身体の中心が裂かれる。たしかに裂かれたはずなのに鞠花はまっぷたつになれず、ただそこで横たわったまま。肩甲骨が薄っぺらい布団のせいで擦れて痛い。仰向けの鞠花の視界は天井ではなく、それを覆う影に支配されている。影が揺らぐと、鞠花の身体を裂いたはずの異物も蠢く。近いのに遠い意識は徐々にまだらになって、影と溶けあう。

鞠花が受けた数々の仕打ち。かわいそうだった。鞠花は古いぺちゃんこな布団に寝かされ、服を脱がされ、顔の無い指先に肌を嬲られる。一連を鞠花はなぜか鞠花の足元から見ていて、ああ、これは夢なのだと気がつく。夢の中で鞠花は鞠花を助けない。

鞠花は今、きたない布団じゃない、ふかふのベッドで眠っている。他にも、繊細なレースやフリルが折り重なる柔らかなワンピース。ルブタンの攻撃力が高そうなピンヒール。ココ・シャネルお決まりのハンドバック。パールがあしあわれたディオールのピアス。華奢なくせに重たいカルティエの腕時計。エトセトラ。鞠花はすべてを与えられた。昔とは違う。

目覚め、ぼんやり扉の開いていないクローゼットを眺めていると、控えめにドアが3回叩かれた。

「鞠花、おはよう」
「おはよう、お父様。珍しいわね、まだいらっしゃるなんて」

鞠花にすべてを与えたお父様は微笑んだ。

「久しぶりの休日なんだ。フレンチトーストを用意したから、一緒に朝食を食べよう」
「鞠花、お父様のフレンチトースト大好き」
「これから紅茶を淹れるから、その間に顔を洗いなさい」

鞠花はお父様に言われたとおり、顔を洗うため部屋を出る。辿り着いた洗面台、鞠花の目の前に聳える鏡に、透明な硝子にほとんど同化した、輪郭だけを持つ女が写っている。ふやけているのに形は崩れていない。鞠花が右を向くと律儀に右を向き、左を向くと欺き再び右を向くと一寸違わず左を向く欺き再び右を向く。呆れた鞠花は顔を洗い、わざとらしく柔軟剤が香るタオルで顎から額を拭きあげる。乱れた前髪を整えるついでに、絡まっている毛先を櫛で梳かした。

お父様のフレンチトーストは最高だ。

牛乳と卵の海に一晩沈められたパンは、バターで焼かれた表面はさっくりとしてるのに、中はしっかりしっとりと甘い。いつかに食べた時はバニラのアイスクリームがひと添えされていたけれど、今日は生クリームだ。夏が終わったことを悟る。

鞠花はこの屋敷の外へ出ない。お父様が、鞠花の望むすべてを与えてくれるから。お父様が、鞠花を守ってくれるから。

鞠花は屋敷にいなければならない。

「お父様、鞠花はとても幸福よ」

母は鞠花にお父様という存在を教えなかった。知ったのは10歳の頃だ。涙を流しながら自分の手で鞠花のちいさな手を包むお父様と、鞠花に悪戯をする影と。区別がつかず怖かった。お父様があざだらけの鞠花にごめんな、ごめんな、と泣きながら謝る。それでもひたすら怖かった。

では、いつから区別がつくようになったのか。

お父様が、鞠花のために母を殺してくれた、あの日から。

もうすぐ紅葉がきれいな季節になるらしい。

お父様は今週末、町内会の集まりで紅葉狩りをしに行くと話してくれた。わざわざ赤色や黄色の葉っぱを見るためだけに新幹線で1時間ほど西の方に足を伸ばすという。鞠花は紅葉を知らない。紅葉以外にも、知らないことがたくさんある。
　お父様は「たくさん写真を撮ってくる」「もみじ饅頭を買ってくる」と勝手に2つの約束をした。

お風呂場で熱湯をかけられた。

咄嗟に顔を腕で庇って、お腹を曲げて身を屈める。熱湯は裸の左半身を容赦なくいたぶった。熱い、と声が出たけれど、本当に熱いのか、皮膚が爛れる痛さが優ってわからなかった。

殺されると思った。

鍋を持つ影。母の男だったが鞠花は影としての記憶しかない。お湯はわざわざ水を鍋にかけ沸騰し作られていて、用意周到さに悪寒がした。影は鞠花ににじり寄り、お風呂場の端に追いこむ。鍋を鞠花の頭上にかざし傾け、怯える鞠花を嘲笑い、真っ逆さまに、ひっくり返す。

瞼をかたく、これでもかとかたく閉じた。

暗闇のどこかで金属が床に落ちた高い音と、低い悲鳴が木霊した。加えて心臓が耳になったみたいで、ばくばくとうるさい。不協和音が長く響く。左半身がじくじくとした痛覚で目を開けろと訴えてくる。目を開けたら見ることになる惨状を、鞠花は想像で理解できていた。

