、ただの通りがかりの人間なのに……」
『シャデルナ』の女主人は僕の肩に手を置いたまま、しばらくじっと僕を見ていた。そしていちど何かを言いかけて、その言葉をのみ込むと、そのままポンポンと肩を叩いて言った。
「なんの、占いにくるやつらっていうのは、みんなそれなりの事情を抱えているのさ。この灰色の街で、誰にも気づかれもしない、それ
ぞれの悩みだ。どんな悩みだろうと、それに耳を傾けるのが占い師の誇りだからね」
「お礼は……」
『シャデルナ』の女主人は笑って言った。
「一回の占いは3マーズだよ。……ありがとう、それで十分さ。ついでに未来を占うかい?」
そういいながら、女主人は医者に青い小瓶を差し出した。医者は無言で受け取るとそれを戸棚の中にしまった。
僕が自分の未来に恐れおののいていると、それを見透かしたように女主人はこういった。
「易をするまでもないさ。これからは隠さなくちゃいけないことも増える。苦労はするだろうさ。でもみておくれ……この『子猫』! ちっちゃいねえ……! わたしも本物をみるのは何年ぶりだろう。どこから来たのかもわからない、危ないにおいもする。けれど、運命ってのはなるようになるもんさ」
それまでの僕はといえば、まったく平凡なサラリーマンだった。まいにち起きて、会社へ行き、帰ってきて寝る。
けれど、それがある日とつぜんに変わってしまったんだ。ジーナが僕のところにやってきた時から。
それで、ジーナが元気になったかって?
なったよ。点滴を受けて30分もすると、ジーナはパッチリと目を開けた。まだ毛並みはベタベタだったけど、その瞳はとても大きくてきれいだった。
火星では、青い瞳は「地球のよう」、黒い瞳は「宇宙のよう」、茶色い瞳は「枯葉のよう」、というんだけど(ちなみに、火星では植物は貴重なものだから、枯葉はとても美しいイメージなんだ)、ジーナの瞳は金色だった。
いつまでたっても火星が手に入れられないものといえば、真ん丸な金色の月だよね。火星の衛星のフォボスもデイモスも、地球の月にくらべればジャガイモさ。でこぼこでいびつで、そして小さい。
僕を見上げるジーナの瞳は、真ん丸で、とてつもなく金色だった。
これが月か、と思ったよね。そのときから僕はジーナに夢中なのさ。
あれからよく食べて遊んで甘えて、すっかりデブ猫になったけど、僕の中ではいつまでジーナはあのときのイメージのままなのさ。
それで……そうだ、ごめんよ、僕はこれを書きながら、いますっかり情けないほど泣いてしまった。
ジーナは僕のところに今いないんだ。
だから、君に世界を救ってほしいとお願いしている。
僕は、ジーナと自分の家に帰った。その時にはジーナは少し元気になって、ミイミイ鳴き始めていたよ。自動タクシーにその音を録音されないかひやひやしていたから、家までの道はひどく長く感じた。
家にたどり着くと、今度はジーナのための買い物に大急ぎで出た。
医者の指示通り、ペットショップでイタチ用のご飯を仕入れ、小さめの衣類かごを買った。それに「シリカゲル」というのを入れれば、ジーナのトイレになるんだそうだ。
僕はそのイタチのごはんをお湯でふやかすと、医者からもらった栄養剤のカプセルを少し混ぜた。それを皿に少し入れてジーナの前に持って行ったけれど、ジーナは少し舐めただけで興味を失ってしまった。
後から知ったんだけど、子猫は鼻が利かないとごはんを食べないんだそうだね。ジーナは目はパッチリしていたけど、鼻はまだ良くなかったんだろう。結局、その日はまったく食欲がないようだった。
翌日、僕は会社を休んだ。だって、ごはんも食べないジーナをほっておけないじゃないか。
僕はまたあの占い師を頼った。僕が顔を見せると、とたんに占い師は表情を曇らせた。僕はまた厄介ごとを持ち込んで申し訳なく思ったけれど、そういうことじゃなかった。
『シャデルナ』の女主人は、ジーナのことを心配していたんだ。僕が現れて、ジーナに何かあったんじゃないかと思ったらしい。僕がジーナがごはんを食べないことを伝えると、女主人は僕の家の住所を聞いて、今日の夜まで待つように言った。
今回も彼女が受け取ったのはたったの3マーズだった。
……その夜、何が家に届いたと思う?
それはもうぼろぼろの紙の本さ。表紙には『かわいいこねこの育て方』って書かれていた。500年も前にすたれた紙の本を、どうやって彼女が手に入れたのかは想像もできなかった。だけど、それが長いあいだ使われてきたというのは、そのボロボロさからわかった。
僕はその本に書かれていたとおり、ふやかしたご飯を温めて、少しミルクを混ぜてスプーンでジーナの鼻先に持って行った。ジーナはそれでも食べようとしなかったので、少しだけ鼻の上にのせてやった。
ジーナは嫌がるように顔をしかめると、小さな舌で鼻をぺろりと舐めた。それで、ジーナはそれがご飯だとようやくわかったんだ。
ジーナはちょっとスプーンに興味を持って、その日は二さじぐらい食べたかな。
そして、翌日はお皿の中に顔を突っ込んっでいたよ。顔じゅう、ご飯だらけにしてね。
そしてその翌日、僕は『子猫』を『ジーナ』と名付けた。
なぜジーナかって?あらためて説明すると恥ずかしいな……。3020年には、みんな知っている童話があるんだよ。
「こねこのジーナ」って話がね。
人間のことばを初めて話すようになった猫の話さ。
まあ、とりあえず、それが僕とジーナが家族になったいきさつさ。
そして、僕は予想もできないことに巻き込まれていった。いま、僕はセンターから逃げ回っている。それが僕がネコカインを支給されないわけさ。
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