鞠花は蹲った。とても立っていられなかった。

「そうだ、鞠花。この中で欲しいものはあるかい？」

お父様が机いっぱいにカタログを並べる。どれも表紙は外国人の女性だ。ルイ・ヴィトン、バレンシアガ、グッチ。

「今年の秋は90年代の流行が巡ってきたみたいでね。ほら、色使いがポップだったり、柄がけばいだろう？　お父さん懐かしいよ。昔はみんな派手だったんだ」
「ドルチェ&ガッパーナのワンピース、とても素敵」
「きっと鞠花に似合う。ああ、あとミュウミュウのこれはどうだい？　たまには女の子らしい服も悪くないんじゃないか」
「そうね。デパートのお店で試着をしてみたいわ」

お父様がカタログを捲る指を止める。

「外に、出たいのか」

震えるお父様に鞠花は微笑む。

「いいえ。私は、ここから1歩たりとも外へ出たくありません」

屋敷で暮らして何年が経ったのだろう。

目を閉じたままでよかったのに。けれど、鞠花は目覚めてしまった。白いベッド、白い壁、白いカーテン。視界で認識し、鞠花は落胆した。

「もう、なにも見たくないの」

再び目を閉じようとした鞠花をお父様が止めた。

「これから君にたくさんの、君が望むものだけを見せる。約束する。だからどうか–––どうか、そんな事を言わないでおくれ」

鞠花は10歳だった。たった10歳だった鞠花は何歳になったのだろう。

お父様は母を殺してくれた。
　鞠花が望んだから。

「僕は君のお母さんを本当に愛していた。けれど僕たちは結ばれなかった。僕が地位と名誉を手に入れるために必要な犠牲は、君のお母さんだったんだ。若かった僕は君のお母さんを選べなかった」
「ママは、どこにいるの？」
「–––すぐにここに来る。だがその前に、警察の人が君と話したいらしいんだ」
「私がママの彼氏を殺したから？」

お父様は首を強く横に振った。

「事故だ。遺体を確認した医師の僕が言うのだから間違いない。君は殺していない」
「本当に？」
「ああ、本当だ」

信じてくれとお父様が乞う。

「この病院の医院長だった妻の父は亡くなり、妻は2年前に先立った。今の僕は君のお母さんを犠牲にした僕じゃない。これからの人生を使って君を守る。必ず、どんなことをしてでも」

ジミーチュウのお星様。この屋敷は朝も昼も夜も、それを告げるのは太陽や月ではなくお父様だ。
　鞠花はカーテンの閉ざされた窓の向こう側を想いながら尋ねる。

「お父様。お父様は鞠花ずっと、ここで守ってくれるのかしら」

玄関のチャイムが鳴る。

お父様が携帯電話を確認し、首を傾げた。

「おかしいな。この屋敷に訪ねてくる者なんて、外商くらいだが」

目の前の真新しいパンフレットたち。

ヴヴヴ–––
　再び鳴らされるチャイム。

「もしかしたら稲垣かもしれない。やつはこの間、僕が年代物のワインを隠し持っていると勘付いてしまったんだ。まったくなんて鼻のいい。大方真っ昼間から飲みに来たんだろう」
「お父様」
「大丈夫。帰ってもらうから」
「鞠花は、ここから出られるのよ」

ヴヴヴ–––
　ヴヴヴ–––
　ヴヴヴ–––

チャイムを鳴らされる間隔がどんどん、どんどん短くなる。

「内田さん、内田さん、いらっしゃいますよね？」

開けてくださいと、知らない男たちの声がする。

この屋敷で、お父様は母を殺してくれた。

天井からぶら下がるシャンデリア。白い蛍光灯に照らされたお父様が握るナイフ。赤く、鈍く光る。大理石の床に崩れ落ちた母の表情。胸の左側から留めなく流れる血液。キッチンに飾られた大輪の薔薇の花。お父様と母は愛しあっていた。お揃いの色を纏うふたり。鞠花が座るスツールの猫足は磨かれた金属。

鞠花が望んだ光景そのものだった。
　今でもありありと、鮮明に思い出せる。

虚な目をしたお父様。

鞠花はお父様に笑いかけて、言ったのだ。

「鞠花は、あなたも許さない」

「鞠花、まさか」
「お父様は、紅葉を見られないわね」
「どうして。僕は君が望むままに」
「鞠花の望みは、鞠花じゃないと叶えられないの」

外で叫ぶ男たちの声が大きくなる。
「警察です。内田さん、開けてください」

連続で鳴らされるチャイム。

あのときと同じ顔をしたお父様。

「さようなら、お父様」

白痴 狂気について。

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